新生活(2)
それからいくらか経って、どこまでも果てしない青空には雲というものがひとつも見えない、本当に温かい日。
仕事を始めて数時間がたった頃、事務員から緊急だと呼び出された。
「何ですか?」
「奥様からお電話ですよ、産まれるって」
「え!?」
「すぐに帰りなさい」
そう背中を押してくれたのは社長とよく間違えられるほどに貫禄のある事務のおばさん。この職場が開店した時から居るらしく、物事もハッキリ言うからそう思われてしまうのかもしれない。
そんなことどうでもいい。今はそれどころじゃない。
「でも色々途中で……」
「あとは他の子にやらせとくから、後悔しないようにしっかり見届けてあげなさい」
三人もの息子さんを育てあげたという彼女に思い切り背中を叩かれ、ありがとうございますと何度も頭を下げて職場を飛び出す。
こんな時に限って道が混んでいる。
『頑張って! 今向かってるからな』
とりあえずメールだけ送ってイライラと信号を待つ。
いけない。慌てすぎて事故にでもあったらそれこそ後悔する。
無理くり深呼吸して気持ちを落ち着かせ、青信号とともに発進すると、それからはスムーズに道は進み、併設駐車場へ車を滑り込み飛び出した。
「波多野ですが妻はどこに!」
「ご主人様ですか?」
落ち着いた応対をする受け付けにやきもきしながらそうだと頷いてみせると、館内を手短に案内され会釈して院内を走った。
「危ないので歩いてくださいね」
「すっすみませんっ」
すれ違った看護師さんに指摘され、もう一度深呼吸して目的の部屋の前に立った。
「雪!」
「陽……くん」
苦しそうにベットの柵を掴む彼女は、俺の顔を見て一瞬だけ笑顔を浮かべると、また苦痛の面持ちでうんうん唸り続ける。
「だっ大丈夫か?」
大丈夫なわけないのに、動揺しているのかはたまた緊張しているのか、何度口を開いてもそれしか言葉が出てこない。
「ふふ……陽くんが、大丈夫?」
陣痛というものは波があるらしい。落ち着いたそのときに彼女は俺を安心させるかのように、額に汗を滲ませながらも朗らかな笑顔で話す。
「ごめん、緊張して」
「もうすぐ会えるね」
「そうだな」
そこからの出来事は想像以上に早かった。
突然また苦しみ出したかと思うと、顔を出した助産師という名札をつけた妙齢の女性が『こりゃ大変』と笑って駆け出した。
すぐに女医さんも現れ、慌ただしくなる室内で必死に彼女の手を掴み、荒くなる呼吸を一緒に整える。
「頑張れ頑張れ」
頭が出ましたよ、と言う女医さんや助産師さんの言葉に、どことなく笑顔を浮かべた気がする彼女の手をもう一度力強く握りしめた時、元気な産声が聞こえた。
「女の子ですよー、おめでとう」
室内に響き渡る元気な泣き声に俺も彼女も涙を流し、持ち上げられる我が子の様子にまたおいおい泣いてしまって、雪や助産師さんに笑われてしまった。
「雪、本当にお疲れ様」
「……ありがとう」
疲れ果てている彼女へ深々頭を下げてみせると、何故だか今度は彼女がボロボロ泣き始め、慌てて『ごめん』なんて言ってしまって互いに笑いあった。
腕の中で眠る我が子は本当に小さくて儚くて、触れれば壊れてしまいそうなほどに繊細で、おめでとうと笑ってくれる看護師さんに緊張しながらも、その温もりを感じる。
この子のためにも、もっともっともーっと頑張らなきゃ。
そう心に誓い、俺はその日以来今まで以上に仕事に没頭した。
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