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氷姫の結婚  作者: 黒瀬 かすみ
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31/34

ニ

 それから一度、別室で着物の乱れを直し、髪を整えた。

 かんざしの代わりは、ギーの小刀だ。

 何かないかと周囲を探していたすみれに、ギーがシャツの内ポケットからすっと差し出してきた。太さは人差し指くらい。長さは三寸ほど。柔らかな黒革に包まれていて、見た目には単なる棒に見える。

 ギーの尻尾はぶんぶんと振れていた。「怪我をするかもしれないから使うな」と言いつつ、彼の物をすみれが持っている、というだけで嬉しいらしい。


 尻尾の誤解がとけて本当に良かった。

 真逆の意味でとらえていたなんて、失礼にもほどがある。

 もっと早くギーに確認していれば、無用なことで思い悩んだりしなくて済んだのに、とちょっとだけ悔しい。


 若紫色の風呂敷に包んだ二段の重箱をしっかりと持ち直し、すみれは「萱嶋」と表札のある家の玄関の戸を叩いた。

 外の世界はすでに夜の帳が下りている。

 見える範囲の家の明かりは消えていた。住人達が避難しているのは本当なのだろう。

 今なら、たとえ最悪の事態が起こっても大丈夫なのだろうか。


 震える心から目を逸らし、玄関の戸を叩く。

 平屋建てのこぢんまりとした家だ。見取り図では、畳敷きの部屋が三つに台所と便所があるだけだ。風呂は近くの銭湯を使うらしい。庭は猫の額ほどに狭く、隣に並ぶ家がすぐ目の前に見える。

「ごめんくださいませ」

 すみれからは見えないけれど、護警官達が隠れてついて来てくれている。

 三森が隙を見せれば、すぐに確保できるように。


 しばらくして、足音とともに現れたのは青ざめた顔の老婆だ。ほつれた白髪が額にかかり、皺だらけの顔には生気がない。

 その首には、玄関燈を反射して白く光る短刀が押し当てられていた。

 短刀を持つのは、人間の男。

 刈り込まれた短い髪。痩せた体。胸元まで大きく開いたちりめんの袷を着ている。顔つきはげっそりと削げた頬に不自然な笑みが浮かんでいて、ひどく不気味だ。


「本当に人間の女を探して来たのか。入れ」

 酒焼けしたような、ひび割れた声だ。

 三森が顎で家の方を指す。

 短刀が揺れ、老婆が「ひっ」と短い悲鳴を上げた。

 がたがたと震える体は頼りなく、今にも倒れそうだ。


「その方と交代だと、聞いて来たのですが」

 すみれはとっさにそう言っていた。あまりにも老婆が気の毒で。

 笑みを浮かべる三森の右の眉毛が跳ね上がった。

 すみれは無言でその場から動かない。


 闇の中に佇む無表情の女に何を思ったのか、三森は唇を尖らせると、乱暴に老婆の背中を小突いた。

 たたらを踏んで三森の腕から逃れた老婆は、自分が解放されたことを知るや否や、叫び声を上げながら通りへと駆け出していった。


 それを見送っている暇はなかった。

「ついて来い」

 三森が乱暴にすみれの肩を押した。

 その瞬間、昼間、馬車に連れ込まれそうになった出来事が脳裏によみがえる。

 あまりに鮮やかなその記憶に、恐怖が背中を駆け上がった。


 すみれは反射的に体をよじって逃げようとした。

 しかし、逃げる隙は与えられなかった。

 その細い手首を、三森が掴んだからだ。


「大人しくしねえと、これが爆発するぜ」

 ねっとりとした笑顔に、何のことかと視線を下げて。

 すみれは悲鳴を飲み込んだ。


 三森のはだけた着物の中。

 爆弾の朱い筒がぐるりと彼の腹を囲っていたのだ。

 すみれの背後で、息を飲む音が聞こえた気がした。


「余所者からこの国を護る。その大義のためなら、俺はいつだって死んでいいんだからな」

 三森はすみれの背後を睨みつけた。

 隙を窺う護警官をけん制しているのだ。

 事実、この量の爆弾が爆発すれば、目の前の家だけではなく周囲の家々にも影響が及ぶだろう。

 なにより、すみれは絶対に無事には生きて帰れない。


 すみれの肩を乱暴に押して、三森は家の中に入った。

 玄関の引き戸が後ろ手にぴしゃりと閉められる。

 薄暗い家の中で、すみれは小突かれるまま、草履を脱ぎ散らかして三森の後に続いた。


 たどり着いたのは、台所のある板間だった。

 板間の中心にある囲炉裏には火がたかれており、部屋の中を煌々と照らしている。

 八畳ほどの板間を降りた土間にはかまどがあり、鍋が置かれていた。匂いがしないから料理は中に入っていないのだろう。

 ひんやりとした空間に、頭の中が幾分、冷静になる。


「それを置け」

 白く光る短刀で床を示され、すみれは重箱の包みをゆっくりと床に置く。

 三森が包みに飛びついた。

 風呂敷の結び目を解きながら、すみれを見上げた。

「お前、どこの誰だ」

「……明かしてはならないことになっています」

「護警官か」

「違います。あの、帰っても……?」

「駄目だ。このまま、ここにいろ」

 さすがに弁当を渡すだけでは許されなかったか。

 すみれは無駄な抵抗はせず、その場に正座する。

 表情も変えずに従った女を、三森がなめまわすようにじろじろと見た。


 やがて、すみれに反抗の意志がないことがわかったのか、三森はどかりと胡坐をかいた。

「漉防隊は危険思想だなんだと言われてるが、俺に言わせりゃ真っ当な組織だ。現人神が守るこの国に、獣人なんかを入れたのが間違いだったんだ。そのせいで、大陸の国からも開国しろとせっついてくる。我が国は完璧なんだ。余所者が入る余地などない」

「そうですか」

 両手を揃えて座るすみれは、静かに答える。


 人質のあまりにも落ち着いた様子に、更に演説に力を入れようとしていた三森は不意に顔をしかめ、重箱の蓋を開けた。腹が鳴ったらしい。

 一段目はきんぴらや煮物などのおかず。二段目が大きな握り飯。漬物が添えられていて、囲炉裏の炎がちらちらとコメを輝かせている。


 三森の表情に喜色が浮かんだ。

 しかしすぐにそれを誤魔化すように、咳払いをしてすみれを見る。


「ちっとも怖がらねえな。胆が据わった女だ」

 背筋を伸ばし、黙って座るすみれは一幅の絵のようだ。

 静かなその瞳には感情などいっさいなく、ただ黙って睫毛を伏せている。

 三森は胡坐をかき、重箱に手を伸ばした。

 しかし、すぐにその手はぴたりと止まる。


 三森は思案するように、浮き出た無精ひげを撫でた。

 そして。

「おい、この重箱の中身、食べてみろ」

 下から覗き込むようにして、すみれに短刀を突きつける。

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