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氷姫の結婚  作者: 黒瀬 かすみ
真実
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28/36

三

 小屋の外では、人間の騒動など知らぬ虫達が軽やかに鳴いていた。

 陽が沈む。

 見上げれば東の空はすでに濃紺色に染められ、西の空にわずかに橙色を残すだけになっている。

 どこからともなく漂ってくる甘い匂いは、コデマリだろうか。


 ギーはすみれを抱え込んだまま、紅葉の木の根元に座った。土の地面はひんやりとするが、獣人たるものこれくらいは平気だ。

「寒いか」

「いえ……」

 応える声がか細くて、ギーはぐっと奥歯を噛む。


 すみれの体は本当に軽くて、頼りない。

 人間の女性がこれほどまでに小さく細い存在なのか、すみれだから特別なのかと、少しだけどうでもいいことを考える。

 その小さい頭をそっと自分の胸に当て、温める。

 少しでも、冷え切った心に熱が戻るように。


「怖い思いをさせて、すまなかった。周りは護警官だらけだから、屋敷に戻るより俺の傍にいた方が安全だと思った」

 訥々と、ギーは呟く。

 すみれからの返事はなかった。

 それでもいい。

 腕の中に、すみれがいてくれたらそれで。


「君を襲った奴らは必ず捕まえる。命令した輩もつきとめる。二度と手出しはさせない」

 すみれだけに聞こえるように、抑えた声で囁く。

 彼女が少しでも心穏やかに過ごせるのなら、何だってする。

 その、覚悟がある。


 少しの沈黙の後、すみれの薄い唇が動いた。

「……必ず、職を見つけて出て行きます。それまで、しばらくはお屋敷に置いてもらえませんか。情けなくも、すぐに留まれる場所がなくて」

「出て行く? なぜ」

 感情のこもらないその細い声に、ギーは眉間に皺を寄せた。


 すみれはギーの問いには答えず、淡々と続けた。

「女学校に行って、教師として復職しようと思っていました。でも、できませんでした。教師より割のいい仕事を見つけるには、わたくしは何も持っていなくて」

「教師役なら、若い護警官の面倒を見ているだろう。皆が喜んでいる」

「ですが、お金は稼げません」

「それは気が利かず、すまなかった。授業料を取ってくれ。そのくらい、奴らに給料は払っている」

「学ぶ気概のある子からお金など取れません」

 すみれがふるりと首を振る。

 薄闇の中、艶やかな黒髪がさらりと流れた。


 夜の気配に冷やされた風が、通り抜けていく。

 噛みあわない会話に、ギーは困惑してすみれの顔を覗き込んだ。

「すみれさんは、金に困っているのか」

 のぞきこむと視線は合わないが、黒々とした瞳が潤んでいるのがわかる。

 平坦な声とは裏腹に、思い詰めているのか、ギーの上着を握る細い手は白くなるほど握りしめられている。


 痛々しいその様子に、ギーは慎重に言葉を選んだ。

「支払わなければならないものがあれば、俺が払う。いくらほしい?」

 成金の発言のようで我ながら下品だと思ったけれど、すみれを引きとめることができるのならなんだってするつもりだ。

 これでも護警官筆頭隊長。金を積むなど、造作もない。


 すみれは俯いた。

 ギーは辛抱強く待った。

 彼女の中には言葉がある。

 待てばきっと、教えてくれる。


「皆さんは、知っているのですか」

 しばらくして、すみれがぽつりと呟いた。

 擦れた声だった。

「何を」

「わたくしが、お金と引き換えにあなたに嫁いだことを」

「は……?」


 予想もしなかった言葉に、ギーの反応が遅れた。

 すみれが勢いを得たように、声を震わせながら矢継ぎ早に言う。

「父の事業のことなんて、知りませんでした。失礼なことをして、大変申し訳ありません。できるだけ早く、お金はお返ししますので」

「ちょっと、待って」

「わたくしにできることなど限られておりますが、せめて旦那様の目障りにならないようにします。ですので、今しばらくはお屋敷においていただけたらと思います。新しい方が見つかれば、すぐに出て行きますので」

「すみれさん」

「父にも話をするつもりだったのですが、実家に行く前に襲われてしまって。我が家からも詫びの品を」

「すみれさん、待て!」

 ギーはすみれの肩を掴んだ。

 すみれの体が強張る。

 でも、そんなことに構っていられなかった。


「何か誤解があるようだ。ちゃんと話し合おう」

 意味が分からない。何がどうして、すみれがそう思うに至ったのか。

 ギーは喉の奥で低く唸った。

 しかしすぐ、すみれの密やかな声が聞こえた。

 それは鈴虫の羽の音よりも微かに、小さく。

「お話し合いもなにも」

 息を吸う音が、やけに大きく聞こえる。

「旦那様は、お屋敷に帰ってこられないではありませんか」


 ギーは息を飲んだ。

 平然を装った、その声の裏に響く悲痛。

 必死に取り繕うとして、それができずに、すみれの瞳から透明な雫がほろほろと零れ落ちる。

 慌てて拭おうとするその細い手を、ギーはとっさに大きな手で握った。


「すまない」

 剣だこのある固い自分の手とは違う、柔く白い手。

 触るのもためらわれるくらいに神聖で、大切な人。

 絶対に傷つけてはならない存在だと、心に誓っているのに。


「君に、心から謝罪する。傷つけて、申し訳なかった」

「傷ついてなんて」

 涙声の相手を深く懐に抱き込み、ギーは頭を下げる。

 今、正直にならずしていつ打ち明けるのだ。

 大切な人が悲しい思いをしているのにその憂いを晴らさずして、何が男だ。


「俺は、君に嫌われるのが怖かった。劇場で戦う姿を見てきっと、君は俺のことを恐ろしい獣だと思っただろう」

 すみれに声をかけたとき、彼女は怯えた目をして後退りをした。

 無理もない。

 護警官にとっては当たり前の日常であっても、善良に生きてきた人間には刺激の強すぎる光景だったに違いない。


 愛しい人の密やかな呼吸音に、全神経を集中させる。

 すみれが、絞り出すように囁いた。

「あのときは、ただ、びっくりして……でも、あなたは私達を守ってくれたこと、理解しています」

 その素直な言葉に、歓喜する自分がいる。

 震える体を、ギーはぎゅっと抱きしめた。

「ありがとう。情けないことに俺は……君から嫌悪の言葉を聞くのが嫌で、君の顔を見られなかった」

 自分で言っていて羞恥を覚える。

 初等学校の子供さえ、これほど情けないことを言わないだろう。

 好きな子から向けられるであろう拒絶を想像するだけで、屋敷に帰る勇気がなかった、なんて。護警官の筆頭隊長が、聞いて呆れる。


「あなたがお屋敷に帰ってこなかったのは、わたくしに拒否されるのが怖かった、から?」

 すみれの声はかすれて、聞き取りづらかった。

 しかし、ギーの獣の耳は聞き逃さない。

「……そうだ」

 素直に認めるのは、勇気がいる。

 情けないと、わかっているからなおのこと。


 でも。

 間違えてはいけないのだ。

 ギーの第一はすみれだ。

 すみれを安心させるためなら、いくらでも心を差し出して見せる。

 

「俺は、君に嫌われたくない」

 腕の中の温かな宝物に、希う。

「嫌いになんて」

 呆然としたすみれの呟きは、信じられない、と言外に言っている。

 絶対に、信じて欲しいと思う。


「ずっと、すみれさんが好きだった」

 ギーはすみれの心に届くように、正直に告白した。

「子供の頃、すみれさんに救われた。ひと目ぼれだった。獣人が人間になんて、バカなことだと思うだろうが、すみれさんは俺の憧れであり、どうしても一緒になりたかった」

 羞恥や照れを感じている場合ではない。

 ただでさえ、獣人と人間で身分が違う。

 この瞬間、共にあることさえ奇跡なのだから、少しでもすみれの心を軽くすることがギーにできる一番の優先事項だ。


「義父上に承諾を貰いに行ったとき、罵倒された。大切な娘が獣人に嫁ぐなど許さないと。でも、諦めたくなかった。仲介人を立てては誠意が伝わらないと思って、自分の足で何度も。ときに仕事場にも押しかけてしまった。迷惑だっただろう」

 すみれの父の渋面は、最後まで笑顔に変わることはなかった。

 それはそうだろう。人間と獣人。それも松葉家は貴族位を金で買うほどの商家だ。

 山瀬家は歴史ある獣人の家系で、ギーは護警官として獣人としては最高位の祥果大綬章を貰っているが、それだけだ。


「承諾が貰えたときは嬉しくて、部下全員に寿司を振る舞った。君が『仲良く』と言ってくれた日は、嬉しくて眠れなかった。笑ってくれ」

 自分が恥をさらしても、すみれの笑顔が見たかった。

 百合の花が綻ぶように、凛として、匂い立つように美しい笑顔が。

「待ってください」

 不意に、すみれが固い声を上げた。

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