第77話「訪問者」
時事ネタ?社会風刺?いずれにしろ、この作品はフィクションであり、実在の企業・団体・個人とは一切関係ありません。キリッ
2026年10月下旬。東京。内閣官房。
珍しい訪問者が来た。
トヨダ自動車の樋田昭雄会長だった。
秘書が先触れを入れてきた時、橘は少し間を置いた後に「通してください」と言った。
会議室に通された樋田が向かいに座った。七十代、白髪で背筋が伸びていた。日本最大の製造業の創業者一族——その顔つきは穏やかだったが、目だけが鋭かった。
「お忙しいところ失礼します」
「いえ」と橘が静かに答えた。「どのようなご用件ですか?」
「我々にも防衛産業でお手伝いできることはありませんか?」
橘がしばらく樋田を見た。「特にはありませんよ。トヨダさんは今のところ世界最大の自動車メーカーさんではないですか。国が買えるほどの内部留保を持ち、米国にも莫大な資金を投じて工場建設をなさっている。ウーブンシティではずいぶん都合よく官僚を使われたあなたにこちらから提示できるものなどありませんよ」
樋田が少し笑った。「これはまた、痛いところを突かれますね」
「いえいえ、事実ですし、すでに日本の企業として非常に貢献されている。私などのところより、総理のところへ伺った方が宜しいのでは?」
「そんなに冷たい事を仰らなくても、何かご気分でも害されましたかな?」
「いえ、そんなつもりは無いのですが——」橘が少し間を置いた。「私はこう見えて御社LEXUSブランドのLC500hを所有してるのです」
樋田が止まった。「そ、そうなのですか? 私にそのような情報は上がっていなかったので——」
樋田が隣の秘書を睨んだ。秘書が小さく縮んだ。
「でも、今は手放すか、どこかで数十年保管をするか悩んでます」
「いや、ぜひ乗って頂いて——なんでしたら、GR-GT3でも優先販売いたしますよ?」
橘がしばらく樋田を見た。「——それですよ」
「はい?」
「GR-GT3をLEXUSブランドで出すというのは——既存のLEXUSオーナーへの侮辱だと思いませんか?」
樋田が少し表情を変えた。
「F-SPORTがあるでしょう。LCの色気と高級感を求めてショールームに来たお客様に、バケットシートのサーキット仕様を勧めるのですか? 樋田会長はガソリン臭いレースカーがお好きで、GRブランドを立ち上げられた。それ自体は素晴らしいことです。でもラグジュアリーブランドとして長い時間と莫大な資金をかけて育てたLEXUSに、スパルタンなサーキット仕様を持ち込むのは——LEXUSオーナーが求めているものと真逆です。スポーティさを求めるお客様にはF-SPORTがある。LCのような色気と高級感を求めるお客様には全く別の世界が必要です。そこにバケットシートの車を売るところではないでしょう」
樋田がしばらく黙った。
「それと——」橘が続けた。「LEXUSの顧客満足度は現行LS以降下落してますよね? 整備予約等でも苦労してます。何のためにラグジュアリーブランドを買ったのか——」
「いや、それは皆さんが買って下さるおかげで今までのサービスレベルには人員が追い付かなく——」
「ま、これ以上は言いません」と橘が静かに続けた。「トヨダ自動車さんはそもそも1強によって、ブランドイメージの低下やサービスレベルの低下が起きています。気づきませんか? あなたも日産崩壊の初期の状況を知ってるはずです」
樋田の顔色が少し変わった。「そ、そんなことを言ってくれる者は社員にも経営陣にもいませんでした」
「ですので——」橘は静かに言った。「トヨダさんはずっと体力がありますので、日産のように国有化にならないように健全な経営を続けていただく事が我々政府に対する最大限の助力となります」
樋田がしばらく橘を見た。「承知しました。本日は帰ります」
立ち上がった樋田が扉に向かいながら振り返った。「——一つだけ聞かせてください」
「どうぞ」
「LC500hのコンバーチブルはお持ちではないのですか?」
橘が少し間を置いた。「——家内がLC500のコンバーチブルに乗っています」
樋田が頷いた。「奥様はどのようなお仕事を?」
「——自営業です」
それ以上は言わなかった。
樋田が秘書を見た。秘書が首を振った。
樋田が少し笑った。「——肝に銘じます」
扉が閉まった。
廊下で樋田とすれ違った城島が部屋に入ってきた。「——誰だ?」
「トヨダ自動車の樋田会長だ」
城島が止まった。「——何の用だ?」
「防衛産業で手伝えることはないかと言ってきた」
「何と答えた?」
「特にないと言った」
城島がしばらく橘を見た。「——それだけか?」
「LEXUSのサービス改善をお願いした」
城島が少し間を置いた。「——お前、LEXUSに乗ってたのか?」
「LC500hだ」
「——意外だな。それと奥さんがいたのか」
「そうだ」
「どんな人だ?」
「——自営業だ」
「それだけか?」
「そうだ」
城島がため息をついた。「——お前は本当に怖いな」
橘は答えなかった。冷めたコーヒーに手を伸ばした。飲んだ。やはり冷めていた。
その夜、橘のスマートフォンが鳴った。嫁からだった。
「昨夜ね、西波元総理と何名かの自民党衆議院議員が来て——なんか、高道さんが外交で変なことやってんじゃないかって情報収集に大金積んだけど、大泉さんや小田さんが何も教えてくれないって話をした後、人払いされちゃって。三菱商事の取締役の方が同席してなんかこそこそやってたわよ? あなたの名前も出てたし。大丈夫?」
橘が少し間を置いた。「——大丈夫だ」
「ほんとに? 西波さんって怖い顔してたわよ?」
「問題ない」
「ならいいけど——あ、それとトヨダ自動車の秘書さんって方も来てたわよ。会長が内閣官房に行ったって言ってたけど、何か揉めた?」
「——揉めていない」
「LEXUSのこと言ったんじゃないの?」
「少し言った」
電話の向こうでため息が聞こえた。「——もう、お店のお客様なんだから失礼なことしないでよ」
「事実を言っただけだ」
「それが失礼って言うのよ——LC500のオープン、今日ちょうど整備から戻ってきたわよ。調子よかったって」
「そうか」
「たまには一緒に乗る?」
橘が少し間を置いた。「——考えておく」
電話が切れた。
橘はしばらくスマートフォンを見たままだった。
西波元総理と三菱商事の取締役——人払いをして何を話したのか。
城島に短いメッセージを打った。「西波が動いている。三菱商事と接触した可能性がある。確認してくれ」
すぐに返信が来た。「——分かった」
翌朝、三菱商事から城島に回答が来た。
「ウチは商社です。小金を要求するだけでなんら利益に寄与する連中には情報も渡していません。ただ、橘参事官のお名前は出たので時々名前は聞くとだけ答えて濁してあります」
城島が橘に転送した。
橘が読んだ。
「——さすが三菱商事だな」
「そうだ」と城島が続けた。「水島老人の一蓮托生はこういう時にも効くな」
「そうだ」
「西波の次の手は何だと思う?」
橘が少し間を置いた。「——まだ分からない。泳がせておけ」
「——了解した」
同じ頃。ジブチ。アデン湾展開の最終日。
夜明け前。
「右舷、RPG!」とカルロスが叫んだ。
ケイラが即座に叫んだ。「速力一杯!全速前進!」
LM2500が唸った。隼1番艦が急加速した。海面を掠めるように走った。
RPGが艦尾を掠めて海面に落ちた。爆発の水柱が上がった。
「——速度で振り切れましたね」とジェイクが息を呑んだ。
「そうだ」とケイラが静かに言った。「でも——今日で終わりだ」
「——ジブチに帰れますね」
「そうだ」
ケイラはスクリーンを見たままだった。後方から第三部隊の5隻が近づいてきていた。交代だった。
「全艦、第三部隊に引き渡し手続きを開始。ジブチに戻る」
数時間後。ジブチ。FEPA基地。
ケイラが桟橋に降り立った。
基地に入る前に、一度立ち止まった。
宿舎エリアを確認しに行った。
エントランスに入った瞬間、完全冷房の空気が包んだ。大理石の床、間接照明——熊谷組が仕上げたブルガリホテル並みの空間が広がっていた。
屋内植物園に足を向けた。
グランドカバーが青々と広がっていた。低木はしっかりと根付いていた。中高木の植林作業がまだ続いていたが、小さな噴水がすでに稼働して水の音が響いていた。
「——ここなら連れてこられる」とケイラが小さくつぶやいた。
スマートフォンを取り出してエマにメッセージを打った。
「明日、空港で待ってるよ」
すぐに返信が来た。
「やったー!!!サラも大喜び!ジーンおばあちゃんも楽しみにしてる!!!」
ケイラが少し笑った。久しぶりに自然と笑えた気がした。
翌日。ジブチ国際空港。
到着ロビーでケイラが待っていた。
扉が開いた。
「ママ!!!」
エマが走ってきた。サラが続いた。義母のジーンがその後ろからゆっくりと歩いてきた。
ケイラが両腕を広げた。
エマとサラが飛び込んできた。三人が砂漠の熱風の中で抱き合った。
「——暑い!」とサラが言った。
「ジブチだからね」とケイラが笑った。
ジーンが近づいてきた。「ケイラ、元気そうでよかった」
「はい。ありがとうございます」
「痩せたんじゃない?」
「——そうかもしれません」
ジーンがしばらくケイラを見た。「顔色はいいわ。働いてる顔してる」
「そうですか」
「——そうよ」
FEPAホテルのエントランスに入った瞬間、四人の空気が変わった。
「——ここはジブチよね?」とジーンがつぶやいた。
「そうだよ、ジーン」
「エアコンが——完璧ね」
「うん」
エマが走り出した。「噴水!噴水がある!」
サラが植物を触った。「葉っぱが本物! 砂漠なのに!」
「屋内植物園があるんだよ」とケイラが言った。「まだ育ててる途中だけど——」
「十分すごいわよ」とジーンが言った。「これを砂漠に作ったの?」
「田中現場所長が作ってくれた」
「——誰?」
「鹿島建設の人。ここをずっと建ててくれてる人」
ジーンがしばらく植物園を見渡した。「——その人にお礼を言いたいわね」
夕方。飲食店街。
サラがモスバーガーのポテトを食べていた。エマが回転寿司のカウンターを眺めていた。ジーンがラーメンを食べていた。
「——日本のラーメンって本当においしいのね」とジーンが言った。
「ジブチのラーメンだよ」とケイラが笑った。
「同じじゃないの?」
「同じかもしれない」
エマがケイラを見た。「ママ、明日はプールに行きたい」
「行こう」
「それと屋内植物園の噴水のところで写真が撮りたい」
「撮ろう」
サラが続けた。「マグノダルドも行きたい」
「モスバーガーのこと?」
「うん。さっきのとこ。もう一回行きたい」
ケイラが少し笑った。「明日も開いてるよ」
ジーンがケイラを見た。「ケイラ」
「はい」
「ここでの仕事、大変だけど——顔つきが変わったわよ」
「そうですか」
「最後に会った時より——しっかりしてる。誇らしいわよ」
ケイラがしばらくジーンを見た。「——ありがとうございます」
窓の外にアデン湾が広がっていた。夕陽が海を赤く染めていた。
はやぶさ改の艦影が遠くに見えた。
今頃、第三部隊がアデン湾を警備しているはずだった。
ケイラは少し口元に笑みを浮かべた。
「——もう少し、頑張れそうだ」と小さくつぶやいた。




