第35話「スマートドック」
時事ネタ?社会風刺?いずれにしろ、この作品はフィクションであり、実在の企業・団体・個人とは一切関係ありません。キリッ
2025年11月下旬。広島県・呉市。
JMU呉造船所。
橘慎一郎がゲートを入った時、最初に気づいたのは音の少なさだった。
かつての造船所とは違う。
溶接の轟音、鉄を叩く音、職人たちの怒鳴り声——そういうものがない。
あるのは低い機械音と、風の音と、海の匂いだけだった。
城島哲也が隣を歩いていた。
「静かだな」城島が言った。
「そうです」案内役の理化学研究所の担当者、田島が答えた。四十代の細身の男だった。「音が少ないのは、溶接ロボットが超音波溶接を主体にしているからです。火花が出ない。煙も出ない」
橘は巨大なドックを見上げた。
全長三百メートル。再稼働させた休止ドックだ。
でも中身は別物だった。
天井にレールが走っていた。そこに無数のアームが吊り下がっていた。溶接アーム、切断アーム、計測アーム——それぞれが独立して動いていた。
「あれは」橘が聞いた。
「富岳から指示を受けたロボットアームです」田島が答えた。「ドックの改修設計段階から富岳が稼働しています。設計から施工管理まで全工程を富岳が制御しています。リアルタイムで設計データと現物を照合しながら作業しています。誤差は0.1ミリ以下です」
城島が止まった。
「0.1ミリ」
「はい。従来の熟練工でも0.5ミリが限界でした」
「現在は何を建造していますか」橘が聞いた。
「今治造船の下請けとして、海上保安庁の小型巡視船です」田島が答えた。「本格稼働前のドック設備の確認と最適化を兼ねています。船体が完成すれば今治に返せます。その後すぐにドックを空けられます」
「スケジュールは」
「三ヶ月以内に引き渡せます」
ドックの端に、ガラス張りの管制室があった。
中に入ると、巨大なモニター群が壁一面に広がっていた。
船体の三次元モデルが回転していた。色分けされた部位が光っていた。緑は完成、黄色は作業中、赤は未着手。
「これが——」橘が言った。
「デジタルツインです」田島が答えた。「現在ドックにある船体の完全な仮想複製です。富岳が一秒ごとに現物と照合しています」
「何のために」
「溶接の品質管理と、応力分布の監視です」田島はモニターを指した。「あの赤い部分、見えますか」
船体の一部が赤く点滅していた。
「鋼材の内部応力が設計値を超えそうになっています。富岳が検知して、溶接順序を自動で変更しました。人間が気づく前に修正が終わります」
橘はしばらくモニターを見ていた。
「理研とNECの役割は」
「理研が富岳のアーキテクチャと演算最適化を担当しています。NECが現場センサーのネットワークと、ロボットへの指示系統のソフトウェアを担当しています」田島は続けた。「両社が常駐チームを置いています」
「人間は——」
「判断と管理だけか」橘が言った。
「ただし——」田島が続けた。「すべてが自動化できるわけではありません」
「どこが残る」
「スクリューの最終仕上げ研磨とバランス調整。シャフトの芯出し——これは今でも職人の手作業です。富岳が設計値を出して、計測で補助しますが、最後の判断は人間にしかできない」
城島が頷いた。
「0.01ミリ単位の世界か」
「そうです。振動と音で状態を判断する。機械には代替できない感覚です」
橘が静かに言った。
「それが日本型だ」
田島が橘を見た。
「そうです」田島は静かに言った。「AIが設計して、ロボットが組み立てて、人間が仕上げる。役割分担です」
管制室の奥に、五人の作業員が座っていた。
全員がモニターを見ていた。キーボードを叩く者はいなかった。
「彼らは何をしているか」城島が聞いた。
「異常検知のモニタリングです」田島が答えた。「富岳が自動で判断しますが、最終的な施工承認は人間が出します。一日に平均三回ほど判断が求められます」
「三回だけか」
「はい。あとは富岳が全部やります」
城島が橘を見た。
橘は管制室の窓から、ドックを見下ろしていた。
ロボットアームが静かに動いていた。
溶接の火花はなかった。煙もなかった。
ただ、鋼材が形になっていた。
「はやぶさ改の建造期間は」橘が聞いた。
「500トン型で、従来工法なら十八ヶ月です。このドックでは——」
「どのくらいか」
「五ヶ月を目標にしています」
橘が計算した。
「三ドック同時稼働なら——」
「年間七隻から八隻です。今治と川崎を合わせれば——」
「年間二十隻以上になる」
「そうです」田島は少し間を置いた。「それと——将来的な話ですが」
「聞こう」
「富岳NEXTが稼働した段階で、現在の富岳をスマートドックとAI開発の専用機として経産省に移管する計画があります」
橘が頷いた。
「牧野が動いている案件だ」
「ご存知でしたか」
「最初から入れてある」
田島が少し目を丸くした。
城島が苦笑した。
「橘さん、全部最初から設計してあるんですね」
橘は答えなかった。
視察が終わった後、田島が橘に近づいた。
「一つ、ご報告があります」
「聞こう」
「09計画向けに建設資材と重機、技術者が優先的に回されています。その結果——能登の復興工事を担当している建設会社から、国交省に苦情が上がっています」
橘は少し間を置いた。
「村田次官は知っているか」
「報告は上がっています」
橘はスマートフォンを取り出した。村田に電話を入れた。
「村田さん、能登の件です。復興工事の優先順位を整理してください。09計画との資材・人員の調整を——」
電話の向こうで村田が静かに答えた。
「分かりました。ただし橘さん、都市集約が進んでいない地区への分散投資の問題は——」
「総務省に任せます。あちらはすでに方針を持っている」橘は続けた。「問題は国民がそれを知らないことです。正しく発信させます」
「了解しました」
橘は電話を切った。
城島が静かに言った。
「冷たいな」
「冷たくない」橘は静かに言った。「3.11の時、無制限に復興予算を積んだ。執行率は低かった。200年かけても元が取れない場所に予算を投じても、誰も救われない。熊本以降、国は少しずつ学んできた。能登も同じだ」
「それを被災者に言えるか」
「言えない」橘は窓の外を見た。「だから総務省に言わせる。国交省には現場を整理させる。それだけだ」
城島はしばらく橘を見ていた。
「神田議員にも話を通した方がいいか」
「通しておいてくれ」
呉の海が、夕陽に赤く染まっていた。
ドックの奥で、職人が一人、スクリューの前にしゃがんでいた。
砥石を手に持っていた。
ゆっくりと、丁寧に、金属の表面を撫でていた。
富岳が計測値を出す。ロボットが組み立てる。
でも最後は、この手が仕上げる。
ドックの中で、ロボットアームが静かに動き続けていた。
かつて戦艦大和を建造したドックの末裔が、今、スーパーコンピュータと職人の手で動いていた。
橘はコートの襟を立てた。
冷めたコーヒーが飲みたかった。




