51.半魔にとっての正答。
「エンヴィー!!エンヴィー!!ちょっと!今エンヴィーなにやった?!!」
「……………………」
阻害魔法を展開するままに、ラウナは呼びかける。
エンヴィーが目を覚ましたと思ったのも束の間、弱体も構わず魔法を展開し、そしてまた意識を手放した。ただでさえ魔力も生命力さえも教皇に吸い上げられた後の彼女が、魔法など使えば倒れるのも当然だった。
自分の視界からは魔法反応しか捉えられなかったラウナは間にいたアクセルに呼びかけるが、彼もまた答えない。自分の手の平に浮かび上がっていた召喚魔の譲渡魔法陣が、次第に薄く薄く消えていくのを凝視しながらその意味を彼自身も考える。
回復魔法ですらない、たかが小梟の召喚魔を譲られただけの身に変化などない。聖女の傍で按じるように羽をパタつかせていた子梟の召喚魔が、自分の肩に飛び移っただけだ。
召喚魔にとって、いくら懐いていようとも所有者のもとに身を置く。しかし、前の所有者との記憶が消えるわけでもない。今もアクセルの肩にとまりながらもその視線は倒れ尽きた聖女に向き、ピィピィと哀しげに鳴いていた。
今の今まで聖女の肩かその傍に飛び回っていた召喚魔を、アクセルは一度も気にしたことはない。エンヴィーが神聖魔法を使う時でさえ、子梟から目立った動きなど一つも見られなかった。そして持ち主の危機にさえ、たかが教皇相手にも攻撃魔法の一つも使えずに飛び回っていただけの脆弱な召喚魔だ。それでも、エンヴィーが自分の危機に最後の力を振り絞って譲ってきたことに、意味はある筈だと考える。
「おい」と、短く呼んだ。所有者の呼びかけにモイはひと鳴きすると、パタパタとアクセルにむけて翼をはためかす。所有者と召喚魔は意思疎通ができる。それを知るアクセルは、抑揚のない声で小さな梟を両目に捕らえた。
「……何ができる?」
所有者の問いに、召喚魔は忠実に答える。
前所有者との約束など関係ない。エンヴィーに命じられていた通り自分の持てる唯一の能力を隠し続けていたモイは、すんなりとその力を解放した。
聖女に明かした時と同様に、その姿を当然のように聖典へと変えた。
眩く光り輝く書物にラウナが思わず目を絞る中、アクセルは逆に瞼を無くすほど目を見開いた。
自分の眼前に浮かび神聖なる魔力を放つ書物を、意識するよりも先にその両手で掴み取る。開く前から疑う余地もない。伝説と呼ばれる魔道具〝聖典〟が、今自分の手の中にある。
口を半開きのまま固まったアクセルは、瞬きをしなかった。手だけを無我夢中に動かし、微弱に震える指で頁を捲る。表紙を開けば、最初に浮かび上がったのは古代文字だ。自分がこの百年で習得した文字だ。本来、読める人間も一握りであるその文字に、自分は読めると認識した瞬間に鼓動が早まった。
『古代文字……?』
『知ってんのか。凡族でも聖女か』
『!読っ………読めないですけど!し、しし知ってます!』
聖女が何故そう驚いたのかを、今理解する。
己が半魔が呪いと信じ、解く方法を探した。神聖魔法こそが手段と信じ、自分でも神聖魔法の書を読み漁った。古代まで紐解き当時の文字を解読してまで読み込んだ。
己が手で魔道具の最古究極形態である聖典を作り上げる為に、百年近い年月をかけた。まるでその全てが無駄ではなかったのだと証明されるような感覚に、血流が激しく血管を駆け巡る。止血をされない左腕からどぷりと血が溢れ、床に横たわる聖女の衣服を赤に染めた。
指で文字を辿り、最初の一頁から読み解く。興奮のあまり黄金の瞳が今は赤と黒の魔眼に変わっていた。息も浅く、書面にかかることを恐れながらもアクセルは聖典へ顔を近づけ離せない。
最初の一頁から、記載された言葉は本来衝撃だった。所有者となった者へ向けた一文は。
〝汝に無限の魔力を与えん〟
やっぱりか、と。最初から想定できていた真実に、一瞬だけアクセルの思考が冷える。
聖女の魔力がおかしいとは思っていた。彼女の尋常ではないあの力は本人の魔力ではなくこの聖典の力なのだと。そして今、聖典を手放した彼女には教皇が魔力を奪うほどの価値はない。大元は聖女ではなく、聖典だったのだから。
つまりは次、継承魔法が再開されれば終わるのもまたすぐだ。彼女はもともと、時間をかけて奪うほどのものを持っていない。教皇が望んだ甚大なる魔力も、そしてその根源となるアクセルが望んだ聖典も全て手放した。
聖典を見つけ出した者への賛辞、聖典を作り上げられた所以とそして封じざるを得なかった経緯。その文面を、アクセルは文字の表面だけなぞり読み飛ばし出す。
パラリパラリと頁を捲りながら、もう誰の声も聞こえない。ラウナの怒鳴り声も脳に通らず、念願の聖典を前に魔眼を更に血走らせる。経緯も相応しき者も製作者の理想もどうでも良い。
そんなことよりも自分が欲しいのは人智を超える魔法だ。たとえばこの身をまともなエルフの身体に作り変えてくれるような、禁忌と呼ばれる魔法すら無効化できるような、……たとえばこの、利用され祭り上げられただけだった少女が、地下聖堂に封じられていた自分に辿り着けたような奇跡を起こす
〝過去の修正〟
ピタリ、とその文字を捉えた瞬間にアクセルの指も呼吸も思考も止まった。古代文字を解読することすらできなかった聖女が成し遂げた大魔法。聖典にはその詳細まで記載がされていた。
所有者にのみ与えられる祝福。清き神聖魔法の使用者にのみ許されるこの聖典で歴史の過ちを修正せよと、神聖魔法至上主義の人間の文面にアクセルが一瞬だけ眉を痙攣させる。
人間族と異なり、神聖魔法の才能が珍しくないエルフ族である自分はよく知っている。神聖魔法を使える人間全てが善ではないことを。
浄化の力、神の力と呼ばれる神聖魔法を使え、その上で清廉な人間などたったのひと握りだ。そして、……その中の一人が今、甚大な魔力の存在を知った神聖魔法最高峰機関の頂点に立つ教皇にその命すらをも吸い尽くされようとしている。
反吐が出る感覚に、一瞬また目が冷める。バラバラとめくり手が遅くなる。途中からは白紙が続いたところで、文量は少ないのかと頁を戻す。過去の修正、その記載まで戻り読み直す。エンヴィーのように過去に戻るならば、どうやって戻るのか。時間は選べるのか、条件はあるのか、と。それすらもまだ自分はエンヴィーから聞き出していなかった。
〝選ぶが良い〟
まるで、聖典そのものに語り掛けられるような錯覚をアクセルは覚える。
文面を辿れば辿るほど、過去の修正は単純な特典ではなかったと理解する。過去の修正はたったの一度で、しかも修正方法も二種類ある。一つは自らが過去へ戻り修正する、聖女と同じ方法。そしてもう一つは。
〝この頁にて書き換えよ〟
「……………ハハッ。……」
枯れた、中身のない笑いがアクセルの口から溢れた。聖典の白紙がどういう意図なのかを理解する。聖典を開いた時のギラついた目の輝きが、今は酷く澱み、濁った黄金色へと変わっていく。
『……もしも〝過去に戻れる聖典〟とかあったらどうしますか?』
過去を書き換える。そんなふざけた話が、今自分の手の中にある。
一体どうやってこの聖典を手に入れることができたのか、聖女との旅の経験もないアクセルにはわからない。だが、所有者にさえなってしまえばあまりにも呆気なさすぎる方法だ。白紙に記載し、そして魔法を展開すれば良い。
ささくれを治す程度の感覚で、過去を無制限に塗り変えられるという事実に驚愕を通り越し、どこか落胆にも近い感情がアクセルの胸に渦巻いた。
白紙に戻り、書面を指でなぞればペンが表出する。
書けと、そう言われているような感覚に頭が酷くグラついた。この状況で、自分に何を望めというのか。
─ そうだこれが欲しかった。
カリ……
ペンを、走らせる。先端で白紙をなぞるだけでインクも要らずに綴れてしまう。書き心地が良く、どこまでもどこまでも指が動き滑る。
「なにやってるの!」「それどころじゃないわよ!?」とラウナの悲痛な叫びも届かない。長年自分が欲しくて欲しくて希った願いを叶える魔導具が、今自分の手にある。ふわふわと平衡感覚を失いかけながら、身体が恐ろしく軽く、そして酒に溺れるかのように胸が高揚する。「ハハハハハハッ……」と溢しながら慣れた手つきで望みを綴る。……慣れているに決まっている。自分は、百年近く続けていたのだから。
『まずは魔物ぶっ殺してむしろ滅亡させてエルフが踏み躙られた歴史から……!』
カリカリカリカリカリカリ……
ペンを走らせながら、エンヴィーへ得意げに語った自身の言葉を思い出す。自分の出生を修正するだけではない。これさえあれば、未開の地に追いやられたエルフ族の暗黒の歴史さえ変えることができる。
手を休めても中断などされない。自分に魔法を展開する意思さえなければ、どこまでもどこまでも歴史の修正を積み上げられる。
あまりにも贅沢な改竄権は、過去に単身で戻るよりも確実性も高く都合も良い。
エルフの立場を変え、人間族の立場を変え、戦争の勝敗を変え、どこまでも自分にとって都合の良い歴史を書き尽くす。これを全て実現させた時、世界そのものがどれほど変わるのかも、それだけで自分の血が沸騰するように熱く、心臓が百年分を数秒に圧縮したように速度をあげた。
過去を変えれば、現在もそして未来も変わる。いっそこの国もエルフの配下国にしようかとまでアクセルは考える。そうすればこんなに不便なこともない。
─ 歴史が間違ってる
カリカリカリカリカリカリカリカリカリカリ……
ペンを走らせながら、思考の中で一人アクセルは呟く。足元で倒れ伏す聖女ではなく、聖典ばかりを凝視する。エルフ族都合の過去改変を千年前の歴史から書き換えながら考える。
過去を変えれば歴史も変わる。歴史が変われば、人も変わる。人格や住まう地だけではない。趣向も変わり事象も変わり出会いも変わり、この世に生を受けるか否かまで大きく変わる。戦争の勝敗一つでも、その死者と生者の数は逆転し現在の命の数も種族も大きく変動する。今生まれた命が存在から消え別の命がと、そこで一瞬止まりかけたペンを意識的に動かした。
あああ良い、良い、都合の悪いことは全てあとで書き足せば良いと思考を振り払い、またペンを走らせる。歪みにも気付かずに血走らせた魔眼で、ペン先を凝視する。千年前から七百年前、七百年前から五百年前と大きなエルフの歴史の改変を続けた彼は、とうとう百年前の己の歴史への干渉へとペンを進める。考えた瞬間、ペンごと全身が震えを起こした。
─ ようやくようやくようやくようやくようやくようやくようやくようやくようやくようやくようやくようやくようやくようやくようやく!!!
カリカリカリカリカリカリカリカリカリカリカリカリカリカリカリカリカリカリカリカリッッ!!
望んだ、改変だ。今までのついでのような歴史改変とはわけが違う。視界が赤に明滅し、呼吸の浅さも心地良く思えるほどに塗り潰される。生まれてからではない、生まれる前から自分の間違いは始まっていた。
自国に魔物が発生したことが過ちだった城下が襲われたのが間違いだった城に侵入を許したことが過ちだった王子である自分が混血として生まれたことが間違いだったこんな神聖魔法しか能のない浅はかな人間族の国に任されたこともその全てが
『私はアクセルに出会えて死ぬほど嬉しかったし今も好きだよ大好きだよ!!!』
「…………」
ぴたり、と。ペンが動きを止める。
まるで今更気がついたかのように、アクセルは聖典を手にしてから初めてその視線を外し、足元へと移す。今も阻害魔法で進行こそ中断されたものの、ただでさえ削り奪われていた魔力を召喚魔譲渡で枯渇させ、ぐったりと虫の息で伏す聖女だ。
一瞬、何故エンヴィーがこんなところで倒れているかもわからなくなった。茫然と見下ろしながら、何故自分がペンを躊躇ったのかもわからない。
躊躇うことなどない、と。自分に説く。もう彼女に拘らずとも自分はこれから全てが手に入る。
どうせ、聖女は助からない。禁忌魔法をかけられて尚、助かる可能性は低い。今できるのは先延ばしの応急処置のみで、宮廷魔導師を呼んだところで教皇を求刑する程度。聖典の旅にも選ばれたという魔導師以上のことができるとは思わない。
ならば過去を改変し、その上で改変された現実ごと聖女を救えば良い。過去を改変するのだから聖女が生きる歴史も改変する。十六年前にこの地に生まれ大聖堂に引き取られ神聖魔法の才を持ち聖女に祭り上げられる彼女を〝指定〟し教皇の存在を消す。ついでに彼女にも都合良い世界にすれば文句もない。
どうせ歴史が変わればエンヴィーの歴史も出会いも思考も変わる。聖典の旅から回帰したなどと事象そのものをなくし、自分の都合の良い彼女に
『また嘘!!!アクセルはそんな人じゃない!!』
エルフとして生まれ、エルフとして普通に生き、時間を百年も無駄にすることもなく祖国で何不自由なく暮らす。それを自分も望めるものなら望みたかった。
そんな人生を望み、羨やんだ。己が何の努力もせずにその全てを当然のように叶えている自分以外の無能なその他大勢を妬んだ。
そして今、望んだ全てを取り戻せる。ならば目の前の現実などどうでも良い。どうせ全てなかったことになるのだから気にする必要もない。これから、正しい歴史が作り替えられる。もうそれしか、今の自分に報いてくれるものなどありはしない。
『英雄にはなれます……!』
「やめろ」
ガリッ……
普通の紙面であれば裂いていた。指から肩まで力ませ、歯噛みする。足元にいるエンヴィーにでなく、記憶の底の少女に唱える。
そんな、上手くいくわけがない。頼りない、頭も足りない少女の愚策など信用するに値しない。
英雄になどなれるわけがない。たとえ大勢の前でこれ見よがしに魔物を倒して見せようと、自分が混血であることも王と血が繋がっていない事実も変わらない。ただ自分が新たな魔物として見られるだけだと思う。
理想しか掲げないエンヴィーの計画など最初から期待しなかった。それでも彼女の誘いに乗ったのは聖典、ではなく
『誰がなんて言っても世界で一番私が好きだってくらい私はアクセルが好きだもん!!!』
「やめろ……やめろやめろやめろ……ッ」
ガリッガリガリガリガリガリガリガリガリッ
自分のペンの動きが、自分で信じられない。間違いなく自分の意思であるにも関わらず、まだ思考と欲が馴染まない。急激に変わったペンの動きも自分の意思であれば、その手を拒みたいと思うのも己が意思。一人唱え、食い縛り、だが止まらない。
視界は手の動きと紙面を凝視しながらも、思考が写すのは喚き散らした聖女の姿だ。
半魔の姿を許すどころか、この姿そのものに気持ち悪いほどの好意をぶつけられた。〝中身を見る〟などという正常なものではない。この姿ごと、透き通ったその瞳に写された。
『アクセルの眼だって金色も綺麗だけど魔眼だって格好良くて宝石みたいにキラキラで!!!魔物のことは大嫌いなのにアクセルと出会ってから眼だけは好きになったよ!!髪の毛も手入れ雑でもいつだってサラサラで夜空みたいな色が──』
聖女が何かしらの秘密を握っていると、そう確信したのも束の間だった。
自分の呪いを解く以外で初めて抱いた興味は、彼女の秘密そのものへではない。
自分の知らない自分にとって、彼女がどのような存在だったのか。
『作ったことはまだ無いんでしたっけ。アクセルは羨ましいくらい頭が良いからお料理のレシピ覚えたままなんですよね』
一生どうにもならない混血半魔の身で、それでも生きることを選んだ理由が何だったのか。どんな価値があったのか。どうしてそんなくだらない細かなところまで、こんな人間の少女に教え、見せ、明らかにしたのか。その中身がくだらなければくだらないほどに気にかかる。自分はそんな無駄な話など好まない。
半魔の己に初めて期待した。
こんな奇跡も出会いも人間も、億年かけようとあり得ない。
─ いやだ
「ッ馬鹿だろ……ばッ……馬鹿かやめろやめろやめろやめろやめろッッ……」
ガリガリガリガリガリガリガリガリガリガリガリガリガリガリガリガリガリガリガリガリガリガリガリガリガリガリガリガリガリガリガリガリッッ
何度も何度も何度も、握るペン先が己の記述を書き潰す。
書き綴った時の倍の速度と筆圧で、千年も遡った過ちの歴史修正も、戦の耀かしい勝利も、詳細に書き換えたエルフ栄光の歴史を書いたそばから今度は同じペンで上書き、塗り潰す。筆跡の欠片も残らないほど徹底的に。
せっかく作り替えられた筈の全てを自分で無に返す。拒絶感に食い縛った牙が軋み、血も滲む。
言葉では、理性ではこれが間違っていると、過去の改変こそが己の、自国の、エルフという種族の、世界の為だと叫ぶのに感情がそれを上回る。ここで全てを無に帰せば、自分は本当に貴重なものを失うのだと恐怖が襲い、総毛立つ。
せっかく手にした最高の瞬間をドブに捨てる感覚とともに最後の一文字まで塗り潰す。聖典に無意味な筆跡だけが残され、ペンを投げれば手放した瞬間霧散し、ひと思いに閉じれば風圧がエンヴィーの前髪を浮かせた。
一度本が閉ざされたことで、聖典は子梟へと姿を変える。乱暴に扱われたことで瞬時に羽ばたき、主人の肩の位置まで避難する召喚魔の動きも目に入らない。
「あ゛……あ゛あ゛あ゛あ゛ーーーーーーあ゛ーーーー!!!!!!!」
両手で頭を抱え、声を張る。
やってしまった。
聖典を、閉じてしまった。せっかくの機会を今自分は自らの意思で拒絶した。過去の改竄という選択肢を放棄した。馬鹿だ馬鹿だ馬鹿だと、自分の犯したことを否定しながらもまたやり直そうとしない。こんな簡単な天秤を、エルフの王子たる自分が間違えた。
頭皮に刃物のような爪を立て、無様な慟哭を上げた後には牙が砕けるほど顎に力を込める。汗が滝のように額から頬、首へと滴り濡らし、限界まで見開いた目が滲む。何が正しく何が利になり何が有益で意義があるのかわかっているのに選べない。
もう己は、こんなにも絶望的な状況を望んで選んでしまった。
耐えきれずに爪が頭皮に食い込み、血が溢れ出す。狂ったように叫びが止まらないまま、高い鼻筋を辿り目下に落ちる血滴が首を激しく振ると同時にピチャンとエンヴィーの頬にも散った。
こんな選択を選んでしまった元凶に。
「…………おい。起きろ雑魚、…………どうしてくれる」
無造作に、単調な声で呼び掛ける。一分一秒を争う、ぐったりと虫の息の少女の肩を掴み、揺する。
触らないでと、ラウナがすかさず声を上げるが届かない。理解不能の言動ばかりが繰り返されるアクセルに、エンヴィーを下手に動かすどころか触れることすら危険と判断した。
阻害魔法を全神経を注いでいなければアクセルへ攻撃魔法の一つや二つを飛ばしていた。今もラウナの制止を聞かずエンヴィーの肩を掴めば、左手は止血をされないまま血が滴り溢れ、右手の爪も血で染まっていた。聖衣を赤く汚すことも構わず、意識のない少女へ当たり前かのように言葉を続ける。
「死ぬな。死んだら殺す」
目の焦点も合っていない。禍々しい赤と黒の眼光を放ち、瞼を中心に血管がピキピキと痙攣を起こす。
聖典は、まだ使える。まだ取り消せる取り返せる。そう理解しているにも関わらず、喪失感が拭えない。たとえ聖典を使えても、もう今の自分には無意味だと全身の細胞が思い知る。彼女を知る前には戻れない。
生まれた時からのしがらみからも逃れられない。単なる呪いだと信じていた半分の血は永久に付き纏い、そして今新たな呪いがかけられた。
与えられた聖典を使えば、無条件に全てを得られる。そして同時に自分は、貴重で、奇妙で、一生ない、なけなしの全てを失うのだと。
ここで彼女を失えばいっそ楽になると思う自分と、失えば世界全て手に入れたところで永久に埋まらない穴が空くのだと恐怖する自分とが混ざり合う。
エンヴィーは顔色も本来の肌色からさらに蒼白に下がり、触れればもう衣服は汗で湿っていた。瞼は開かず、肩だけでは足りず上体だけ引き起こせば身体のどこにも力が入っていなかった。まるでもう生きることを諦めたかのような無抵抗な身体は、刻一刻と限界に近づいている。
継承魔法を中断されようと、魔力を枯渇し、大聖堂の隅で神聖魔法だけの為に育てられた身体は酷く貧弱で体力もない。
召喚魔の譲渡が決定的だった。あまりに消耗が激しい彼女は、ニーロが宮廷魔導師を連れてくるまで間に合うかもわからない。神聖魔法に詳しく冷静なアクセルだからこそ残酷なまでに理解する。
チリリッ、と眼の奥で唐突に火花が散った。
「あ゛あ゛……ぁ゛っ……」
呻き、自分がどうしたいのかもわからない。抱き寄せた柔らかな身体に爪を立てないよう、指関節から強張り固まる。爪先一ミリでも傷を与えることに拒絶感が襲う。
どうしようもない状況に背中を丸めたまま首の筋が酷く締まり、全身が痛み出す。血流が遅くなるのに反し、体温が急激に上がっていく。吐き気が込み上げるのに唾が飲み込めない。早く終わって欲しいのに、終わる時が頭に過ぎるだけ頭が眩む。チカチカと視界までもが赤と黒に支配され、食い縛った牙の隙間から獣のような息が漏れる。皮膚一枚下が酷く疼き出しては全身に及び、蛆虫が這い回るような不快感にガチガチと歯が鳴った。
吐き気よりも遥かに優る不快感と殺意が内側に滞留し、満ちる。何に対しての苛立ちかも脳が回らない。右手がエンヴィーへのまま、左手が堪らず己が顔面を鷲掴み、割らんばかりに爪を引っ掛け力を込める。
ただただ、自分には及ばない絶望感に蹲るように背中を更にさらに丸め、震え出す。
どうしようもない。どうしようもならない。まともに頭が働かず、今すぐ聖典を使用すれば助けられると考えると同時にそれでは意味がないと、死なれた方が痛みを伴う意味がないのだと支離滅裂に思考が散らかり手も足も内側から圧迫され、そして心臓も締め付け
─ ブチンッ
「あ゛ッ、あ゛あ゛っ……あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛ァ゛ァァ゛あ゛あ゛ァ゛ア゛ッア゛ッア゛ア゛ア゛!!!?」
ぶわりと、爪の先まで烈火が駆け巡る感覚と共に魔力が皮膚を突き抜け噴き出した。
制御しきれず、立てた爪が頭皮を抉りエンヴィーの柔らかな肩をも裂く。肩が強張り上がり、ビクビクと痙攣させながら慟哭する。自分の身体が自分のものではないように、脳と切り離される。
その瞬間、ラウナはとうとう見てられずに魔法を手放し駆け出した。「やめて!」と攻撃魔法を放つが、衝突と同時に無に帰した。慟哭と共に溢れ出す魔力に、攻撃魔法が呑まれる。
混血により魔の存在から受け継いだ膨大な魔力と闇魔法が溢れ、乱れ渦巻いた。
〝闇魔法〟と、本来魔物や魔族しか持たない魔法は、魔力が高ければ高いほど他の魔法は飲み込み無に返す。元素魔法の最高峰であるラウナの魔法すらどれも届く間も無く喰われ、消失する。半魔であるアクセルの魔力は人もエルフも遥かに超え、更には〝聖典〟により所有者へ無尽蔵に魔力が補給され底がない。
自分の攻撃魔法が届きもしないことにラウナが目を見張る中、その間も無尽蔵な魔力暴走は止まらない。魔力の渦は禍々しく、更には視認できてしまうほどの高濃度の闇魔力から更に悍ましい影が顔を覗かせた。床や壁に亀裂や染みのように広がり、空気が黒煙のように色付き淀んだその先から眼光を研ぎ澄ました存在が手を伸ばし、舌を出し、今にも這い出そうと試みる。
それがどういう現象か理解したラウナは急激に喉を干上がらせた。本来、無条件かつ無作為に発生する筈の魔物が群を為して〝先〟に控えている。魔物発生の真実を垣間見るのも束の間に、攻撃魔法をひたすら放つ。しかしいくら放とうと排そうと、後続から次々と溢れ出る。
このままでは狭い店内を埋め尽くすほどの魔物の発生に、店ごと高位魔法で排するしか道がない。魔物の発生にも気付かず慟哭を続けるアクセルを省みる余地などもうありはしな
「あくせる……?」
渦中から漏れ聞こえた掠れた声に、息を飲む。
意識を失っていたエンヴィーが、目を開けた。薄く開いた空色の瞳に写るアクセルを呼ぶ。ぼんやりとまだ意識は定まらず、何が起きていたかもわからない。しかし慟哭していた彼に、何かできないかと視界が開けてすぐ呼び掛けた。
目覚めたばかりの力はまだ弱く、手を伸ばしても指の腹で魔眼の下をなぞるだけだ。
もう魔力の根源たる聖典もない、魔力そのものも枯渇した聖女にできることなど何も無い。魔物一体すら浄化する力も残されない少女の目覚めに、しかしラウナの視界は一変した。
闇魔法が、霧散する。
アクセルを中心に拡散していた壁や床の亀裂も染みも溶け、這い出る魔物が締め出されるように伸ばしていた身体の一部が千切れ、ボトリと落ちて溶け出した。
黒煙のような空気の澱みも晴れ、今にも蔓延ろうとしていた魔物の輪郭どころか影もない。店内を埋め尽くそうとしていた魔物が帰る道を遮断され、限られた数のみが残された。
エンヴィーしか狭い視界に捉えられていなかったアクセルは慟哭の途絶えた半開きの口のまま、瞬きする。
顔色の白さこそ変わらないものの、彼女を苛む影が消えていた。ラウナによる阻害も途絶えたにも関わらず、継承魔法は気配すら見られない。
全ての魔力を呑み込み無に帰する闇魔法は、エンヴィーに纏わりつく継承魔法すらも例外ではなかった。意図せずに彼女を犯す禁忌魔法を抹消したことに、アクセルの理解も及ばない。彼の半魔に宿る闇魔法の痕跡を利用し神聖魔法の相殺を試みようと血を欲したラウナと違い、アクセルにそこまでの知識はない。
ただ、腕の中の聖女が呼吸を途絶えさせず済んだことだけを理解する。
強張りきった身体が緩み、自身の呼吸も通り出す。肩が緩やかにしかし激しく上下し、エンヴィーを抱き締める腕の力だけが強まった。丸い背中だけがそのままに、言葉もなくただ抱き寄せ、垂らした首で額を埋める。身震いに反し赤黒く瞬いた魔眼は黄金色へと鎮まり、視界は滲んでいった。
失わなかった。
引き返せないところまで行けばいっそ自暴自棄に聖典へ縋ることができたのにと、冷え出した思考が思いながら、アクセルは息を吐ききる。
「アクセル……あの、わたッ、……」
もごッ、とそこで中断された。大きな手で口が覆われ、続かない。目を丸く息を呑むエンヴィーは、開いた視界のまま彼を見つめ、胸が下がる。
状況も、意識の途切れる直前自分が何をしたのかもまだ混乱する頭では思い出せない。ただ、それでも。
彼の安堵しきったその表情と透き通る滴だけで、もう充分だと思えた。




