1話 義母に命を狙われた私の逃走劇
十歳の頃、私の人生に突然転機が訪れました。
王子殿下の婚約者に選ばれたのです。
王城からの使者が告げたその一言は、まるで夢物語のようで。柄にもなく舞い上がっていたことを、今でも覚えています。
「おめでとう、よくやったな」
父もこのときは珍しく声を弾ませ、私を抱きしめました。
「お義姉様すごいわ! お妃様に選ばれたなんて!」
義妹のエミリも、キラキラとした目で私の手を握ってくれました。
祝福の言葉に囲まれて、胸がいっぱいになって――。
だから、気付かなかったのです。
義母が口元に笑みを浮かべながらも、瞳は一切笑っていなかったことに。
◇
王子殿下の婚約者となってからというもの、私は未来の王妃として相応しくあれるよう、勉学に身を捧げました。
礼儀作法、歴史、政治、経済――。覚えるべきことは山のようにありましたが、苦ではありませんでした。
もともと私は周囲から「真面目だね」と言われることの多い性分で、机に向かう時間を好ましく思う人間だったのです。
けれどそんな私の気質は、殿下のお気に召さなかったようで。
「君はどうにも可愛げがないな。笑顔のひとつも作れないのか」
そう言って、わざとらしく怪訝な顔をした後。
「エミリの方がよほど愛らしい」
と、あからさまに義妹の名を口にされることも、一度や二度ではありませんでした。
たしかにエミリは私とは違ってころころと表情を変え、誰にでも無邪気に甘えられる子です。場の空気を和ませることに長けた、天性の愛され上手でもありました。
一緒の時を過ごすのなら、あの子のような娘の方が楽しいだろう――。私でもそう思います。
ですが、この婚約は王命によるもの。余程のことがない限り、覆ることはありません。
だから私はどれほど殿下に疎まれようとも、与えられた役目を果たすしかないのだと。そう、自分に言い聞かせ続けたのです。
それから八年の歳月が流れた現在。
十八歳になった私は明日、いよいよ王家へ嫁ぎます。
二年前に病で亡くなった父も、きっと天国で私の花嫁姿を楽しみにしていることでしょう。
そのため今夜は、万全の体調で明日を迎えられるよう、いつもより早めに床に就きました。
そのせいでしょうか。
ふと深夜に目が覚めてしまったのです。
静まり返った部屋の中、しばらく天井を見つめていましたが、再び眠りに落ちる気配はありません。
外は風の音ひとつせず、不気味なほどの静寂に包まれていました。
そのままぼんやりとしたまま眠気を待っているうちに少し催してきて……。
私は身を起こし、お手洗いへと向かいました。
部屋を出て、人気のない廊下を進み、階段を下りていく――その途中。
微かに聞こえてきたのは話し声。
裏口の方からです。
——こんな時間に……?
胸の内に小さな違和感が生まれ、私は足音を忍ばせながら声のする方へと近付きました。
裏口の前にいたのは義母と——見知らぬ男。
一体どなたなのでしょうか。
壁の陰に身を寄せ、気配を消して様子を窺いました。
「いい? 二階の一番奥の部屋よ? 決して間違えないでちょうだいね」
「へぇへぇ、分かってますよ奥様。そんじゃ、サクッと終わらせてきますんで」
男が上着の内ポケットに手を差し入れ取り出したのは――なんと鋭く尖ったナイフ。
それを目にした途端、ぞわりと全身が粟立ちました。
二階の一番奥の部屋。
それは間違いなく私の自室。
義母は今、ナイフを持ったあの男を――私のもとへ向かわせようとしている。
――どうして、そんなことを……?
理解が追いつかず、頭の中が真っ白になります。けれど直後、その混乱を叩き割るように、義母の口から衝撃的な言葉が零れ落ちました。
「あの子さえいなくなれば、妃の座はエミリのものに……!」
今まで一度たりとも見せたことのない、底知れない悪意のこもった笑みに、背筋が凍りつきます。
私は全てを理解しました。
義母は――エミリを王子の妃にするために、私を殺そうとしているのだと。
――そんな……お義母様……っ。
胸がぎゅうと締めつけられ、恐怖と悲しみがないまぜになり、膝ががくがくと震え出しました。
今まであれほど優しく接してくれていたのに。
本当の娘のように、私を愛してくれていると――そう信じていたのに。
あれは、全て偽りだったのでしょうか。
ずっと、ずっと……邪魔だと思われていたのだとしたら——。
そう思った途端に視界が滲み。涙がこぼれそうになるのを必死で堪えました。
悲嘆に暮れる私のことなどまるで意に介さないかのように、男と義母がこちらに向かってきます。
彼らが壁に張り付く私のすぐ横を通り過ぎていったときは終わったと思いました。
心臓が喉元までせり上がり、今にも飛び出してしまいそうなほどに。
けれど、どうやら気付かれていないようです。
安堵しかけたのも束の間——彼らが少しでも振り返れば、速攻で見つかってしまうことでしょう。
私は唇をきつく噛みしめ、息を殺しました。
——お願い、どうか……どうかこちらを向かないで。
心の中で何度も何度も、神に祈り続けます。
その祈りが届いたのか、どちらも最後まで振り返ることはありませんでした。
義母は階段の手前で足を止め、男だけが二階へと上がっていきます。
——今しかない。
私は音を立てないよう細心の注意を払いながら、そっと裏口へと向かいました。
扉の取っ手にかける指が、情けないほど震えています。
それでも歯を食いしばり――ゆっくりと、軋みひとつ立てぬように押し開けたのです。
屋敷を飛び出した私は、石畳を蹴るようにして走り出しました。
肺を焼くほど冷たい夜の空気。
けれど立ち止まるわけにはいきません。
領民達の家が立ち並ぶ住宅地まで辿り着くと、私はようやく一軒の民家の壁に身体を預けました。
「は……っ、はぁ……っ……」
荒く上下する胸を押さえ、何度も深く息を吸い込んで。
乱れた呼吸を整えるように、ゆっくりと吐き出して。
なんとか心と身体を落ち着かせました。
――こんなときだからこそ冷静にならなければ。
このまま屋敷に戻ることは出来ない。
ならば、隣の領地へ——。
あそこの領主様なら、事情を話せばきっと助けてくださるはず。
「……大丈夫、きっとなんとかなる……」
自分に言い聞かせるように小さく呟き、再び足を踏み出そうとした、そのときでした。
グルルル……と低く唸る声が、闇の向こうからいくつも重なって鼓膜を震わせます。
はっと視線を動かした先。
月明かりに照らされて浮かび上がったのは――三匹の野犬。
「っ……!」
一歩、後ずさった瞬間。
三匹が一斉に接近してきました。
鋭い牙が、爪が、寝巻きに食い込み、布が無残に引き裂かれていきます。
「いやっ……やめてっ!」
振り払うように身を捩り、私は無我夢中で走り出しました。
背後から追いすがる足音。荒い息遣い。
振り返る余裕などない。ただ、生き延びるためだけに足を動かし続けました。
どれくらい走ったのかも分からないまま――。
気が付けば、私は木々の鬱蒼と生い茂る場所へと踏み込んでいました。
「ここは……」
幼い頃から、決して近付いてはならないと言われている場所。
迷いの森——。
我が家が治める領地のすぐ傍に広がる、広大な森。
一度足を踏み入れれば、二度と出ることは叶わない――そんな不吉な噂から、そう呼ばれている場所です。
「戻らないと……っ」
しかし、後ろからは遠吠え。
今引き返せば、結末は目に見えています。
もう前に進むしか選択肢はないようです。
頼りになるのは、木々の隙間から僅かに差し込む月明かりだけ。
私はそれを縋るように辿りながら、足元も覚束ないまま森の奥へと進み続けました。
枝が肌を掠め、破れた寝巻きの裾が幾度も引っかかる。
けれど、痛みを気にする余裕すらありません。
どれほど歩いたのでしょうか。
ふと、視界の先に不自然な影が浮かび上がりました。
「あれは……?」
木々の合間に佇むそれは――古びた屋敷。
人の気配は感じられず、不気味な気配を放っていました。
躊躇いは一瞬だけ。
曰くつきの森の中にある屋敷。
ですがこのまま森を彷徨うよりは――。
私は意を決し、軋む扉に手をかけて中へと足を踏み入れました。
「どなたか、いらっしゃいませんか……?」
声をかけても、返事はない。
しん、と静まり返った空間に、自分の声だけが虚しく吸い込まれていきます。
慎重に奥へと進んでいくと、視界の端に、大きな姿見が映り込みました。
何気なくそちらへ目を向けて――息が止まります。
そこに映っていたのは、当然自分の姿。
けれど泥にまみれ、服はボロボロ。髪は乱れ、身体は所々に小さな傷がついている。
つい先程まで貴族令嬢として優雅に生活していたとは思えない。
まるで自分じゃないみたい。
その姿はあまりにも痛々しく、哀れで、惨めで。
けれどどうしてか目が離せずに、身体が熱くなっていって。
心の奥底から、言いようのない感覚が湧き上がってきたのです。
そのままじっと姿見を凝視していると——。
トン、と。
首筋に何かが触れました。
「え……?」
直後、鈍い衝撃が走り。
視界がぐらりと傾き、私の意識は暗闇へと呑み込まれてしまったのです。
◇
どれくらい気を失っていたのでしょうか。
重たい瞼をゆっくりと持ち上げると、視界に飛び込んできたのは見知らぬ天井。
置かれている調度品は、私が普段愛用しているものと同等の品質のものだと分かります。
身体を起こそうとしたその瞬間。がしゃり、と鈍い音が鳴りました。
「……っ?」
視線を動かして見てみると、なんと両手首と両足首に枷が。
そこから伸びる鎖は、ベッドの脚へとしっかりと繋がれていました。
「な、に……これ……」
状況が理解出来ずにいると。
「目が覚めたか」
低く冷たい声が扉付近で響きました。
はっとして顔を上げると、そこに立っていたのは一人の男。
黒く短い髪は夜のようで。
血を思わせる赤い瞳がこちらを真っ直ぐに射抜いてくる。
整った顔立ちは息を呑むほどに美しく――けれどその美しさは、どこか人ならざる冷たさを孕んでいました。




