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其の六

 星のない夜空に雪が舞っていた。地面も街路樹もうっすらと白く染まりつつある。

 夏服を着た私は、動かない翔太しょうたを胸に抱き、俯いて歩いた。

 痛みも重みも感じない。ただ不思議なことに、肌を血が流れる感触だけは生々しく分かった。真夏の汗さながら、生臭い体液は毛穴から噴き出してくるようだった。私の歩いた後は、雪が赤黒く汚れていく。


 駅に至る道は人通りが多かったが、誰も私には気づかない。分厚いコートの体に巻きつけ、足早に家路を辿っている。たまに目が合う人もいたが、急いで顔を背けたり、何も見えていない風を装ったり、すぐに私の存在を意識から追い出すのが分かった。

 混んだ電車の中で翔太が泣いた時の、周囲のあの反応に似ていた。でもそんな時は、必ず誰かが微笑みを向けてくれた。迷惑そうにする人ばかりじゃなく、子供をあやしてくれる人もいた。


 今、忌まわしい存在になった私は、ひとりだ。


 どこに行けばいいんだろう。

 宛てのない道行きは心細かったが、立ち止まることはできなかった。立ち止まってしまえば、もう二度と動けなくなる気がした。


 私の世界は、職場と保育所と、あの部屋。それだけだった。ひどく不自由で、そのくせ忙しくて、不満がいっぱいで、何ひとつ満足にこなせないまま過ぎ去る――とても幸せな毎日だった。

 幸せだったんだ、私。だからこんなに悲しいんだ。





 帰りたい。帰りたい。





 そうだ――帰らないと、私。


 今日はまだ火曜日、疲れている場合じゃない。

 早く帰って翔太の離乳食を作って……みのるは帰るの遅いと言っていたから、私の夕食は適当でいいや。そうそう、卵が切れてたんだ。スーパーにも寄らないと。


 私は翔太のお尻を支えて抱き直した。抱っこ紐は肩にずしりと重かったけれど、もう慣れた。翔太はご機嫌で、私を見上げて笑っている。


「暑いねえ、翔太。もうちょっと我慢してね」


 話しかけると、あうう、と声を上げた。ちょっと上気した丸っこい顔を眺めるだけで力が湧いてくる。この子の世界にはまだ私しかいないのだ。

 首筋に流れる汗を拭って、私はむっとした夏の空気の中を歩き出した。





 雪の降り始めた空をしばらく見上げた後、私は玄関を閉めた。

 ドアを背に、代わり映えのしない室内を眺める。何の変化もない、変化させる気もない、一人暮らしの部屋。永遠の停滞は濁った水に似ている。


 本気で愛して、身も心もお金も尽くしていた男に家庭があると知り、地獄のような破局の末に、私は一ヶ月以上も引き籠って過ごしていた。仕事を辞め、もともと少ない交友関係も断ち、ひたすらあの男への復讐ばかりを考えていた。


 そんな中に飛び込んできた彼女は、小さな小石だった。

 彼女の立てた波紋で、私の心がほんの少しさざめいた。


 血に塗れ、死んだ赤ん坊を抱えたその姿は、昔何かで見た妖怪絵のようだった。私はすぐに()()()を悟った。

 自分の死に気づかず、終わってしまった日常生活の苦労話を語る彼女に、憐れみと親近感を覚えた。できることなら真実を悟らせず、ずっとここでご主人の帰りを待たせてあげたかったのだけど。

 でも一方で――私は彼女の絶望を見たがっていた。私の得られなかったものを手にした彼女への嫉妬なのか、嗜虐心なのか、よく分からない。

 折れた両足を引き摺って、潰れた子供を胸に抱いて、寂しそうに去って行った後ろ姿が瞼に焼き付いている。もう七回も見送った。この『日課』を終える時、私の心は満足感でいっぱいになり、直後に身を切るような罪悪感に苛まれる。


 これまで六回、彼女は自分の死を思い出し、その度にもうここには来ないと言い、そして翌晩すべて忘れて帰って来た。きっと七回目も同じだろう。

 彼女は明日またやって来る。それは確信だった。鍵を失くして困り果て、私は救いの手を差し伸べるのだ。


 高揚と、親愛と、充足と、自己嫌悪。

 不毛な、出口のない、永遠の繰り返し――仕方がない、今の私には他にすることがない。


 私は玄関を上がり、廊下を進んで左手のドアに手を掛けた。勢いよく開くと、淀んだ空気が押し出されてきた。

 ベッドとクローゼットを置くといっぱいになってしまう、六畳の洋室。その天井から、私がぶらさがっていた。


 わざわざ打ちつけた頑丈なフックも太いロープも、七日経つというのにびくともしていない。ただ私の体はだいぶ傷んでいた。ロープが巻きついた首は体重で不自然に長く伸び、顔は風船みたいに腫れて、黒ずんだ唇からだらしなく舌が垂れている。臭いもきつくなってきた。

 どろりと濁った両目にじいっと見据えられ、さすがにいい気分はしなかった。


 あの男本人に、あるいはその家族に、手酷い仕返しを考えたけれど実行には移せなかった。私はとことん馬鹿な女だ。

 できたのは、あの男に死にますとメールを送ってから首を括ることだけだった。何日経ってもあの男は来ず、連絡を受けた警察が踏み込んでくる気配もなかった。


 愚かな行いの報いだろうか。以来、私はこの部屋の玄関を出ることができない。誰かに見つけてもらうまで離れられないのだろう。

 入れない彼女と出られない私が引き寄せられるなんて、皮肉な話だった。


 私は朽ちかけた自分の足元に座り込んだ。また、長い一日が始まる。


 寂しい。寂しい。寂しい。


 彼女が行くべき場所を見つけて去るのが先か、それとも私の死体が発見されるのが先か――日課から解放される日を、私は待っていた。





―了―

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