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厄介な世界。最低な結婚。最高の人生。  作者: 空琴累音


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42/42

ep.42 変わらない生活

 礼拝室の冷たい床に、私たちは膝をついたままだった。


 ルルティナは私の両手へ額を寄せ、しばらく動かなかった。祈りの言葉は聞こえない。声にならないものを、胸の奥で長く唱えているのだろう。


 高い窓から落ちる光は細く、欠けた祭壇の縁を白く照らしている。石の床は冷たい。

 けれど、手の中にあるルルティナの指先は、最初より温もりを取り戻していた。


 やがて、彼女が顔を上げる。


「……申し訳、ございません」


「謝ることではありません」


 そう答えると、ルルティナはまだ目を伏せたままだった。


 私はその手を離さず、もう一度だけ名を呼ぶ。


「ルルティナ」


「はい」


「もう一つ、頼みがありました」


 ルルティナの指が、私の手の中で強張った。

 彼女は逃げなかった。まっすぐにこちらを見る。


「勇者へ、祈りたいのです」


 彼へ。

 かつて人々の前に立った勇者へ。


 礼拝室の空気が、さらに澄んだ気がした。


 ルルティナはすぐには答えなかった。

 ただ、私の言葉を受け取るように瞬きをする。


「……勇者様へ」


「ええ」


 私は頷く。


「彼が前に立っていたことを、なかったことにはしたくありません」


 それ以上、言葉を足さなかった。


 誰が遅かったのか。

 何が間違っていたのか。

 私はどこに立てなかったのか。


 そういう話は、もう一度ここでするものではない気がした。


 ただ、祈りたかった。


 かつて、小屋の中で鐘の音を聞いていたことがある。

 遠くから届くその音へ、自分の祈りを重ねることはできなかった。誰かが捧げた祈りの端を、勝手に借りるように思えたからだ。


 今、ここに鐘はない。

 鳴らす者もいない。


 あるのは、欠けた祭壇と、冷たい石の床と、私の手を握り返すルルティナの指先だけだった。


 ルルティナは、深く息を吐いた。


「……分かりました」


 声は低いままでも、迷いはなかった。


「祈りましょう」


 そう言って、彼女は私の手を離した。

 それから祭壇へ向き直り、もう一度、膝を正す。


 私はその隣へ並んだ。


 ルルティナが先に、頭を垂れる。

 私もそれに続いた。


 祈りの言葉は、思っていたより短かった。

 それを、足りないとは思わなかった。


 勇者として立った者へ。

 人々の前にいた者へ。

 その名を信じた者たちと、その背に続いた者たちへ。


 彼の死が、ただ遅かった私の悔いだけにならないように。

 彼が前に立っていたことが、嘘にならないように。


 私は、初めて自分の祈りとして、その人の存在を胸に置いた。


 ルルティナの声は静かだった。

 時折、石の壁に触れて、かすかに返ってくる。


 その声を聞きながら、私は目を閉じていた。


 祈りが終わる。

 礼拝室には、また静けさだけが戻った。


 ルルティナはしばらく頭を垂れたままだったが、やがて顔を上げた。

 表情は祈る前より穏やかだった。


「……これで、よかったのでしょうか」


 彼女が言う。


「ええ」


 私は頷いた。


「よかったのだと思います」


 ルルティナはその返事を受け取って、目を伏せた。


 私は冷えた石床から立ち上がる。

 膝に残った冷たさが、遅れて身体へ上がってきた。


「戻りましょうか」


「はい」


「レディヴィア様も、そろそろ戻る頃かもしれません」


 そう言うと、ルルティナは窓の外へ目を向けた。


「では、何か温かいものを」


「ええ」


 私は笑った。


「帰りを待つ食事を作りましょう」


 礼拝室を出ると、廊下の空気は先ほどより軽く感じた。


 石の城は相変わらず冷えているし、外にはまだ湿った雲が残っている。それでも、足を進めることが少し楽だった。


 厨房へ入ると、火はまだ細く残っていた。


 ルルティナがすぐに炉の前へ屈み、薪を足す。

 私は食料庫から肉を取り、豆と麦の袋を引き寄せた。


「焼くより、煮たほうがよさそうですね」


 私が言うと、ルルティナは肉の塊を見て頷いた。


「はい。時間はかかりますが、そのほうが食べやすいかと」


「昨日は、かなり獣でしたから」


「……はい。かなり」


 ルルティナは控えめに答えた。

 その声音に、かすかな笑みが混じっていた。


 肉を小さく切る。

 焼いた時よりも細かく、豆や麦と一緒に匙ですくえる大きさへ。


 刃を入れるたび、まだ獣の匂いは立った。

 前室で解体していた時ほど、生々しくはない。厨房の火と、鍋と、塩と水の中に入ると、少しずつ食事のほうへ寄っていく。


 ルルティナが乾いた香草を取り出した。


「魔族側の箱にあったものです。匂いは強いですが、肉には合うかもしれません」


「使いましょう」


 私は頷く。


「レディヴィア様が食べるなら、そちらのほうが馴染みがあるかもしれませんし」


 鍋に水を張り、肉を入れる。

 豆と麦を足す。

 粗塩を少し。

 それからルルティナが香草を指先で砕き、鍋の上へ落とした。


 湯が温まり始めると、肉の匂いがふわりと立ち上がる。

 香草の苦みと火の匂いが混じると、昨日よりずっと落ち着いた香りになった。


 私たちはしばらく、並んで鍋を見ていた。


 火の音。

 湯の揺れる音。

 肉が鍋底で動く音。


 礼拝室の冷たさは、まだ膝に残っていた。

 厨房の火は、それをほどいていく。


「……アルシエラ様」


 ルルティナが、鍋を見つめたまま言った。


「はい」


「祈れて、よかったです」


 私はすぐには答えなかった。


 鍋の中で、豆がひとつ浮き上がる。

 それがまた、静かに沈む。


「私もです」


 それだけ答えた。


 ルルティナは、それ以上何も言わなかった。

 私も続けなかった。


 それでよかった。


 鍋が煮えるのを待つあいだ、ルルティナは器を三つ並べた。

 私は火加減を見て、鍋の位置をずらす。


 やがて肉の色が変わり、豆が柔らかくなってきたころ、厨房の扉が開いた。


 濡れた外套の裾から、雨の雫が石床へ落ちる。


 レディヴィアが、入口に立っていた。


 髪の先が少し濡れている。

 外套にも泥がついていた。

 怪我をしている様子はない。


 彼女は厨房の中へ一歩入ると、鼻先を動かした。


「……良い匂いがしました」


 私はルルティナと顔を見合わせた。

 それから、どちらからともなく笑ってしまう。


「おかえりなさい、レディヴィア様」


「おかえりなさいませ」


 レディヴィアは瞬いた。

 それから、口元を緩める。


「ただいま戻りました」


「狩りはどうでしたか?」


 私が尋ねると、レディヴィアは外套の紐を解きながら答えた。


「前室に置いてあります」


「大きいですか」


「昨日よりは、小さいです」


 それは十分大きいという意味だろうと思った。


 ルルティナが鍋の蓋をずらし、中を確かめる。


「ちょうど、料理もよい頃です」


「では、先に食べましょう」


 私はレディヴィアの外套から落ちる雫を見て、布を一枚取った。


「前室の獣は、この冷えなら待ってくれるでしょう」


「はい」


 レディヴィアは素直に頷いた。


「お腹が空きました」


 その返事に、私はまた笑ってしまった。


 椀へ煮込みをよそう。

 肉と豆と麦が、湯気の中で一緒に沈んでいた。


 昨日の焼いた肉より、匂いはやわらかい。

 獣らしさはまだある。けれど、それはもう前室に横たわる肉の匂いではなかった。鍋の中で、食事になっていた。


 三人で木箱へ腰を下ろす。


 肉はよく煮えていた。

 硬さはあるが、焼いた時よりはずっと食べやすい。

 豆と麦が匂いを受け止め、香草の苦みが後ろに残る。


「昨日より、食べやすいです」


 レディヴィアが言う。


「よかったです」


 ルルティナが、安心したように答えた。


「でも、昨日のも好きです」


「獣らしいほうがですか」


「はい。獣を食べている感じがしました」


 私は匙を止め、笑った。


「それは確かに、ありましたね」


「今日は、家の食事です」


 レディヴィアは椀を見下ろしたまま言った。


 その一言に、厨房の空気が静かになる。


 家の食事。


 私は椀の中の湯気を見た。

 肉。豆。麦。塩。香草。

 それから三つの椀。


「ええ」


 静かに答える。


「家の食事です」


 食べ終えるころには、身体の奥まで温まっていた。


 前室へ向かうと、レディヴィアが持ち帰った獣は壁際に横たえられていた。

 昨日のものより小さいとはいえ、私から見れば十分大きい。毛は灰色がかった黒で、角のような硬い突起が肩にいくつかある。


 私は一度だけそれを見て、すぐに視線を外した。


「……では」


 ルルティナが袖を捲る。


「昨日と同じように、先に内側を」


「はい」


 レディヴィアが短く答える。


 私は桶を持ち上げた。


「水を運びます」


 その役目なら、もう分かっている。


 中庭と前室を往復し、水を運ぶ。

 レディヴィアとルルティナが獣へ向かうあいだ、私はなるべくそちらを見ないようにした。


 音は聞こえる。

 肉を切る音。

 骨が鈍く鳴る音。

 布の上へ重いものが置かれる音。


 好きではない。

 やはり、何度やっても慣れたいものではなかった。


 それでも、水を運ぶことはできる。

 床を流すこともできる。

 血の筋が石の目へ入り込まないよう、先に水を薄く広げることもできる。


 私は桶の水を浮かせ、床へ薄く流した。

 赤黒い筋が広がる。

 それを布で押さえ、石の目に沿って流していく。


「アルシエラ様」


 レディヴィアの声がした。


「はい」


「水、ありがとうございます」


「せめて、掃除は任せてください」


 そう答えると、少しの間があった。


「はい」


 レディヴィアは言った。


「任せます」


 その声が、少しだけ嬉しそうに聞こえたのは、気のせいではないと思った。


 解体は昨日より早かった。

 ルルティナの手順も、レディヴィアの切り分けも、少しずつ分かってきている。私は水と布と桶を動かし、血の多いところを先に流す。


 終わるころには、前室の空気はまた濃い匂いに満ちていた。

 床は昨日より汚れていない。肉も、布の上にきちんと分けられていた。


 前室を流し終え、肉を冷える場所へ移す。

 残った骨の多いところは、外に置いておくことにした。ノクトが戻れば、きっと片づけてくれるだろう。あれを片づけと言っていいのかは分からないが、少なくともこちらは助かる。


 作業が終わるころには、レディヴィアとルルティナの手も袖もすっかり汚れていた。


「……湯を使いましょうか」


 レディヴィアはすぐに頷いた。


「はい」


 ルルティナは布をまとめていた手を止める。

 私はそちらへ向き直った。


「ルルティナも、よければ一緒に」


 言ってから、待つ。


 ルルティナはすぐには答えなかった。

 視線を落とし、自分の袖と、床と、まとめた布を順に見た。


「……まだ、少し」


 静かな声だった。


 私は頷いた。


「ええ」


 それだけで済ませるつもりだった。

 それなのに、もう一言だけ足したくなった。


「では、いつか」


 ルルティナが顔を上げる。


「いつか、皆で入りましょう」


 彼女は驚いたように瞬いた。

 それから、視線を伏せる。


「……はい」


 小さな返事だった。


「いつか」


 それで十分だった。


 私とレディヴィアは、浴場へ向かった。


 廊下は冷えていた。

 作業のあとだからか、身体の熱が妙に遅れて引いていく。袖口にはまだ水気があり、外套の内側にも前室の匂いが残っている気がした。


 しばらく歩いていると、隣のレディヴィアがこちらを見ていることに気づいた。


「どうしました」


 尋ねると、彼女は少し考えるようにしてから言った。


「アルシエラ様は、少し強くなりました」


 私は足を止めた。


「そう見えますか」


「はい」


 レディヴィアは真面目な顔で頷いた。


「前より、少し」


 私はその言葉を受け取り、しばらく何も言わなかった。

 強くなった、という実感はあまりない。

 血はやはり苦手だし、獣の解体は見たくない。

 祈りのあとでも、鍋を混ぜ、床を流し、湯を沸かすだけだった。


 けれど、それでも。


 私はレディヴィアの手を取った。


 彼女は目を瞬かせたが、手を引かなかった。


「レディヴィア様に、置いていかれるわけには参りませんから」


 そう言うと、レディヴィアはしばらく私を見ていた。


 それから、口元を緩める。


「では、一緒ですね」


「ええ」


 私はその手を軽く握り返した。


「一緒です」

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