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厄介な世界。最低な結婚。最高の人生。  作者: 空琴累音


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第41話 新しい祈り

 仕切りを作り終えるころには、厩舎の中はずいぶん落ち着いた場所になっていた。


 ソルとロアのいる側には藁を厚く敷き、入口に近いところへ水桶を置いた。ノクトのためには、壁際に板を数枚立て、浅い囲いのような場所を作る。完全に分けたわけではない。けれど、互いの姿も匂いも届きながら、身体を伏せる場所だけは少し違う。


 ノクトはその仕切りの内側を一度嗅ぎ、藁を前足で押し、壁を見上げた。

 それから、特に不満を示すでもなく丸くなる。


「使うようですね」


 私が言うと、レディヴィアはノクトをじっと見たまま頷いた。


「はい。自分の場所だと分かったのだと思います」


 ソルは鼻先で仕切りの板を押したが、倒れないと分かると興味を失ったらしく、ロアのほうへ顔を戻した。ロアは藁の上でゆっくりと蹄を置き直している。二頭とも、前室にいた時よりずっと落ち着いて見えた。


 ルルティナが水桶の位置をもう一度だけ確かめ、藁の端を丁寧に払う。


「ひとまず、今夜はこれで大丈夫かと」


「助かりました」


 私がそう言うと、ルルティナの口元が、わずかにやわらいだ。


「いいえ。これで、前室も少し片づけやすくなります」


 たしかにその通りだった。

 馬が移り、ノクトの場所も決まった。薪と材木を置く前室は、ようやく前室として使えるようになる。


 厩舎の入口から外を見る。

 城塞の上だけ、まだ薄く晴れていた。遠くの空には灰色が残っているが、ここには陽が差している。


 レディヴィアが、ふと魔の領域のほうへ顔を向ける。


「……途中でした」


 小さく零れた声だった。

 私はそちらを見る。


「狩りですか」


「はい」


 レディヴィアは頷いた。


「煙が見えたので戻りました。けれど、まだ何も持ち帰っていません」


 声はいつも通り静かだった。

 ただ、彼女の視線は離れなかった。


 私は魔の領域を見てから、もう一度空を見た。

 雨は止み、風も落ち着いている。空も、今は晴れている。それでもまだ、魔の領域には厚い雲が残っていた。


「今日は、一度ここまでにしますか」


 そう尋ねると、レディヴィアは首を横に振った。


「せめて一つは持ち帰りたいです」


 まっすぐな返事だった。


 食糧。

 家のためのもの。

 彼女が自分で選んだ役目。


 私は、それ以上止めなかった。


「分かりました」


 それから、少しだけ声をやわらげる。


「ですが、怪我はしないでくださいね」


 レディヴィアは深く頷いた。


「はい」


 彼女は外套の留め具を確かめ、フードの縁を直した。それだけで、狩りに不足はないのだろう。


「行ってきます」


「帰りを待っていますから」


 その言葉に、レディヴィアはほんの少しだけ口元を緩めた。


「待っていてください」


 それだけ言って、彼女は厩舎の外へ出た。


 濡れた地面を踏む足音が、少しずつ遠ざかっていく。

 魔の領域へ向かう背中は、危うくは見えなかった。小さくも見えなかった。


 私はその背が外門の向こうに消えるまで見送った。


 やがて、視線を戻す。

 厩舎の中では、ソルとロアが並んで藁を踏み、ノクトは仕切りの奥で薄く目を開けていた。ルルティナは水桶のそばに立ったまま、静かにこちらを見ている。


 私は、少しだけ息を整えた。


「ルルティナ」


「はい」


 彼女はすぐに両手を揃え、ほんのわずかに顎を引いた。その反応がまだ少しだけ昔のままに見えてしまう。


「昼に言いかけたお願いを、聞いてもらえますか」


 ルルティナの表情が変わった。


 目元が静かに引き締まる。

 まっすぐとこちらを見返したまま、両手を身体の前で固く組む。


「……はい」


「まずは、場所を移しましょう」


 私は厩舎の外へ目を向ける。

 ソルとロアの息づかい。ノクトの気配。木と藁と濡れた土の匂い。

 ここは、さきほどできたばかりの場所だ。


「ちょうど良い場所があります」


 ルルティナはすぐには問い返さなかった。

 ただ一度、静かに頷く。


「分かりました」


 私たちは厩舎をあとにした。


 城へ戻る道は、昼の作業で何度も歩いたはずなのに、今は少し違って感じられた。

 外庭には、焼け落ちた兵舎の跡がまだ残っている。炭と灰の黒い広がり。その向こうに、新しい厩舎が立っていた。


 ルルティナは私の半歩後ろを歩いていた。

 その距離を、私はあえて変えなかった。


 正門を抜け、広間を通る。

 床にはまだ木材がいくつか残っていた。前室には薪の匂いがある。厨房のほうからは、薄く灰と茶葉の香りが漂ってきた。


 それらを通り過ぎ、私たちは礼拝室へ向かった。


 扉の前で一度だけ足を止める。

 この部屋で、ルルティナは最初の夜を過ごした。客人として迎え入れられ、それでも私たちと同じ部屋で休むことを選べなかった夜だ。


 私は扉を押し開けた。


 中は昼でも薄暗かった。

 高い窓から差し込む光は細く、石の床へ淡く落ちている。壁には浅く刻まれた意匠があり、正面には欠けた祭壇が残っていた。古びてはいる。けれど、ただの空き部屋ではなかった。


 ルルティナは一歩だけ中へ入り、そこで足を止めた。

 彼女の指が、胸元で一度だけ動いた。

 祈りの形を取りかけて、けれど途中で止まる。


 私は扉を閉める。

 外の音が少し遠くなった。


「ルルティナに、頼みがあります」


 声は、自分で思っていたより静かに出た。


 ルルティナは何も言わない。

 ただ、まっすぐに私を見る。


「かつて、私の侍女であったあなたに」


 その言葉に、彼女の睫毛がわずかに揺れた。


「そして、クロア教の信徒であるあなたに」


 ルルティナは少しだけ俯いた。


 壁に刻まれた意匠の下で、彼女の横顔だけが細い光を受けていた。

 そのまましばらく、部屋の中には何の音もなかった。


 やがて、ルルティナは顔を上げた。


「お聞きいたします」


 低く、確かな声だった。


 私は彼女へ近づいた。

 ルルティナは動かない。


 その両手を取る。


 指先が、ほんの少しだけ強張った。

 身体にも緊張が走る。けれど手を引きはしなかった。私はその手を、しっかりと握り込む。


 かつての私達なら、手を重ねることはなかったように思う。

 衣を整え、食事を用意し、扉を開け、必要なものを差し出す手。それだけの手。


 けれど今。

 だからこそ、私は彼女の手を取った。


 一つ一つ、言葉を紡いでいく。


 私は、願いを告げた。

 彼女にだけ届くような小さな声。

 それでも確かな言葉だった。


 声にしてしまえば、思っていたより短い言葉だった。けれど、胸の奥ではずっと重かった。


 礼拝室の中に、その言葉だけが落ちる。


 ルルティナの息が止まった。


 最初、彼女は何も言わなかった。

 ただ私を見ていた。

 やがて、彼女の視線が私の手元へ落ちる。握られた手。自分の手。そのまま、ゆっくりと膝が折れた。


 崩れ落ちたのではなかった。

 侍女の礼でもない。


 祭壇の前に身を置く時のような、深い姿勢だった。


 ルルティナは私の前に傅き、頭を垂れた。

 その肩は震えていない。けれど、静かすぎるほど静かだった。


「……それを」


 声は低く、重かった。


「それを私がしてよいことだとは、思えません」


 私は彼女の手を離さなかった。

 そのまま、自分も膝をつく。


 石の床は冷たかった。


 ルルティナと同じ高さで、私は彼女を見る。


「それでも」


 彼女が顔を上げる。

 目が揺れていた。


「私たちのために」


 私は言葉を切らずに続けた。


「私とあなたの関係を終わらせて、もう一度始めるために」


 ルルティナの指が、私の手の中でかすかに動いた。


「あなたに頼みたいのです」


 礼拝室は静かだった。

 高い窓から落ちる細い光だけが、祭壇の角を白く照らしていた。


 ルルティナはしばらく黙っていた。


 短い沈黙ではなかった。

 けれど、彼女は目を逸らさなかった。


 やがて、深く息を吐く。


「……少し、お時間をください」


 私は頷いた。


「はい」


「すぐに、はいとは申せません」


「分かっています」


「ですが」


 ルルティナは私を見た。

 その目には、まだ痛みがあった。


「その日が来るまでに、務める覚悟を整えます」


 声は静かだった。

 けれど、もう逃げる者の声ではなかった。


 私はもう一度、彼女の手を包み込む。

 今度は強く握るのではなく、冷えた指を温めるように。


「四年のすれ違いを、なかったことにはできません」


 ルルティナの目が、かすかに伏せられる。


「誰もが、遅すぎました」


 自分で口にしても、その言葉はまだ胸に沈む。

 けれど、もうそれだけでは終わらせない。


「けれど」


 私は彼女の手を包んだまま続けた。


「一度遅れたからといって、遅れたままでいることはないのです」


 ルルティナは何も言わなかった。

 ただ、私の手の中で、ほんの少しだけ指を曲げた。


 それは返事というには小さすぎた。

 けれど、確かにそこにあった。


 私はゆっくりと息を吐く。

 礼拝室の冷たい床の上で、私たちはしばらく向かい合っていた。


 私の両手がルルティナに引き寄せられる。

 彼女は私の両手に額を寄せ、ただ静かに祈りを捧げていた。


 遠くで、城の外を風が抜ける音が響く。


 レディヴィアはまだ戻らない。

 その帰りを待つ時間の中で、私たちはもう少しだけ、礼拝室の冷たい床に膝をついていた。


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