第四百八十六話「ハリボテの薔薇園と、姫殿下の『裏側の秘密基地』」
その日の午後、エルデンベルク王城は、隣の大国「鉄機帝国」からの視察団を迎えるため、ピリピリとした緊張感に包まれていた。
帝国の視察官は、「規律と秩序」を絶対視する冷徹な男として知られており、王城の少しでも乱雑な部分を見れば、外交評価に傷がつくと恐れられていたのだ。
王城の式典局長であるサイラス男爵は、焦っていた。
王城の裏庭には、冬越しのための藁の山や、修理中の農具、そして庭師たちが休憩に使う古びた小屋など、「生活感あふれる(つまり、美しくない)」ものが散乱していたからだ。片付ける時間はもうない。
「ええい、隠せ! すべてを『完璧な美』で覆い隠すのだ!」
サイラスは、宮廷画家に命じて描かせた、巨大な「書き割りの板」を何枚も用意させた。
そこには、雑草一本ない完璧な芝生や、満開の薔薇(季節外れだが)、そして整列して敬礼する兵士の絵が、写実的に描かれていた。
彼は、その板を立てかけ、ボロ小屋や堆肥の山を隠してしまった。
遠目に見れば、王城の裏庭は、一分の隙もない「理想郷」に見えた。
「ふふふ。これで完璧だ。視察官殿も、この美しい風景に感嘆するだろう」
◆
そこへ、シャルロッテがモフモフを抱いて通りかかった。
彼女は、突然現れた「薄っぺらい薔薇園」を見て、首を傾げた。
「ねえ、サイラスおじさん。この薔薇さんたち、息をしてないよ? それに、裏側が木枠だらけで、なんだかお芝居のセットみたい」
サイラスは、冷や汗をかきながら小声で言った。
「しっ! 姫殿下。これは『おもてなし』のための化粧でございます。裏側を見てはいけません。美しい表面だけが、国の品格なのです」
シャルロッテは、納得がいかなかった。
彼女の目には、書き割りの裏に隠された「ボロ小屋」から漂うコーヒーの香りや、「堆肥の山」から発せられる生命の湯気の方が、ずっと魅力的で、温かく見えたからだ。
「うーん。でも、裏側のほうが、面白そうな匂いがするのになあ」
◆
やがて、視察官の一行が到着した。
軍服に身を包んだ視察官は、片眼鏡を光らせ、サイラスの案内で裏庭へとやってきた。
「ほう。エルデンベルクの庭園は、塵一つ落ちていないようですな。いささか、人工的すぎるきらいはありますが……」
視察官は、書き割りの「完璧な薔薇」を怪しむように凝視した。
サイラスの心臓が早鐘を打つ。
その時。
書き割りの裏側から、楽しげな声が聞こえてきた。
「モフモフ、見て! ミミズさんがダンスしてるよ!」
シャルロッテだった。彼女は、いつの間にか書き割りの「裏側」に入り込んでいたのだ。
さらに、ドタバタという音と共に、書き割りの一枚が大きく揺れた。モフモフが、板の支えに体を擦り付けてしまったのだ。
バタン!
巨大な「完璧な薔薇の絵」が、音を立てて前方に倒れた。
その向こうから現れたのは、美しい花園――ではなく、積み上げられた腐葉土の山と、泥だらけの長靴、そして、土いじりをして顔を汚した、満面の笑みのシャルロッテだった。
「ああっ! 終わった……!」
サイラスは顔を覆った。国の恥部が、視察官の前に晒されてしまったのだ。
しかし、シャルロッテは、悪びれる様子もなく、手についた泥をパンパンと払いながら言った。
「ようこそ、おじ様! こっちはね、『本物の秘密基地』だよ! 絵の薔薇さんは匂いがしないけど、こっちの土はね、ふかふかで、命の匂いがするんだよ!」
彼女は、腐葉土の中から、冬を越そうとしているカエルの寝床を指差した。
「見て! ここにはね、春を待ってる命がいっぱい隠れているの。綺麗に隠しちゃうと、この子たちが息苦しくなっちゃうでしょう?」
視察官は、倒れた書き割りと、その奥にある「雑然とした、しかし豊かな現実」を交互に見た。
そして、片眼鏡を外し、地面の土を手に取った。
「……なるほど。表面だけの美しさよりも、この肥沃な土と、泥にまみれて遊ぶ王女の姿こそが、この国の『本当の豊かさ』というわけですか」
視察官の厳格な口元が、わずかに緩んだ。
彼は、自国の「鉄と規律」の世界にはない、有機的な温かさに触れたのだ。
「サイラス殿。立派な絵画も良いですが、私はこの『生きた土』のほうが、好ましく思いますな」
サイラスは、腰を抜かさんばかりに驚き、そして安堵した。
シャルロッテは、モフモフの頭に枯れ葉の冠を乗せた。
「えへへ。だって、ペラペラの絵よりも、裏側のごちゃごちゃした場所のほうが、冒険がいっぱいあって、絶対可愛いもん!」
その日の午後、王城の裏庭から「ハリボテ」は撤去された。
代わりに、ありのままの生活感と、土の香りが、最も誇らしい「国のおもてなし」として、視察団を歓迎したのだった。




