第四百八十五話「凍れる泉の聖歌と、姫殿下の『緑の生命力(ヴィリディタス)』」
わたくしは、エレオノーラ。このエルデンベルク王国の王妃として、日々を過ごしております。
王妃の務めとは、常に美しく、揺るぎない慈愛の象徴であること。しかし、この長く厳しい冬は、わたくしの心にも、少しばかり冷たい影を落としていたのかもしれません。
その日の午後、わたくしは一人、王城の奥にある「静寂の回廊」を歩いておりました。
そこにある小さな中庭は、寒波によって完全に凍りつき、噴水の水は氷柱となり、ハーブたちは雪の下で息絶えたかのように茶色く萎れておりました。
それはまるで、枯渇した生命の象徴のようで、わたくしはふと、深いため息をつきました。
「……春は、まだ遠いのですわね」
その時です。
氷の張った静寂を破るように、サクサクと雪を踏む、小さな足音が近づいてまいりました。
「ママ! ここにいたのね!」
振り返ると、そこには真っ白な毛皮のコートに身を包んだシャルロッテと、その腕の中のモフモフがおりました。
あの子の翠緑の瞳は、この灰色の冬景色の中で、唯一、燃えるような生命の色を湛えていました。
「シャル。ここは寒いわ。お部屋に戻りましょう」
わたくしがそう促そうとすると、シャルロッテは首を横に振りました。
「ううん、ママ。寒くないよ。だって、ここの土の下には、『緑の力』がいっぱい眠っているんだもの」
「緑の……力?」
シャルロッテは、枯れたハーブの根元にしゃがみ込みました。
あの子は、魔法を使う構えを見せませんでした。ただ、手袋を外した小さな温かい手で、凍った土を優しく撫でたのです。
「ねえ、ママ。世界はね、死んじゃったわけじゃないの。今はただ、神様の深呼吸の途中なのよ」
そう言うと、シャルロッテは、静かにハミングを始めました。
それは、特定の曲ではありませんでした。風の音や、地下水脈のせせらぎと共鳴するような、不思議な振動を持つ旋律でした。
わたくしは、その歌声を聴いた瞬間、目を見張りました。
あの子の声が響くたびに、空気中の魔力が震え、わたくしの視界が、不思議な変化を起こし始めたのです。
それは「幻視」と呼ぶべきものでしょうか。
わたくしの目には、枯れ木や凍った土の奥底に、脈打つような「緑色の炎」が見え始めました。
あれが……シャルロッテの言う「緑の力」なのでしょうか。
一見、死に絶えたように見える冬の世界の裏側で、生命は、湿り気を帯びた緑色のエネルギーとして、激しく、しかし静かに循環していたのです。
「起きて、起きて。緑の子供たち。お日様の声が聞こえるでしょう?」
シャルロッテの歌声が高まるにつれ、その緑の炎は輝きを増しました。
物理的な温度は上がっていないはずです。しかし、凍りついた噴水の氷柱が、内側から光り輝き、ピキリ、と音を立ててひび割れました。
そして、枯れ枝の先から、信じられないことが起きました。
春を待たずに、小さな、本当に小さな緑の芽が、顔を出したのです。
それは魔法による強制的な成長ではありませんでした。あの子の歌が、植物の中に眠る「生きようとする意志」を呼び覚まし、溢れ出させたのです。
わたくしは、胸の奥が熱くなるのを感じました。
王妃としての重圧や、冬の憂鬱で冷え切っていたわたくしの心の中にも、同じ「緑の力」が宿っていることに気づかされたのです。
生命とは、乾いて終わるものではなく、常に瑞々しく、再生し続けるものなのだと。
「……ああ、美しい。世界は、こんなにも生命に満ちていたのね」
わたくしは、シャルロッテの隣に跪き、その小さな体を抱きしめました。あの子からは、日向の匂いと、命の温もりがしました。
シャルロッテは、歌い終えると、にっこりと微笑みました。
「ね、ママ。お庭も、ママも、もうキラキラの緑色だよ!」
モフモフも、雪の上で嬉しそうに跳ね回りました。
庭園の雪はまだ残っていましたが、空気は一変していました。そこには、春の訪れを確信させる、潤いのある「生きた静寂」が満ちていました。
わたくしは立ち上がり、シャルロッテの手を引きました。
足取りは、来る時よりもずっと軽く、心は洗われたように澄み渡っていました。
あの子は、ただの愛らしい王女ではありません。
この世界と天上の調和を繋ぎ、枯れたものに再び「緑」を注ぐ、小さな聖女なのかもしれませんわね。




