第四百七十八話「泥の沼の複製と、姫殿下の『ダブル・モフモフ論』」
その日の午後、王城の裏手にある湿地帯「鏡の沼」は、不気味な静寂と、むせ返るような草の匂いに満ちていた。
昨夜の嵐で沼の水位は上がり、泥が撹拌され、そこには得体の知れない魔力的な粘土が渦巻いていた。
シャルロッテは、可愛い泥遊びをするためにそこを訪れていた。もちろん、モフモフも一緒だ。
しかし、悲劇(あるいは喜劇?)は突然起きた。
沼のほとりを歩いていたモフモフが、足を滑らせて、ボチャン! と泥の中に落ちてしまったのだ。
その瞬間、空に残っていた雷雲から、バリバリッ! と一筋の稲妻が落ち、沼の泥を直撃した。
水しぶきと蒸気が晴れた後、そこには信じがたい光景が広がっていた。
沼の泥の中から、モフモフが這い上がってきた。
……二匹。
右からも、左からも。
濡れた毛をブルブルと震わせ、「ミィ」と鳴く、全く同じ姿、同じ匂い、同じ魔力波動を持ったモフモフが、二匹同時に現れたのだ。
駆けつけたマリアンネ王女は、解析用ゴーグルを装着し、顔面を蒼白にさせた。
「こ、これは……! 伝説の『泥の複製現象』だわ! 落雷のエネルギーが、泥の粒子を再構成して、対象と原子レベルで完全に同一のコピーを作り出したのよ!」
マリアンネは震える指で二匹を指さした。
「見て、シャル。彼らはDNAも、記憶も、癖も完全に同じ。どちらが『オリジナル』で、どちらが『沼から生まれたコピー』なのか、物理的には区別がつかないわ。もし、オリジナルが落雷で消滅して、ここにいるのが二匹ともコピーだとしたら……彼らに『心』はあると言えるのかしら?」
それは、哲学者が何百年も議論してきた、戦慄すべきアイデンティティの危機だった。
もし、自分が自分と全く同じ記憶を持つ他人に置き換わったとして、それは自分と言えるのか?
マリアンネは頭を抱えた。
「ああ、恐ろしいパラドックス! この世界に『唯一無二』なんて存在しないという証明になってしまう!」
しかし、シャルロッテは、二匹のモフモフ(どちらも泥だらけ)を見比べて、ポカンとしていた。
そして、次の瞬間、顔を輝かせた。
「すごい! すごいよ、お姉様! モフモフが増えた!」
「シャル!? 喜んでいる場合じゃないわ!? これは存在論的危機なのよ!」
シャルロッテは、右のモフモフを抱き上げた。温かい。
左のモフモフも抱き上げた。やっぱり温かい。
二匹のモフモフは、同時にシャルロッテの頬を舐め、同時に喉をゴロゴロと鳴らした。
「ねえ、お姉様。わたし難しいことはわからないけど……」
シャルロッテは、両手に抱えた二匹の毛玉に顔を埋めた。
「こっちのモフモフも、私のことが大好きで、あっちのモフモフも、私のことが大好きみたい。二人とも、昨日食べたおやつの味が美味しかったって覚えてるよ」
「それは……記憶が複製されているだけかもしれないわ」
「でもね、今、私が抱っこして『嬉しいな』って思っているこの気持ちは、本物だよ。そして、この子たちが返してくれる温かさも、本物だよ」
シャルロッテは、哲学的な問いを一刀両断した。
「どっちが本物とか、どっちがコピーとか、関係ないよ。だって、可愛さが二倍になったんだもん! これって、宇宙で一番お得な奇跡じゃない?」
シャルロッテにとって、「履歴(=どう生まれたか)」は重要ではなかった。「現在(=今、ここにいて愛しいか)」だけが、存在の証明だったのだ。
二匹のモフモフは、互いに威嚇することもなく、鏡を見るように不思議そうに見つめ合った後、一緒になってシャルロッテにじゃれつき始めた。
彼ら自身も、自分がオリジナルかどうかなんて気にしていないようだった。美味しいご飯と、愛してくれる主人がいれば、それが全てなのだ。
マリアンネは、そのあまりにあっけらかんとした光景に、肩の力を抜いた。
「……そうね。原子の配置がどうであれ、あなたが『愛している』と観測した時点で、彼らは両方とも『本物のモフモフ』として確定するのね」
その日の夕方、王城の廊下には、二匹のモフモフを引き連れて、得意げに歩くシャルロッテの姿があった。
フリードリヒ王子は「なんと! 訓練の相手が二倍になったか!」と喜び、アルベルト王子は「食費が倍になるな」と苦笑しながらも予算を承認した。
泥から生まれたコピーであろうと、雷の悪戯であろうと、愛の前では些細な問題に過ぎない。
薔薇の塔のベッドは少し狭くなったけれど、その分、温かさと幸福の密度は、確実に二倍になったのだった。
……後日、モフモフはいつの間にか一匹に戻っていて、シャルロッテはちょっびりだけがっかりしたのだけど。




