第四百七十七話「古びた製本室と、老職人の『紙の森の庭師』」
昨日の凧揚げ騒動が嘘のように、今日の王城は、しとしとと降る雨の音に包まれ、深い静寂の中にあった。
シャルロッテは、雨の日の湿った紙と、古い糊の匂いに誘われて、図書塔の最下層にある「製本室」を訪れていた。
そこは、華やかな王城の中にあって、まるで時が止まったかのような場所だった。
窓辺には、一人の背中の曲がった老人が座っていた。宮廷製本師のサイラスだ。彼は、王家の蔵書の中でも特に傷みの激しい古書を、手作業で修復する仕事を、もう五十年も続けているという。
サイラスの手元には、表紙が外れかけ、虫食いだらけになった一冊の詩集があった。
彼は、魔法を使うわけでもなく、ただ黙々と、ピンセットで紙の繊維を整え、膠を塗り、糸を綴じていた。その動きはあまりに遅く、しかし、祈るように丁寧だった。
「ねえ、サイラスおじいさん。魔法を使えば、パッて直せるのに、なんで?」
シャルロッテが小声で尋ねると、サイラスは手を止めずに、静かに答えた。
「姫様。魔法は便利ですが、時間は魔法では作れません。この紙には、三百年分の時が染み込んでおります。わしがやっているのは、修理ではありません。時を繋ぐことなのです」
シャルロッテは、モフモフを膝に乗せて、サイラスの作業をじっと見つめた。
彼が一針通すごとに、ボロボロだった本が、少しずつ背筋を伸ばしていくように見える。それは、枯れかけた木に、水をやり、添え木をして、再び命を吹き込む作業に似ていた。
「この本は、わしが死んだ後も、百年、二百年と生き続けるでしょう。わしは、まだ見ぬ未来の誰かが、この森の中で迷わないように、道を整えているだけの庭師に過ぎません」
サイラスは、書物のことを「森」と呼んだ。
文字は葉であり、ページは枝であり、表紙は樹皮であると。
シャルロッテは、その言葉に心を打たれた。
彼女の目には、サイラスの背中が、ただの老人ではなく、荒れ果てた荒野に、一本ずつ苗木を植え続ける、偉大な開拓者のように見えてきた。
彼は、誰に褒められることもなく、過分な報酬を求めることもなく、ただ「未来」のために、指先を動かし続けているのだ。
「ねえ、モフモフ。ここは、とっても静かな森の入り口なんだね」
シャルロッテは、魔法で本を直すことをしなかった。それは、庭師の楽しみを奪うことになるからだ。
その代わり、彼女は、サイラスの作業台の周りの空気に、木属性と風属性の魔法を、ごく薄く、ヴェールのように掛けた。
それは、何かを変える魔法ではない。
ただ、部屋の中に、「森の朝のような、清浄で瑞々しい空気」を満たすだけの魔法だった。
サイラスがふと顔を上げた。
薄暗いはずの製本室に、木漏れ日のような柔らかな光が差し込み、古紙の埃っぽい匂いが、若葉の香りに変わっていたからだ。
「……不思議だ。今日は雨のはずなのに、小鳥の声が聞こえるような気がします」
それを機に老人の手が、さらに軽やかに、リズミカルに動き出した。
シャルロッテは、何も言わずに微笑んだ。
一冊の本が修復を終え、サイラスが最後のプレス機を回した時、その本からは、目に見えない「生命の息吹」が立ち上ったように見えた。
それは、新品の本にはない、大切に守られてきたものだけが持つ、重厚で温かい輝きだった。
「出来ました。これで、この物語は、あと三百年は語り継がれるでしょう」
サイラスは、満足そうに本の背を撫でた。それは、自分の育てた大木を見上げるような、誇らしげな手つきだった。
シャルロッテは、部屋を出る時、振り返って深くお辞儀をした。
「ありがとう、森の庭師さん。また、未来の種を見に来るね」
雨はまだ降り続いていたが、シャルロッテの心の中には、見渡す限りの緑の森が広がっていた。
それは、一人の老人が、静かな部屋で、指先だけで育て上げた、永遠に枯れない言葉の森だった。




