第四百五十七話「あやふやな箱と、姫殿下の『わくわくする確定』」
その日の午後、王城の魔法研究塔の最上階にある特別実験室は、奇妙な静けさに包まれていた。
部屋の中央には、何の変哲もない、黒塗りの木箱が一つ置かれているだけだ。しかし、その箱の周りには、何重もの結界が張られ、マリアンネ王女が額に汗を滲ませながら、複雑な計測器を睨みつけていた。
「……おかしいわ。魔力波形が安定しない。この箱の中の物質は、今、『存在する』状態と『存在しない』状態が、同時に重なり合っている」
マリアンネは、この世の理を揺るがす現象に直面していた。箱の中身は、観測者が蓋を開けて認識するまで、確率の雲の中に溶けており、確定していないのだ。それは、論理的な彼女にとって、耐え難い「曖昧さ」だった。
そこへ、シャルロッテがモフモフを抱いて、トテトテとやってきた。
彼女は、張り詰めた空気などお構いなしに、その黒い箱に近づいた。
「ねえ、お姉様。この箱、なあに? 中身は何?」
「シャル! 触らないで! 中身は……まだ決まっていないのよ」
「決まってない?」
シャルロッテは首を傾げた。
マリアンネは、わかりやすく(?)説明しようと試みた。
「いいこと、シャル。この箱の中には、不安定な魔法薬が入っているの。でも、蓋を開けて見るまでは、それが『綺麗な宝石』になっているか、それとも『ただの泥』になっているか、誰にもわからない。今はその両方の可能性が半分ずつ、混ざり合って存在しているのよ」
普通の人なら「そんな馬鹿な」と言うところだが、シャルロッテの反応は違った。彼女の翠緑の瞳が、キラリと輝いたのだ。
「へええ! すごい! じゃあ、開ける人が『こうなってほしい!』って強く思ったら、そうなるの?」
マリアンネは苦笑した。
「それは『観測者効果』の極端な解釈ね。理論上は、観測者の意識が結果に影響を与える可能性はゼロではないけれど……」
シャルロッテは、箱の前にちょこんと座り込んだ。
彼女は、難しい理論はわからなかったが、一つの真理を知っていた。
――見えない箱の中身は、想像力次第で、無限の宝箱になる。
「ねえ、モフモフ。この中にはね、きっと『世界で一番美味しい、虹色の金平糖』が入っているよ。食べた瞬間に、口の中で星が弾けるみたいな音がするの!」
シャルロッテは、箱に向かって、ワクワクする気持ちを全力で注ぎ込んだ。彼女の中では、箱の中身はもう「泥」である可能性など微塵もなく、キラキラしたお菓子であること以外あり得なかった。
すると、どうだろう。
マリアンネの計測器の針が、激しく振れ始めた。
「不確定」を示していた混沌とした波形が、急速に一つの形へと収束していく。
「魔力波形が……固定されていくわ! しかも、この波長は……『幸福』と『甘味』!?」
シャルロッテは立ち上がり、箱に手をかけた。
「開けるよ! せーのっ!」
パカッ。
蓋が開かれた瞬間、部屋中に甘い香りと、眩い光が溢れ出した。
箱の中にあったのは、もちろん泥などではない。
そこには、シャルロッテが想像した通りの、七色に輝く金平糖が、山のように詰まっていたのだ。しかも、一粒一粒が自ら光を放ち、触れ合うたびにチリンチリンと鈴のような音を立てている。
「わあ! やっぱり! 虹色の金平糖だ!」
シャルロッテは一粒つまんで口に入れた。カリッ、パチパチ!
口の中で、本当に小さな花火のような弾ける音がした。
マリアンネは、呆然と箱の中身を見つめ、眼鏡をずり上げた。
「信じられない……。物理法則を超越しているわ。シャル、あなたは『観測』したんじゃない。あなたの強い『期待』と『確信』が、あやふやだった現実を、望む形に無理やり『確定』させてしまったのよ!」
それは、科学者にとっては敗北かもしれないが、姉としては驚嘆すべき奇跡だった。
シャルロッテは、金平糖をマリアンネにもそっと差し出した。
「んっ……甘い。そして、懐かしい味がする」
「でしょ? お姉様。未来とか、見えない箱の中身ってね、心配するより『素敵なものが入ってる!』って決めて開けたほうが、絶対にお得なんだよ!」
マリアンネは、口の中の甘さを味わいながら、ふっと笑った。
不確定性原理だのシュレーディンガーの方程式だの、難しいことはどうでもよくなった。
「そうね、シャル。あなたの言う通りだわ。世界は、私たちがどう見るかによって、泥にも宝石にもなるのね」
その日の実験は中止になった。
代わりに、姉妹とモフモフによる、不思議な金平糖の試食会が始まった。
あやふやだった午後の時間は、「最高に甘くて楽しい時間」として、しっかりと確定されたのだった。




