第四百三十二話「月夜の独唱と、王城を巡る『眠りの輪唱』」
夜が来ました。青い夜が。
王城は、すっぽりと闇の毛布にくるまって、静かな海に浮かぶ小舟のように、月明かりの中を漂っています。
しん、しん、しん。
雪は降っていませんが、星の光が降る音が聞こえるようです。
シャルロッテは、眠れませんでした。
モフモフも、眠れませんでした。
二人は、薔薇の塔の窓辺に座り、耳を澄ませました。
静寂?
いいえ、違います。夜の王城は、昼間よりもずっとお喋りな音楽で満ちていたのです。
さあ聴いてごらん、モフモフ。
地下の奥深くから、低い、低い、大地のベース音が響いています。
ゴー、ゴー、ゴー。
それは、ルードヴィヒ国王の寝室から響く、威厳あるイビキの音。
国の重荷を枕元に置いて、王様は夢の中で、まだ何かと戦っているリズムです。
重たくて、強くて、でもどこか安心する、王城の土台の音。
さあ聴いてごらん、モフモフ。
塔の上のほうから、高い、高い、風のフルートが響いています。
ヒュル、ヒュル、ヒュル。
それは、マリアンネ王女の研究室の隙間風。
あるいは、彼女が夢の中で追いかけている、数式が立てる衣擦れの音かもしれません。
鋭くて、澄んでいて、少しだけ寂しがり屋な、知性の旋律。
さあ聴いてごらん、モフモフ。
廊下の向こうから、規則正しい、メトロノームが響いています。
カツ、カツ、カツ。
それは、夜警の騎士の足音でしょうか。それとも、アルベルト王子が夢の中で刻む、完璧なスケジュールの足音でしょうか。
正確で、揺るぎなくて、真面目すぎるくらいの、律動の音。
ゴー、ゴー。ヒュル、ヒュル。カツ、カツ。
王城の夜は、バラバラな音符たちが、指揮者を待って、勝手気ままに演奏会を開いているようです。
「ねえ、モフモフ。この音楽、ちょっとだけ、調律が必要だね」
シャルロッテは、窓辺にすっくと立ち上がりました。
彼女は、魔法の杖の代わりに、月光を浴びた指先を、夜の空気に浸しました。
彼女は、問題を解決するのではありません。ただ、この夜の歌に、自分の声を重ねたかったのです。
シャルロッテは、風属性と光属性の魔法を、歌うように紡ぎました。
彼女の魔法は、「調和」という名の、透明なハーモニーとなって、城中を巡り始めました。
ララ、ルル、ララ。
シャルロッテの心の歌が、王様の重たいベース音に、軽やかな副旋律を添えました。
すると、ゴー、ゴーという音は、ブォン、ブォンという、柔らかいチェロの音色に変わりました。
ララ、ルル、ララ。
シャルロッテの愛の波紋が、王女の鋭いフルート音を、優しく包み込みました。
すると、ヒュル、ヒュルという音は、フォン、フォンという、温かいオルガンの和音に変わりました。
ララ、ルル、ララ。
シャルロッテの安らぎのリズムが、王子の硬いメトロノームを、三拍子のワルツに変えました。
カツ、カツという音は、タタ、タン、という、踊るようなドラムの音色に変わりました。
ブォン、ブォン。
フォン、フォン。
タタ、タン。
ララ、ルル、ララ。
王城は今、ひとつの巨大なオルゴールになりました。
誰も起きてはいません。誰も、この変化を知りません。
ただ、眠りの中で、王様は眉間の皺をほどき、王女は口元を緩め、王子は夢の中でネクタイを外したことでしょう。
シャルロッテは、最後の仕上げに、モフモフの喉を撫でました。
ゴロ、ゴロ、ゴロ。
それは、この夜の交響曲を締めくくる、最も小さくて、最も温かい、満足のパーカッション。
「おやすみ、お城。おやすみ、みんな。おやすみ、世界」
音楽は、静寂へと溶けていきました。
けれどそれは、冷たい無音ではなく、満ち足りた「休符」という名の静けさでした。
月だけが、この秘密の夜の音楽会を、静かに見守っていました。




