第二百八十八話「騎士の鼻と、庭園の『土の千の香り』」
その日の午後、王城の騎士訓練場は、泥と汗の匂いに満ちていた。第二王子フリードリヒは、騎士団の中でも特に嗅覚が鋭敏で、土や金属、汗の微かな匂いの変化を察知し、訓練のコンディションを把握していた。
「ハンス! 訓練場の土が、昨日より少し鉄臭いぞ! これでは、足許が滑る!」と、フリードリヒは、遠くの庭師たちに向かって声を上げた。
フリードリヒにとって「土の匂い」は、剣術のための道具としての単なる機能的な情報に過ぎなかった。彼は、その鋭敏な嗅覚を、「強さ」の証明としてのみ捉えていた。
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シャルロッテ姫殿下は、モフモフを抱き、その土の前に立った。
「ねえ、フリードリヒ兄様。土の匂いはね、鉄だけじゃないよ。色んなお話が詰まってるよ」
ハンス庭師長は、姫殿下の言葉に深く頷いた。
「姫殿下のおっしゃる通りです。土は、水、微生物、枯れた葉、すべてが混ざり合った、小さな宇宙でございます」
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シャルロッテは、フリードリヒ王子の「感覚の偏り」を優しく是正することにした。
彼女は、風属性と光属性の魔法を応用した。彼女の魔法は、フリードリヒ王子の元々鋭い嗅覚を、「物理的な成分分析」のためではなく、「匂いの持つ、感情的な物語」を読み取るために、優しく、再調整した。
「ね、兄様。土をもう一度嗅いでみて。今度は、土さんのお話を聞いてみて!」
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フリードリヒ王子は、妹に促され、地面の土を嗅いだ。彼の鼻腔に流れ込んできたのは、驚くほど複雑で、豊かな香りの情報だった。
「これは……! 腐葉土の甘い、懐かしい匂い。そして、雨上がりの、清々しい透明な香り。その奥には、微かに残る、昨日の太陽の温もりが……! そして、この匂いは、ハンスが愛を込めて、優しく耕したという、献身の匂いだな!」
フリードリヒ王子は、今まで「鉄臭さ」としか感じていなかった土の中に、「千の物語」が隠されていたことに、言葉を失った。
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ハンス庭師長は、王子の、土への深い共感の言葉に、涙ぐんだ。
「ああ、王子殿下。私の仕事の『本質』を、初めて理解していただけました……!」
アルベルト王子が、その光景を見て、静かに感動した。
「フリードリヒは、強さの探求を通して、自然の偉大さという、最も尊い感情を手に入れたのだな」
シャルロッテ姫殿下は、モフモフを抱き、にっこり微笑んだ。
「えへへ。だって、強いだけじゃなくて、優しい匂いがわかる強い人の方が、世界一かっこいいもの!」
姫殿下の純粋な哲学は、「強者の感覚的な盲点」を克服させ、「自然の恵みへの深い感謝」という、温かい真理を、騎士の誇りにもたらしたのだった。




