第二百七十二話「裏庭の古井戸と、王女が辿る『一瞬の夏の日』」
その日の午後、王城の裏庭の苔むした古井戸は、強い夏の陽光に照らされていた。シャルロッテは、モフモフを抱き、その井戸の縁に立っていた。
彼女の脳裏には、「時間を、自分だけのものにしたい」という、純粋な願望があった。それは、「楽しかった瞬間が、すぐに終わってしまう*という、子供心に去来する、時間の切実な真理への反抗だった。
◆
シャルロッテは、井戸の中に、ごく微細な時間魔法の魔力を流し込んだ。
彼女の魔法は、時間を過去や未来へ跳躍させるものではない。彼女の魔法は、「過去の特定の瞬間の、五感の記憶」を、現在に、一瞬だけ、完璧に再現させるという、個人的な時間旅行だった。
シャルロッテは、「今から、二年前の夏の日の一瞬」という、最も幸福だった記憶を、井戸に求めた。
◆
次の瞬間、シャルロッテ姫殿下の周囲の空気が、幻想的に歪んだ。
彼女の五感には、二年前の夏の、強い日差しと、芝生の青い匂い、そして、兄姉たちの笑い声が、まるで現実であるかのように、鮮烈に再現された。それは、周囲の誰も感知できない、シャルロッテ姫殿下だけの、「個人的な過去の再生」だった。
彼女は、その「記憶の瞬間の幸福」に、心を委ね、安堵の溜息をついた。
◆
そこに、フリードリヒ王子が、妹の様子を心配してやってきた。彼は、妹の周りの、「時間の重みが、一瞬で軽くなった」という、魔法の波動を感じ取っていた。
「シャル。いったい何をしているんだ?」
シャルロッテ姫殿下は、兄の出現に、一瞬で「過去の記憶」から「現在の現実」へと引き戻された。
「ね、兄様。わたし、二年前の、兄様と遊んでいた時に、行ってきたんだよ!」
◆
フリードリヒ王子は、妹の言葉を、無邪気な遊びだと受け止めなかった。彼は、妹の愛の深さを知っていたからだ。
フリードリヒ王子は、井戸の縁に座り、妹の手を握った。
「シャル。確かに楽しい時間は、すぐに終わるものだ。だが、終わるからこそ、今、この一瞬が、大切になるんだ」
フリードリヒ王子は、時間魔法を応用し、妹と自分自身に、**「今、この一瞬の温もり」**が、未来のどの過去の記憶にも負けないほど、最高の幸福感を伴うという、祝福の魔法をかけた。
シャルロッテは、兄の温かい手を通して*「過去の幸福の再生」よりも、「今、兄と繋がっている、確かな愛」のほうが、遥かに尊いことを悟った。
「えへへ。そうだね。過去よりも、今、兄様といるこの瞬間が、一番可愛いもん!」
シャルロッテ姫殿下の純粋な愛は、「時間の不可逆性」という普遍的な法則に、「今という一瞬の愛の価値」という、最も温かい真理をもたらしたのだった。




