運命のその先に(マーサ&アシュリー)〜書籍化記念SS〜
ポツッと頬に落ちた小さな雨粒に、マーサは思わず顔を上げた。
公務の合間に、アシュリーと王宮の庭園を歩いている最中のことだった。いつの間にか、空は薄く曇り、遠くで風が木々を揺らしている。
見上げた途端、頬をかすめるように、雨がもう一粒落ちてきた。
「こちらへ」
短くそう言って歩き出したアシュリーに導かれ、マーサは近くの東屋へと急いだ。
屋根の下に足を踏み入れた、その直後だった。
雨は一気に激しさを増し、庭園はたちまち白い幕に覆われる。
激しい雨音に包まれた東屋は、まるで世界から切り離された小島のようだった。
戴冠と婚礼を終えたあとも、王宮の日々はなお慌ただしい。それでもこの日は、公務の合間を縫って、二人で過ごすために作られた、ほんのわずかな時間だった。
このあとには、すぐ次の執務が控えている。
けれどこの雨なら、急いで動くより、少し待ったほうがいいような気がした。
「少し待てば……」
マーサの口にしかけた言葉は、屋根を打つ雨音に溶けて消えた。
聞こえただろうか、と一瞬ためらってから、マーサはアシュリーに一歩近づいた。
「傘を、持って来てくれるかもしれませんね」
そう言って視線を上げた、その瞬間。
「……少し、濡れてしまいましたね」
アシュリーの声が、すぐ近くで落ちた。
マーサの髪に残った雨粒へ、彼の指先がそっと伸びる。触れたその瞬間、指先から、水滴がひとつ、ぽたりと落ちた。
髪に残った雨粒を払う、そのためだけのはずの仕草なのに、指先はすぐには離れなかった。
触れているか、いないか――その境目で、迷うように留まっている。
それだけのことなのに、東屋の中の雨音が、急に遠くなった気がした。
声をかけても、目を伏せても、この距離が壊れてしまいそうで、マーサは息を詰めたまま動けずにいた。
やがて、何事もなかったかのように、彼の手が下ろされる。
その動きは、あまりにも静かで、丁寧だった。
雨に濡れた石畳から、ひんやりとした匂いが立ちのぼってくる。
激しかった雨脚はすぐには収まらず、屋根を打つ音だけが規則正しく東屋に満ちていた。
二人は言葉を交わさないまま、ただ並んで、その音と、流れ落ちる雨の筋を眺めていた。
この屋根の下では、時間さえ少し足踏みをしているようだった。
そうして、気づけば――
屋根を打っていた雨音が、少しずつ間をあけはじめていた。
東屋の外に、ゆっくりと、光が戻っていく。
名残を残したまま、また時間が動き出そうとしていた。
この先の予定が、自然と頭をよぎる。
「……そろそろ、戻る時間ですね」
マーサは名残を振り切るように、そう口にした。
アシュリーは一度、空を見上げ、それから、遠く時計塔のある方角へと視線を移す。
「……次の予定まで、まだ時間があります」
そう言って向けられた目元だけが、わずかに和らいでいた。
その言葉に、胸の奥がふっとほどけた。
口にする前に胸にしまった気持ちを、先にすくい上げられたようだった。
マーサは何も言わず、さっきより少しだけ彼との距離を詰めた。
肩越しに、彼の体温がゆっくりと伝わってくる。
雨のあとに残る静けさが、この場所だけを包んでいた。
こちらの運命を、少しだけ。




