七十九話 紘宇の決意
「私は今まで、自分で物事を選んだことがなかった」
紘宇は今まで兄の言う通りに体を鍛え武官となり、後宮へと送られた。
それに対し、疑問を覚えなかったようだ。
「しかし、ここには、自ら人生を切り開く者達がいた」
貧しい家に生まれたが、生き残るために閹官となった游峯。
仕事ができずどんくさいと後ろ指を差されていたが、異国人である珊瑚を根気強く支えた紺々。
後宮で貴妃の位を与えられたが、野心を抱く者を次々と排除し過ごしやすい環境作りに努めた星貴妃。
それから――後宮送りとなった身を悲観せず、自分らしさを貫いた珊瑚。
牡丹宮で生きる者は、紘宇にとって眩しい者ばかりであった。
「ただ一人、私だけが兄上の言いなりで牡丹宮にいた」
ゆっくりと時間が流れる後宮内で過ごすうちに、紘宇は気付く。
「私の人生は兄上のものではない。私のものだ」
だから、紘宇は選ぶ。自身が選んだ道を。
「私は守りたい者がいるから、戦場に行く。そして、今後は誰の言いなりにもならない。自分の身の振り方は、自分で決める」
兄永訣は瞠目し、星貴妃は目を細めて口元に弧を描いている。
「珊瑚」
「は、はい!?」
まさかこの場で名前を呼ばれると思っていなかったので、珊瑚は驚いた顔で紘宇を見る。
そんな珊瑚へ接近した紘宇は、片膝を突いて言った。
「戦場から戻ってきたら、私の伴侶となってくれるか?」
紘宇の行動と言葉は、王子が姫君へ求婚するかのごとく。
当然ながら、永訣が口を挟む。
「紘宇! その者は男だ。伴侶になどなれん。それに、お前は……なかなか結婚に踏み出さないと思っていたが、そういうことだったのか」
「黙れ!」
永訣の言葉を制したのは――星貴妃であった。
「二人の間にあるのは、穢れなき愛だ。それを責める権利が、どうしてお主にある?」
「しかし、男が男を好むなど、あってはならない。道理から、外れている!」
「お主は神なのか? 違うだろう! ただ人が、道理を説くな!」
口の端から血をにじませ立ち上がれない永訣に、星貴妃は蹴りを入れながら言った。
「男と男では、幸せには、なれるわけがない! 一応、兄として、弟の幸せを思い――」
「お主は大馬鹿だ!」
もう一度、星貴妃は蹴りを入れた。
「男と女が出会い、愛し合って、子が生まれて、皆が皆、幸せか? それが幸せになると決まった世界ならばなぜ、この世は幸せで満たされていない?」
星貴妃は扇で永訣を指し、問いかける。
「お主は胸を張って、我が人生に悔いなしと言えるのか? この上なく幸せだと」
「それは……」
「私から見たら、伴侶を迎え、子がいるというのに、幸せそうには見えん。お主の人生には、妥協というものが存在しているのだろう」
たった一度の人生である。妥協などすべきでないと、星貴妃は言った。
「生涯において心から愛した人がいるというのは、奇跡のようなことなのだ」
愛の形も、幸せも、人生も、人それぞれ。
正解はないので、時には進むべき道を誤るかもしれない。
「だが、他人の人生に周囲がどうこう物申す権利はない。自由に生きて、幸せになるための努力を惜しんではならぬのだ!」
星貴妃の言葉に、永訣は返す言葉はなかったようだ。
珊瑚は、星貴妃の言葉に胸を熱くする。
今まで選んだ道のりは、間違いではなかったと思うことができた。
騎士になろうと決意したことも、女でありながらも身を立てたことも、メリクル王子を庇ったことも、間違いではない。
これからは、胸を張って生きようと決意した。
星貴妃は珊瑚を振り返って言う。
「さあ、今度はお主の答えを聞かせてくれ。珠珊瑚よ、どうする?」
「私は――」
跪く紘宇を見下ろす。
手を差し伸べたら、同じように紘宇も手を差し出す。
珊瑚は紘宇の手を握り、思いっきり引っ張って立ち上がらせた。
「私も、こーうと共に、伴侶として生きたいです」
目線を同じにして、支え合いたい。
それが、珊瑚の願いであった。
紘宇は珊瑚の体を力強く抱きしめた。
「珊瑚……かならず、お前のもとへ戻る」
「こーう」
「星貴妃のことは、任せた」
「はい」
珊瑚は腰から下げていたある物を取り、紘宇へと手渡す。
「これは……!」
牡丹宮に来た初日に紺々より貰った椿結びに、紘宇から貰った琥珀を付けた飾りであった。
「これは、今まで私のことを守ってくれたお守りです。悪い存在を遠ざける力があると、思います」
「いいのか?」
「はい。きっと、こーうのことを、戦場で守ってくれるでしょう」
「ありがとう」
紘宇は兄永訣と星将軍に目配せをする。
倒れたままの永訣は、星将軍に支えられて立ち上がった。
今度は、星貴妃のほうを見る。
「星貴妃――私は、戦場へと向かう」
「ああ、存分に暴れて来い。珊瑚のことは、私が可愛がっておくから」
そう言うと、紘宇はムッとした表情となる。
「心の狭い男は嫌われるぞ」
「それとこれとは話が違う」
そんな反応を見せる紘宇に向かって、まったく可愛げがないと星貴妃は言った。
珊瑚は二人のやりとりを聞いて、笑ってしまう。
「汪紘宇よ、珊瑚に笑われたではないか」
「私のせいではない」
穏やかな雰囲気になっていたのも束の間。星将軍が紘宇に声をかける。
「紘宇殿」
「ああ」
事態は急を要する。
紘宇はこのまま戦場へと向かうらしい。
「では、行ってくる」
「はい、行ってらっしゃい」
紘宇は颯爽と、部屋から出て行った。
永訣があとに続く。星将軍は会釈をして、出て行った。
扉が閉められたあと、珊瑚は膝から崩れ落ちる。眦から流れるそれは、悲しみの涙であった。
珊瑚の背中を、星貴妃が支えた。
「す、すみませ……私……」
「よい」
「弱くて、ごめんな……さ……」
「よいのだ、それで。強く在る必要などない。お主がこうして背中を丸めた時は、私が助けてやる。逆に、私がかつて背中を丸めた時は、お主が助けてくれた。人とは、そういうふうにできておるのだ」
星貴妃の静かな声は、珊瑚の心に優しく響いていた。