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猊下が行く  作者: 魔法使い
第二章 新皇帝
8/20

猊下、乱心

 ピアは改めて考えてみた。

 ハムはああ見えてもベーレイニガンの息子である。貴族にとって結婚は家同士の結びつきであり、当人同士の愛情うんぬんではない。貴族の息子は家に定められた相手と結婚するのが当然のことであり、本人もそれを覚悟していると考えても良いだろう。

 だがハムはどうだろうか。植物をこよなく愛し、その世話と研究に没頭する彼は殆ど社交の場にも出なかったと言う。ピアの婿候補になるまで許嫁の一人もいなかったようだ。ベーレイニガン家は次男の彼には好きに生きさせてやろうと考えていた可能性もある。

 ハムの兄であるユーリウスが言っていたのだ。ハムの研究結果はベーレイニガン家所有の農場経営に役立っていると。ならばベーレイニガン程の家が、無理してまで息子を婿養子に出す必要はない。

 ハムは悪意蔓延る貴族社会から守られていたのだ。

 ううむ、とピアは唸った。

 自分はハムに対し、比較的丁寧な態度で接しているので彼に本性は知られていないはずだ。ハムがピアに関して知らないことは多い。例えば、ストレス発散は床で転げ回ること、とりあえず拳で殴り飛ばす主義であること、その他諸々。

 それを知った時、やっぱりこの女無理となりやしないだろうか。ましてピアの婿となれば逃げ場所たる側室も持てない。

 それを考えれば、逃げられないように今のうちに友好的な関係を築くべきだろう。たとえ逃げられなかったとしても、それなりに友好的な夫婦関係を築く必要があるのは変わりない。

 しかし、友好的な関係を築くにはどうしたら良いものか。ピアにとって婚約者とは生まれた時から決まっている存在で、物心ついた時からあれこれと向こうから話しかけ近づいてくる存在だった。自分から歩み寄るというのをやったことがない。

 反対にハムはどうだろう。社交の場にも出ず、どう見ても人付き合いが得意そうではない。向こうから近づいてくることを期待するのは難しい。

 そんなことを考えていると、思わずため息がこぼれた。

 まずお互いを知ることから始め、そして少しずつ親しくなっていく、と。


「なんて煩雑な」


 今の自分はあまりに忙し過ぎだ。余裕がない。少し選択を間違えば国がなくなるような今の状況で、そこまで手が回るだろうか。

 しかし、兄のことが片付くまでなどと言っていたら婚期が延びる。

 もはやため息しか出ない。

 ピアは積み重ねられた上流貴族たちの結婚申請書に承認のサインをしながら、徐々に腹が立ってくるのを感じた。筆記具を机に置く。

 そういえば自分は悪役になると決意したのに、まだ悪役らしいことを何もしていない。このままでは自分が嫁き遅れになってしまうだけだ。最初の決意通り、死なば諸共。兄もお一人様の道連れだ。

 しかし愛し合う二人を引き裂き、兄に涙を流させるにはどうしたら良いのか。

 ピアは少し考え、机の置いていた魔力式の呼び鐘を手に取る。それに魔力を流し込んで、呼びたい者の名を呼んだ。


「ルーシア」


 呼び鐘が青く光ったのを確認し、ピアはそれを鳴らした。これは違う部屋に控えている侍女を呼ぶものだ。これを鳴らせば、呼ばれる側の持つ小さな呼び鐘が鳴るように出来ている。

 少し待つと一人の侍女が入って来た。彼女は優雅な足取りでピアの目の前にまでやってくると、一礼する。金の髪に琥珀色の瞳をした彼女は四級貴族の三女である。歳はピアより少し年上の十七歳。


「ルーシア、愛し合う男女を引き裂き、男の方が絶望し『もう愛など信じない!』と泣き叫ぶように持っていく良い手段はないか? 私はどうにもそういう方面に不得手でね。あなたは私よりも恋愛小説に詳しいし、色恋にまつわるうわさ話が好きだろう。何か参考になる話はない?」


 ピアは前置きなしに本題に入った。

 自分に考えつくのは、お粗末だが兄の恋人ディラエを殺してしまうことくらいか。確かに兄は絶望するだろうが、何か違う。それにディラエもこの国の国民である。兄を絶望させる為だけに命を奪うのは、いささかやり過ぎだろう。

 もちろん彼女一人の命と帝国全体を天秤にかければ、どちらを取るかは明らかだ。だが今回の件で彼女の命を代償にして得られるものはさほどない。

 そうなると殺す以外で他に何かないか。昔、兄は手当たり次第女に手をつけていたが、彼女と付き合いだしてからぱったり止めた。別の女を寝所に放り込んでも効果はなさそうだ。


「恐れながら申し上げます。一番の絶望と言えば、やはり相手の女性から捨てられることかと存じます」

「なるほど」

「捨てられる理由としてはそうですね。女性に新しい男性が出来た。女性が男性に不信感をもって信頼関係が崩れ、修復不可能になったなど様々です」

「ちなみに女の方は、底意地が悪く性根が捻れている貴族の女たちに徹底的にいびられても別れなかった位の人間なのだけど」


 ピアの言葉にルーシアは意味深に微笑んだ。


「皇女殿下。昔の女作戦などはいかがでしょう?」

「昔の?」

「ええ。昔に陛下のお手がついた者がお二人の間に入るのです」

「何だ、兄のことだと分かったの」

「もちろんです。今朝、陛下そっくりの人形の発注をなさっておいででしたから」


 ちなみにオルクスそっくりの人形は殴る為である。出来上がりが待ち遠しい。


「ルーシア、この件……他言無用。心得よ」

「御意にございます」

「しかし、兄は昔の女になど見向きもしないだろう。あれで気に入ったものには一途なのかもしれない。粘着質な所がありそうだし」


 今のまるで別人のようなオルクス=フェアラート一世はさておき、かつての兄は傲慢で横暴で口を開けば人を不愉快にする捻くれた男だった。

 本当にディラエは兄の何が良かったのだろう。仲良くなれば普段は外に出さない美点を垣間見ることが出来るかもしれないが、大抵のものはそこに辿り着く前に脱落すると思う。まさに秘境だ。

 彼女がそこまで辿り着いてしまったから、孤独であった兄は孤独でなくなった。秘境から二人が仲良く出てくれば良かったのに、仲良くそこで世間から隔絶されることを選んでしまったように見える。

 それが愛なのか。ちょっと怖い。まさに二人の世界だ。少し現実を見ろ、と言いたい。だが愛というのはまさに想い合う二人の秘境であるのだろう。

 ピアは果たして兄の心の秘境にまで足を運べる過去の女がいるだろうかと不安になる。皇帝の身分につられてくれることを祈る他ない。


「まあ、それもこれも兄がどう出るか。やはり効果は薄いのでは?」

「ええ。陛下はお迷いになることはないかもしれません。ですが女性の方はそうとは限りません。迷い、苦しみ、哀しみに陥ったその時、優しい別の男性が登場し、やがて彼女は新しい男性へと心惹かれていく……。そのように、事の運び方によっては効果があるかと存じます」


 恭しく一礼するルーシアにピアはにやりと笑い手招きをする。


「なるほど。彼女には新しい幸せを、か。では本格的に打ち合わせといこうか。そこでは少し遠い。近くへ寄れ」


 悪役になり、兄もお一人様人生に道連れだ。

 ちなみにこれは自分は結婚も出来ず独り身なのに、兄だけ恋人とよろしくやることへの嫉妬ではない。そう嫉妬ではなく、帝国の未来の為なのである。



 ***



 昼食後、ピアは忍ばせていた影の報告が来るのを待っていた。今日は二つの影が帰ってくる。まずは兄の方に忍ばせていた者、そしてディラエの姉を探し出し連れてくる役割の者。

 先ほどのルーシアとの作戦会議は、これという進展がないまま一旦お開きになった。まずピアには昔の女が出てきて、二人の仲がギクシャクするというのが分からない。自分ならば『敗者復活戦、大儀である』の一言で終わりだ。

 たとえピアはそうでもディラエはそうでないのは分かる。しかし彼女はめげない心の持ち主だ。安易に考えるべきでない。そうそう簡単に兄のそばを離れないだろう。

 他の信用がおける侍女たちにも意見を聞いた方が良いかもしれない。

 そんな事を考えているとき、扉が叩かれる音がした。待ちに待った報告が来たようだ。中へ入るように命じる。

 まっすぐピアの前まで歩いてきた影の男は立ち止まると一礼した。これは兄を探らせていた者だ。


「どうだった?」

「猊下、報告すべきことは複数ございますが、一番重要と思われる事からご報告致します。反乱軍として攻め込んできた兵たち。あの者達は皆、宮殿に詰めておりました。しかしオルクス様のご即位とともに、その姿を減らしております。今残っているのは側近やその直属のごく一部、と考えても間違いないでしょう」


 ピアは早く兄の人形が出来上がれば良いのに、と心の中で思わずぼやいた。いまの兄はいざとなれば帝国軍を動かせる。ピアにとっては忌々しいことに。

 だからこそ、背後にいる者は送り込んだ人材を引き上げたのだ。重要な者だけを残して。

 兄の側近は要注意と、己に言い聞かせる。特に軍部を取り仕切るあの将軍には注意せねばならない。


「なるほど。引き続き城下には注意を払うよう」


 いくつかの指示を与え、下がらせる。報告された情報は少し吟味し、さらに指示をださねばならない。だが今は控えているディラエの姉が先だ。

 ピアは侍従に命じ、ディラエの姉だけを部屋へと入れさせる。おそらく彼女はこのような場所に来るのも初めてなら、自分のような身分の者に接するのも初めてのことだろう。緊張しているに違いない。

 予想通り恐る恐るといった感じで一人の女が入ってくる。年の頃はオルクスと同じくらいだろうか。

 彼女はピアと目があうと慌てて平伏した。緊張のあまりか震えている。しかし仕方ないことだろう。

 ピアはいつも以上に優しい声をつくり、言葉をかけた。


「遠くからご足労、ご苦労さまでした」

「と、と、とんでも……」

「そのように恐れずとも良いのですよ。ただ私はあなたの妹君について聞きたかったので、こちらへ呼んだのです」


 ディラエの姉は何度も首を振り、震える声で話し始めた。


「げ、猊下に申し上げます。私を迎えに来たお方が言ってましたが、い、妹が猊下の暮らすお宮に勤めていた……と」


 しどろもどろな上、言葉使いもあったものでないが、この際そんなことはどうでもいい。大切なのはディラエの姉の利用価値だ。

 ピアは優しく先を促した。


「ええ。かつて我が宮に奉公に。たしかあなた方のご両親の亡くなられた後と聞いておりますよ」


 ディラエの姉はゆっくりと頭を上げた。怯えきった瞳が目に入る。もしや皇子と駆け落ちしたことを責められると思っているのだろうかとピアは疑問に思った。

 だが違った。

 ディラエの姉は一瞬の後、激しく首を横に振る。


「ち、違います!」

「違うとは?」

「そ、そのようなことあろうはずがありません!」


 思いがけない言葉にピアは困惑する。もしやディラエは姉に奉公に出ることを伝えてなかったのだろうか。だがそれにしては、彼女の否定は激しすぎる。


「なぜですか?」

「そんなことあろうはずがないのです、猊下!」


 ディラエの姉は項垂れて続けた。


「い、妹は両親が亡くなった時、一緒に死んだのです……」


 もう十年前ディラエは十五で亡くなったから、奉公に出て いた過去があろうはずもないという言葉をピアは聞きながら、思わず天を仰いだ。



 ※※※



 ピアはハムと二人で教皇庁と大聖堂の間にある庭園にいた。

 ここはかつて将軍に『気色悪い』と言ってしまったあの庭園だ。

 まだベーレイニガンの家にはハムを婿とする決定をしたことを告げてない。その為には直接ベーレイニガンの当主に兄オルクスのことを話さねばならないし、他の婿候補たちの家への対応もある。

 とりあえずベーレイニガンの家に話があると手紙を送った。それを読んだ当主から近々晩餐にでも招かれるだろう。

 だがその前に少しでもハムと歩み寄り友好的な関係を築くべきだ、とピアは考えた。だがピアは予定が詰まりすぎて忙しい。そこでハムをここへ招くことにしたのだ。ハムは庭園ならば喜ぶだろうし、自分も僅かな空き時間を使える。

 二人は庭園を歩き、そこに植えられた花々を見ている。だがどうにも事態はピアが考えていた方向に転がらない。

 ハムは嬉々とし、ピアに目の前の花について語っている。ピアはそれに対して相槌をうち、時に質問するくらいだ。庭園を歩き始めてから今に至るまでずっとこの有様で、お互いの人となりを少しずつ知っていこうという趣旨には程遠い。

 これでは植物についての講義ではないか。植物の知識だけが増えてしまう。

 しかもハムはこの庭園をお気に召したらしく、上機嫌でいつもとは比べものにならないほど饒舌だ。それを邪魔して、別の話を始めるのは気が咎めた。

 二人はアムブロシアの花の前で立ち止まった。赤い美しい花だ。


「勇者フィアの花ですね」


 ピアの言葉にハムは頷いた。

 ふと彼を見ると、身体にあった外出用の服装だ。仕立てが終わったらしい。ハムはもう卒業ということだろう。だが、ピアの中で彼はハムなのだ。今更別の名になど変えられない。

 ——そういえば、ハムの本名は何だったか。

 何度か聞いているのにすぐ忘れてしまう。ハムの印象が強烈だからだ。

 しかしそうは言っても本人にハムとは呼びかけられない。あとでハムの名前を調べること、と頭の中で予定を書き加えた。

 ピアは花に少し手を触れて言った。


「この庭園で私が一番好きな花です。勇者フィアが英雄となった時に捧げられた花、アムブロシア。——……そう言えば、ユーリウスから幼少の頃勇者フィアの物語がお好きだったと聞きました。私も子どもの頃、よく勇者フィアごっこをして遊んだものです」


 よし、話の流れがお互いに関することになった。もう植物学の授業はお終いだ。

 ピアは内心ではにやりと笑い、顔には社交用の笑みを浮かべる。

 ここから勇者フィアごっこをしたお転婆な子どもの頃の話をし、今だに少し——ほんの僅かだけ武闘派なところがあることを話せば良い。そうすれば、ああそういったお方なのかと思えるだろう。

 最初から全てぶちまけたら、きっとハムは引いてしまう。こういうものは徐々に慣らしていくものだと思う。

 うまくそちらに話が転がらなくとも、ハムも大好きだった勇者フィアの物語のことで盛り上がれば良い。そうすれば少しは距離も縮まり、友好的な関係に一歩近づくという訳だ。

 結婚しても問題ない、と思える関係にまで持って行くのは何かと面倒が多い。ひとっ飛びに親しくなれるわけではない。ハムが人付き合いに不慣れだからなおさらだ。

 その点、元婚約者だった皇太子は楽だった。向こうから勝手に近づいてきて、こういう場においても自分から話を進めてくれる。だがその分気色悪い事を言ったりするから、どちらが良いかと問われれば難しい。

 子どもの頃好きだった物語の話が出たからであろう。今まで花しか見ていなかったハムは瞳を輝かせてピアを見た。

 ピアはその様子にまるで子どものようだな、と思った。教会が各地から集め教育している子どもや孤児院の子ども達を思い出す。ピアが視察で顔を出すと、今のハムのような顔をして皆近寄ってくるのだ。


「猊下もあの物語がお好きだったのですね。私はいつもあの絵本を手放さず、兄に笑われたものです。勇者フィアは子どもの頃の私の英雄でした。英雄と言えば……猊下のお話は十年ほど前からいつも父や兄から伺っておりました。その度に神の代理人として、また皇族として信徒と国民を守り戦っているそのお姿に勇者フィアを重ねて……私はお会いしたことのない猊下に尊敬と憧れを抱いていたのです」


 その言葉にピアは動揺した。思わず一歩後ろに下がり、ハムから離れる。言われた言葉のせいだけではない。ハムの自分を見る目が、駆け寄って来る子どもたちと同じ目がピアを動揺させた。

 この男は綺麗すぎるのだ。


「猊下?」


 動揺を気づかれたのか、と更に動揺する。もはや我慢の限界だ。執務室の床が恋しい。

 また一歩下がったピアにハムが一歩近づいてくる。たえきれずピアは叫んだ。


「私はそんな綺麗な人間ではない!」


 叫ぶとピアは回れ右して駆け出した。一体なんだろう。今日の自分は少しおかしいのかもしれない。もしかしたらディラエの姉の衝撃の告白に少し動揺しているのだろうか。


「猊下!」


 背後からハムの呼び声が聞こえる。自分の後ろから護衛の騎士が、侍っていた侍女たちが追ってくるのが分かったが立ち止まれない。ピアは渡り廊下を駆け、教皇庁へと入り、更に執務室へと駆ける。廊下にいた者たちが走ってくる教皇に驚いて、慌てて道を開けた。

 教皇執務室の続きの間に飛び込む。クロイツが驚いたように顔をあげた。


「猊下?」


 何か言おうとしたクロイツを無視して執務室に入るや否や、床でゴロゴロと転げ回る。高速回転だ。


「ハムのくせに! ハムのくせに! ハムのくせに!」


 この自分を動揺させるなど。ピアは叫びながら部屋中を転げ回った。

 何故ハムはあんなに汚れてないのだろう。

 ピアは子どもたちから同じ目で見られても平気だ。何故ならば彼らはいつか大人になり、そして現実を知る。

 英雄なんて実際綺麗なものではない。そこには血生臭い話がつきまとっている。それと同じようにピアも綺麗な存在ではないのだ。情を切り捨て、必要ならば他者を利用もする。たとえ目の前で人が拷問されようが、首をはねられようが眉一つ動かさない人間なのだ。

 ピアはそんな自分を恥じてない。自分はそういう風にしか生きられないのだと分かっている。そしてそんな自分を哀れに思ったりもしていない。

 もしピアが己を哀れに思うことがあるとすれば、それは『自分も一人の人間なのに』とか『自分も一人の女なのに』などと己を哀れむ事で目の前の苦難から逃げようとした時だ。そこまで落ちぶれたら己を哀れむに値するだろう。

 自分は穢れなき存在ではない。しかしそれで良い。


 だが、一体自分はどうしてしまったのか。


「そんな目で! そんな目で……私を見るな!」


 ピアは叫びながらひたすら転げ回るしかなかった。



 ***



 散々叫び、転げ回って疲れたピアはばったりとうつ伏せになった。


「猊下、随分とご乱心ですね。侍医を呼ぼうかと思いましたよ」

「黙れ、スヴェート」


 ピアはぜえぜえ言いながらも言い返す。慌ててクロイツが水差しから水を注ぎ、ピアに持ってくる。それを受け取り一気に飲んだ。

 そこで何故スヴェートがここにいるのか疑問に思ったが、廊下で彼とすれ違ったことを思い出した。きっと自分の様子を見て、追いかけて来たのだろう。

 クロイツに杯を渡し、腕を借りて立ち上がった。きっと髪もぐちゃぐちゃだ。転げ回っても飛び蹴りしても崩れぬように侍女たちが複雑に編み込んでまとめた髪型でも、先ほどのあれには耐えられない。

 クロイツが侍女を呼ぶために部屋から出て行った。ピアは身を投げ出すように長椅子に座る。


「猊下。それで、どうなさったんです? ベーレイニガンの次男を招いて、庭園を二人で散歩されていると伺ってましたが」


 スヴェートは向かい側に置かれた一人掛けの椅子に腰掛け、僅かに俯くピアの顔を覗き込んで尋ねた。


「あれは綺麗すぎるんだ。心が汚れてない」

「まあ……そうだろうね。己の興味のあることだけに没頭して生きてきたんだろうし。社交に出てくることもなければ、悪しき貴族社会にも染まらないだろうしね。一体何を話したの?」

「特に何も。ただ、私に勇者フィアの姿を重ね、尊敬し憧れていた……と」

「え、それだけであんな狂化しちゃったわけ?」


 それだけとは何だ、とピアは不貞腐れる。あの動揺は自分にしかわかるまい。しかしスヴェートと自分の仲である。途中まで話したなら最後まで話すべきだろう。


「ハムの奴、子どものような穢れのない目で私を見るんだ」

「なるほど」

「ああ、この者は本当に綺麗な心をしているのだと思った。大人になるにつれて、誰もが捨てたり失っていくそんなものを大切に持っている」


 それが良いのか、悪いのかはピアには分からない。子どもの頃の綺麗な心を捨てずに生きていくには社会はあまりに厳しい。ハムがそうあれるのは恵まれた家庭環境に生まれ、社会からも隔絶されているからだ。


「そんな目で真っ直ぐ見られ、私がこの者と婚姻し、権謀術数と悪意、権力欲……そんなものが渦巻く世界へと引きずり込むのは果たして正しいのかと思った」

「しかし彼は貴族だろ」

「そう。だが私には選択肢が他にもあった。婿候補は何人もいたのだから」


 思わずピアは目を伏せた。だが何かを叩く大きな音が耳に飛び込み、慌ててそちらを見る。スヴェートが苛立たしげな顔をしていた。先ほどの音は彼が卓を叩いた音らしい。


「あのさ、ピア。君がすべきことは、ここで嘆くことではない。ベーレイニガンの次男と腹を割って話すことだ。それに一つ言わせてもらえば、相手がベーレイニガンの次男でなくても一緒。君の婿になる者には覚悟が必要だ。たとえ君が婿に政治的権力を一切与えないとしても、覚悟は必要になる」


 その時扉が叩かれクロイツと侍女が入室の許可を乞う。それに許しを与えるとルーシアとクロイツが入ってきた。ルーシアはピアの髪を整え始め、クロイツは壁際で控えている。

 ピアはスヴェートに目で続きを話せと催促した。


「だから君はベーレイニガンの次男とちゃんと話す必要がある。君自身のこと、結婚した後のこと、その覚悟があるかどうか。前に言ってただろう。結婚に男女の愛は必要ないが親愛の情はあるべきだって。ならばお互いをわかりあうことは必要だろ」

「時間がない。それに……正直なところ、面倒くさい」


 ピアは思わず本音を漏らしてしまう。スヴェートがそれにため息をついた。


「前から思ってたけど……。ピアは教皇の地位の自分、皇女の身分の自分以外を捨て去りすぎだ。結婚する相手は教皇という地位と結婚するのでもなければ、皇女という身分と結婚するのでもない。教皇であり皇女であるピアと結婚するんだ。君が国家と国民の為、一個人であることを諦めているのは分かっている。でも私生活の中で一個人に戻れる瞬間があってもいいだろ」

「スヴェート、お前まで死んだあれと同じことを言う」


 ピアは亡くなった婚約者の皇太子を思い出した。まさかスヴェートから同じような事を言われるとは思わなかったが。


「殿下は『ピア』とちゃんと向き合おうとしていらっしゃったよ。まあ、あのお方も十六年がかりだったから……新しい婿候補が同じことをやろうとするのは大変だろうけれど。ピアは私人としての部分に踏み込まれるのを嫌がりすぎだと思うよ」


 だって面倒くさい、と言おうとしてピアはやめた。良い事を思いついたのだ。

 スヴェートのどちらかと言えば中性的な美しい顔をまじまじと眺める。じっと見つめられた彼は怪訝な表情になった。

 ピアはおもむろに口を開く。


「スヴェート、私と結婚しよう!」

「絶対、嫌だ!」


 瞬殺であった。

 ピアは湧き上がる怒りに突き動かされ立ち上がった。そしてスヴェートに指を突きつけ叫ぶ。


「嫌とは何だ! 嫌とは! この無礼者め!」


 そんなピアにスヴェートも不機嫌そうな顔になり立ち上がる。


「思ったことを言っただけだ! ウリ坊の婿になる位ならば、僕は今からでも修道会に入ってやる!」


 修道会に所属する修道者は誓願をたて、教会の教えの元共同生活するその性質上、婚姻ができない。


「子どもの頃のあだ名で呼ぶな! 私はもう大人だ!」

「ウリ坊……?」


 黙って聞いていたクロイツが訝しげに呟く。それを聞いたスヴェートとぎょっとして、慌ててクロイツを睨む。


「お前には何も関係ない。黙っていろ、猊下の執務補佐官よ」

「ちょっと待て。お前たち、何を隠している? まさかスヴェート……ウリ坊とは勇猛果敢な伝説の動物だというのは嘘なのではあるまいな」

「う、嘘な訳がない……」


 しかしスヴェートの視線が彷徨っている。これは怪しい。


「怪しいな。真実を答えよ、枢機卿!」

「急に権力を持ち出すなよ! 話がずれてる!」


 そうだ、今は結婚問題が先だ。ウリ坊については後で自力で調べよう、とピアは心に決めた。


「まあ良い。望み通り話を戻してやる。スヴェート、修道会に入ると? 既に枢機卿であるお前が? そのような事が出来ると思うな」

「枢機卿が修道会に入ってならないという決まりは聞いたことがない!」


 それはそうだ。修道会出身の枢機卿はいたが、逆はない。そんなことを考える者は過去にいなかっただろう。

 だがピアはスヴェートの叫びを鼻で笑った。


「ふん。お前は忘れている。私は教皇だ! この教会の最高権力者、支配者であり神の代理人! 我が権力を持ってしてお前の修道会入りを全力で邪魔してやろう」

「何だよ、それ! くそ……ハラスメントで訴えてやるからな!」

「そのようなもの、この手で握りつぶしてくれよう!」


 クロイツがそれではまるで悪役です、と零す。

 だが、悪役の何が悪い。己は悪役になる宣言を既にしている。だが肝心のその矛先はまだ兄に向かっていない。全く不本意なことだ。

 話が平行線だと気づいたらしいスヴェートが逃亡に入る。彼は話にならないと捨て台詞を吐くと、ピアへ背を向け扉に向かう。


「逃げる気か!」

「逃げてない! それに僕は長男で婿になどなれないのを思い出せ、バカ!」


 そそくさとスヴェートは扉を開いて出て行く。バカと言われ、カチンときたピアは髪を整えているルーシアの手を振りほどいた。そして彼が消えた扉へと駆け寄る。勢い良く開けば、続きの間から廊下へと出て行くスヴェートの後ろ姿が見えた。

 逃がしてなるものか。

 ピアは廊下へ続く扉に飛びつくと、勢い良くそれを開け放つ。そしてそこにいるであろスヴェートに向かって叫んだ。


「バカって言う方がバカなのだからな! バーカ! バーカ!」


 言ってやった、と達成感に満ち溢れたピアの背後から、クロイツの子どもの喧嘩ですか、と呆れた声が聞こえた。

 だがピアはそれどころではない。扉を開けた先の廊下、その左右に見知った顔が三つ。ちなみにその中にスヴェートは含まない。彼は呆れた顔で教皇室の扉から顔を覗かせているピアを見ている。

 右手側の廊下に取り澄ました笑みを浮かべた兄オルクスと、それに連れられ面白そうに眺めている将軍。左手側にはスヴェートとその少し先に驚いた顔をしているハム。

 皆、勢ぞろいだ。よりにもよってタイミングが悪すぎる。まさかハムが己を追ってくるとは思わなかったし、兄が約束もなくここを訪れるなどとも思わなかった。

 ピアは咄嗟にいつもの社交用の笑みを浮かべた。

 落ち着け私、と言い聞かせる。大切なのは度胸とめげない心だ。このような事で心折れていては、神の代理人など務められない。

 そして、時に開き直ることも大切だ。

 ピアはまず兄の方へと向き直る。


「これは皇帝陛下。ご機嫌麗しく。お約束はなかったかと存じますが、わたくしに何か?」

「いや、神に祈りに来たのだが。もし時間があれば、久々にお前と話せればと思ってな」


 時間などあるわけがない。忙しいのだ。

 だがその言葉をぐっと飲み込んだ。今日影から聞いた報告の件もある。いつの間にか大半がいなくなった兄の連れてきた兵たち。兄の恋人の件、その他諸々——。

 兄からここへ赴くとは、何かあるだろう。


「すぐにとは参りませんが、少しお時間を頂ければ。わたくしが参りますまで、ラディウス枢機卿がお相手させて頂きましょう」


 手で左手側にいるスヴェートを示し、オルクスへと提案する。

 待てないと断るかと思えば、あっさりとオルクスは頷いた。あまりの呆気なさにこちらが拍子抜けするくらいだ。

 ピアは兄は暇なのだろうか、と少し腹がたつ。自分は通常の執務に加え、今回の戦いで戦死した者の遺族の慰問などがあると言うのに。それだけではない。他の皇族の宮に勤めていた者たちから嘆願書も届いている。それには宮殿で皇帝や皇太子の妃たちに仕えていた者も含まれる。兄が皇族をことごとく皆殺しにしたせいで、失職者が嫌というほど出たのだ。

 それも兄のせい、これも兄のせいと考えれば腹がたつのも仕方がない。

 問答無用で間をもたせる相手役に指名されたスヴェートも腹を立てているだろう。だが貴族の嫡男として徹底した教育を受けている彼はそんなことをおくびにも出さない。ただ社交用の笑顔でオルクスと将軍へと歩み寄っていく。

 とりあえず、兄の方はこれで良い。次はハムだ。

 ピアはそう決意すると、ハムへと向き直った。


「ハム! お前は少し待っていろ! 茶でも飲みながら!」


 びしっとハムを指差し命じると、彼は慌ててコクコクと頷いた。彼をここまで案内して来たらしい侍従がハムを来客用の部屋へと連れていく。その後ろ姿を満足気に見送るピアの背後から、兄と将軍の笑う声が聞こえた。

 思わず振り返れば、笑う彼ら二人と呆れ顔のスヴェート、額に手を当て項垂れるクロイツの姿がある。

 ——うっかり本人へハムと言ってしまった。

 もはや床を転げ回る気力も体力も残っていない。

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