第32話 一番面倒な場所へ帰る
フェイク動画騒動が、ひとまず収まった夜。
ボーロ工房の横にある休憩スペースで、小さな打ち上げをすることになった。
宴と呼ぶには、あまりに質素だった。
清泉水の月灯草茶、泥落とし野菜のスープ、薄焼きパン。
それから改良版の神獣ボーロ。
ただ、それだけの小さな打ち上げだった。
それでも、誰も暗い顔をしていない。
「フェイク事件への勝利を!」
リュシアが、茶杯を軽く上げた。
「勝利って言っていいのか?」
「少なくとも、拡散は止まったわ。掲示板の特定班が、思った以上に優秀だったもの」
「犬で崩れた」
ヴァルフェリアが真顔で言った。
「犬だけじゃないだろ」
「でも、犬が強かった」
くーちゃんが、改良版ボーロを食べて尻尾を振った。
三振り半だった。
「三振り半……!」
ミルナが息を呑んだ。
ガルド爺が腕を組む。
「四振りに届かんか。だが、悪くない」
「爺さん、それ褒めてるのか?」
「褒めている」
ミルナが、少しだけ誇らしげに笑った。
よかった。
本当に。
ヴァルフェリアが二皿目の肉を求め、ガルド爺が怒り、ミルナが慌てて皿を下げる。
リュシアは端末を閉じたまま笑っていた。
その輪の中に、カゲツがいなかった。
さっきまで、あいつは確かにいた。
月灯草茶を飲みながら手帳を開いていたはずの席が、空いている。
「……カゲツは?」
くーちゃんが、鼻をひくひくさせた。
工房の奥ではなく、拠点の横穴の方を見ている。
「きゅ……」
嫌な予感がした。
***
カゲツがいつも使っている横穴に、小さな灯りが一つだけ点いていた。
中を見て、俺は足を止めた。
商品箱は閉じられ、影の中へ沈んでいく。
机の上には手帳と、畳まれた外套。
旅支度だった。
「カゲツ」
声をかけると、カゲツは振り返らずに言った。
「先生か。ちょうど、少し話があると思ってたところだ」
「……まさか、帰るのか?」
「清泉村との交易は繋いだ。フェイク騒動も一段落した。工房も回り始めた」
カゲツは、影の中から畳んだ外套を取り出す。
「俺の役目は、ひとまず終わりだ」
「……それだけか?」
「それだけだ。今後も取引することはある。その時はまた頼む」
くーちゃんが、横で小さく鳴いた。
「きゅーん……」
いつものボーロ要求の声じゃない。
カゲツが、少しだけ目を伏せた。
「神獣様まで、そんな声を出すな」
これは、本気で行くつもりだ。
止める言葉を探した。
けれど、最初に出てきたのは別の言葉だった。
「ありがとうな、カゲツ」
「急に礼を言うな。気持ち悪い」
「カゲツがいなければ、たぶん今、全員で笑っていられなかった」
カゲツの手が、外套の上で止まった。
「やめろ。そういう言い方は」
「事実だ」
「違う」
声が、少し低くなった。
「水を運んだのも、食料を繋いだのも、清泉村との取引を整えたのも、全部商売だ。人を救ったわけじゃない」
「違う」
俺は首を振った。
「俺たちは、お前に救われた」
「……ちっ」
カゲツが、珍しく苛立ったように舌打ちした。
「どこまでも、親父に似てやがる」
「親父?」
カゲツが、しまった、という顔をした。
一瞬だけ。すぐに表情を戻す。
「前にも、父親の話をしかけたな」
「……」
「俺が土下座して、領地を助けてくれと頼んだ時だ。あの時、お前は怒っていた。俺にじゃない。別の誰かに」
カゲツはしばらく黙った。
それから、乾いた笑みを浮かべた。
「前から思ってたが、先生。案外、見てるな」
「獣医だからな。顔色と癖は見る」
「商人まで診るなよ」
外套を膝に置いて、横穴の壁にもたれた。
「まあいい。最後の餞別代わりだ。つまらない土産話を置いていく」
***
「俺の父親は、カゲル。義賊団の団長だった」
「義賊団?」
「弱いやつを放っておけない連中の集まりだ。飯を分ける。金を奪って、必要なところへ流す。影で仲間を守る。そういう連中だった」
カゲツは、手帳の角を指で撫でた。
「親父は、いつも最後に食ってた」
その言い方が、少し引っかかった。
「……最後に?」
「ああ。食料が足りない時でも、まず子どもに渡す。怪我人に渡す。仲間に渡す。最後に自分の皿を見て、足りなければ笑って水を飲む」
カゲツは、苦い顔で笑った。
「馬鹿だろ」
「……すごい人だな」
「だから、すごすぎたんだよ」
カゲツは、手帳の角を指で撫でた。
「母さんは、フィリア。雷みたいな人だった。誰かが沈むと、勝手に空気を変える人だった」
その声に、ほんの少しだけ懐かしさが混じった。
「でも、ある日、親父が倒れた。仲間を逃がすために、影を使い続けた。限界を超えてな」
「……」
「命は助かった。だが、目を覚まさなかった」
俺は何も言わなかった。
「その後、俺が団長をやることになった。影術も使えた。影収納もあった。能力だけなら、親父より便利だった」
短く笑う。
「でも、親父みたいにはなれなかった」
カゲツは、外套を握った。
「一度、薬をどちらに運ぶか決められなかった」
「薬?」
その言葉に、少しだけ胸が重くなった。
「北の隠れ家には、熱を出した子どもがいた。南の谷には、怪我人たちがいた」
カゲツの指が、手帳の角で止まった。
「薬は、一袋だけだった」
「どちらに運ぶか、決めればよかった。片方に恨まれても、片方は助かったかもしれない」
「……」
「でも、決められなかった」
短く笑う。
「どちらを選んでも、選ばなかった方が死ぬ気がした」
カゲツの声が、少しだけ低くなった。
「だから俺は、公平に見える理由を探していた。誰にも責められない理由をな」
外套を握る指に、力が入った。
「その間に、両方手遅れになった」
横穴が、静かになった。
「その時、思ったんだ。もう誰かの命を、俺の判断で決められるわけがないって」
それは、言い訳というより、傷口だった。
「……それで、逃げたのか」
「ああ、そうさ」
静かに言った。
「気づいたら、逃げ出していた。義賊団を置いて、家を出た。その後どうなったかも、知らない」
くーちゃんだけが、カゲツの足元で丸くなっている。
「……だから、商売だったのか」
思わず、口からこぼれていた。
カゲツが、ゆっくりこちらを見た。
「そうだ。よく分かってるな、先生」
カゲツは、乾いた笑みを浮かべた。
「商売なら、命の優先順位を決めなくていい」
カゲツは、畳んだ外套を見た。
「条件が合えば取引する。合わなければ断る。無理なら、無理だと言える」
少し間があった。
「俺には到底、無理だ」
カゲツの声が、かすかに荒れた。
「誰かの命なんて背負えない」
「……」
「だが、親父はそれを背負っていた。当たり前みたいにな」
カゲツは俺を見た。
「そして、アンタもだ」
「……」
「俺には、それが理解できない」
責める声ではなかった。
ただ、疲れた声だった。
「理解できなくていい」
「……は?」
「俺も、全部を背負えてるわけじゃない」
俺は言った。
「目の前に患者がいる。だから診る。助けられそうなら手を伸ばす。無理なら、別の手を探す」
少しだけ間を置いた。
「それでも助けられなかったら、残る。ずっとな」
「……」
「たぶん、それだけだ」
カゲツは、何も言わなかった。
「でも、お前は運んだ」
俺は宴席の方を見た。
「水を。食料を。道具を。清泉村との取引を」
少し間を置く。
「誰かが笑えるためのものを、ちゃんと運んだ」
「あれは、商売だ」
「そうだな」
俺は頷いた。
「だから、商人として頼りにしてる」
「……」
「俺は、お前の親父を知らない。母親も知らない。比べようがない」
カゲツを見た。
「俺が知ってるのは、ここに水と食料を運んできたカゲツだけだ」
カゲツは、何も言わなかった。
「だから、今のお前が必要だ」
俺は言った。
「残ってくれ、カゲツ」
頭を下げようとした。
その前に、カゲツがため息をついた。
「また土下座する気か?」
「必要なら」
「そういうのは、もういい」
乱暴に言った。
「商人として、アンタたちが俺を必要としていることは分かった」
言い終えて、カゲツは視線を逸らした。
俺も、すぐには何も言えなかった。
残ってくれ、ともう一度言うべきか。
それとも、今の言葉だけで十分なのか。
くーちゃんが、俺とカゲツの間で小さく尻尾を揺らした。
その沈黙を、あまりにも場違いな声が壊した。
「カゲツ」
横穴の入口に、ヴァルフェリアが立っていた。
「温かい肉を出して」
「今かよ」
「今」
カゲツが額を押さえた。
「姫さん。俺は倉庫じゃない」
「でも、影から食べ物が出る」
「出るが、無限じゃない」
ヴァルフェリアが、ふと荷物を見た。
「帰るの?」
カゲツは答えなかった。
ヴァルフェリアの顔が、少しだけ真面目になった。
「それは駄目」
「姫さんまで?」
「うん」
「……理由は肉か?」
「それもある」
「あるのかよ」
ヴァルフェリアは少し考えた。
「でも、肉だけじゃない。カゲツがいたから、私の声は届いた。先生たちが来る道もできた」
真顔で言う。
「だから、残って」
くーちゃんが、カゲツをじっと見上げた。
「きゅ……」
「神獣様まで、その目をするな」
カゲツは、しばらく黙っていた。
それから、外套を乱暴に影へ放り込んだ。
「ちっ。もうしばらく、ここにいるか」
横穴の外を見た。
「きっと親父もそう言うだろうしな」
少し間を置く。
「それに、今いなくなったら、姫さんが俺の影の中の食料を求めて、どこまでも追ってきそうだしな」
ヴァルフェリアが、こくりと頷いた。
「追う」
「否定しろ」
「お腹が空いたら、追う」
カゲツは、腹を押さえた。
「……胃が痛ぇ。想像じゃなくなった」
くーちゃんが、得意そうに鳴いた。
「きゅーん!」
カゲツは、深く息を吐いた。
旅支度は、そこで終わった。
「カゲツ、帰るんじゃなかったのか?」
カゲツは、少しだけ黙った。
「ああ、帰るさ」
横穴の外を見た。
ボーロ工房の灯りと、まだ消えない笑い声の方へ。
「……一番面倒な場所にな」
その声は、もう別れを告げる声でも、逃げる声でもなかった。
ここまで読んでくださりありがとうございます。
今回は、カゲツが「一番面倒な場所」へ帰ってくる回でした。
本人は商売だと言い張っています。
でも、水を運んで、食料を運んで、誰かが笑える場所を繋いできたことは、たぶんもう商売だけではありません。
もふもふ領地は、強い人だけの場所ではなく、
逃げたことがある人も、言い訳を抱えた人も、もう一度座れる場所にしていきたいなと思っています。
……まあ、最後はヴァルフェリアの肉要求と、くーちゃんの視線に負けました。
次回、いつものボーロ工房に、まさかの知らせが届きます。
フェイク騒動を越えた神獣ボーロに、思わぬ“星”がつくことに――。
くーちゃん「……カゲツ、残ってくれたワン」




