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第1話 エイベル・クロウ


 目を覚ました瞬間、ハルトは自分が死んでいないことを理解した。


 理由は簡単だった。


 痛かったからだ。


 息を吸うだけで、肋骨のあたりが軋む。右腕は鉛みたいに重く、指を動かすだけで皮膚の下に熱い針が走った。顔の右側は腫れているのか、まぶたがほとんど開かない。喉は乾き、唇は割れている。


 それでも、死んではいなかった。


「……っ」


 ハルトは上体を起こそうとして、すぐに失敗した。


 全身が痛みに噛みつかれる。視界が白く弾け、喉の奥から情けない息が漏れた。


 どこだ、ここ。


 最初に浮かんだのは、それだった。


 灰鼠(はいそ)の寝床じゃない。


 薄汚れた毛布も、湿った土の匂いも、汗と酒と血が混ざった空気もない。背中の下には、まともなベッドがあった。硬すぎず、沈みすぎず、体を支えるように作られている。


 体にかけられている布も清潔だった。


 鼻をつくのは、薬草と、消毒液に似た苦い匂い。


 窓がある。


 水差しがある。


 棚には包帯と、小瓶が並んでいる。


 牢屋じゃない。


 けれど、自由でもない。


 そういう場所だった。


 ハルトは左手だけで、自分の体を探った。服は替えられている。血まみれだった盗賊服ではなく、薄い寝巻きのようなものを着せられていた。腕や胸、腹には包帯。脇腹のあたりには、まだ熱が残っている。


 記憶が、遅れて戻ってきた。


 黒牙(こくが)の粛清場。


 灰鼠(はいそ)たちの視線。


 ニオの震えた声。


 知らない。


 そんなの、渡してない。


 ガルムの拳。


 割れた窓。


 血で濡れた手の内側。


 ガラス片。


 喉。


 視界の隅に浮かんだ文字。


 致命の一撃(モータルピアス)


「……ガルム」


 名前を呟いた瞬間、喉の奥がひりついた。


 殺した。


 自分が。


 いや、殺さなければ殺されていた。


 それは分かっている。分かっているのに、胃の奥が冷たく縮んだ。


 あの世界で、あの山で、ハルトは一度死んだ。


 この世界で、ハルトは初めて人を殺した。


 足音が聞こえた。


 ハルトは反射的に体を起こそうとした。だが、痛みで動けない。せめて何か武器を探そうと、視線だけを動かす。


 水差し。小瓶。包帯。椅子。木製の机。


 武器になりそうなものはない。


 いや、小瓶を割れば。


 そこまで考えたところで、扉が開いた。


 入ってきたのは、細身の男だった。


 年齢は三十代前半くらいに見える。整えられた髪。皺ひとつない服。盗賊というより、学者か役人に近い雰囲気。物腰は穏やかで、動作に無駄がない。


 男はハルトを見ると、少しだけ目を細めた。


「目が覚めましたか」


 声は落ち着いていた。


「まずは水を飲みなさい。話はそれからです」


 男は机の上から水差しを取り、杯に水を注いだ。それをハルトの方へ差し出す。


 ハルトは受け取らなかった。


「毒でも入ってるかもな」


 声が掠れていた。


 自分で聞いても、ひどい声だった。


 男は怒らなかった。呆れもしなかった。ただ、淡々と答えた。


「毒を盛るなら、君が眠っている間に済ませています」


「……」


「それとも、わざわざ目を覚まさせてから毒を飲ませる趣味があるように見えますか」


「知らねぇよ。あんたの趣味なんか」


「それはそうですね」


 男は杯を机の上に置いた。


 無理に飲ませようとはしない。


 その態度が、逆に気味悪かった。


 優しいわけじゃない。


 けれど、雑でもない。


 ハルトは男を睨んだ。


「あんた、誰だ」


「エイベル・クロウです」


 男は軽く頭を下げた。


「君を預かるよう、団長より命じられました」


「団長……」


 ゼギル・ヴァルグ。


 黒牙(こくが)の団長。


 あの粛清場に現れた男。ハルトに指輪を持たせ、黒牙(こくが)へ入れると決めた男。


 ハルトの手が、反射的に布団を掴んだ。


「指輪は」


「保管されています」


「取ったのか」


「治療の邪魔でしたので」


 エイベルは机の上に視線を移した。


 そこには、小さな黒い布袋が置かれていた。


「君の手元から離してはいません。安心しなさい」


「安心しろって言われて安心できるかよ」


「でしょうね」


 エイベルは椅子に腰を下ろした。座る動作ひとつにも、妙な品がある。


「君は助けられたわけではありません」


 その言葉に、ハルトは目を細めた。


「……は?」


「君は、預けられたのです」


「同じだろ」


「違います」


 エイベルはきっぱりと言った。


「助けるには善意が必要ですが、預かるには命令があれば足ります」


 ハルトは黙った。


 嫌な言い方だった。


 だが、嘘ではなさそうだった。


 善意じゃない。命令。


 助けたわけじゃない。預かっただけ。


 その冷たさが、今のハルトにはむしろ分かりやすかった。


 ニオは笑った。


 信用できると言った。


 店をやるなら雇ってよと言えば、いいよと返した。


 そして、最後には否定した。


 知らない。


 そんなの渡してない。


 だったら、最初から冷たい方がマシだ。


 ハルトは乾いた喉で言った。


「俺は、あんたも信用してない」


 エイベルは瞬きもしなかった。


「結構です」


「……」


「信用はしなくとも、役に立ってください」


 静かな声だった。


 怒りもない。侮りもない。ただ、当然の条件を告げるような声。


 ハルトは笑いそうになった。笑うと肋骨が痛みそうだったから、やめた。


「役に立たなかったら?」


黒牙(こくが)では、役に立たない者から順に消えていきます」


「だろうな」


「ですが、少なくとも君は今、生きています」


 エイベルは机の上の水を指先で軽く押した。


「水を飲める程度には」


 ハルトはしばらく杯を睨んでいた。


 毒が入っていたら終わりだ。


 でも、エイベルの言う通り、眠っている間にいくらでも殺せたはずだった。


 ハルトは左手を伸ばし、杯を取った。


 水はぬるかった。


 けれど喉には痛いくらい染みた。


 何度かむせながら飲み込む。


 体が水を求めていたことに、今さら気づく。


 エイベルはそれを見届けてから、立ち上がった。


「セリカ」


 扉の外へ声をかける。


 すぐに、別の足音がした。


 入ってきたのは、若い女だった。年齢はハルトより少し上か。


 肩まで伸びた黒髪を、後ろでハーフアップにまとめている。整った顔立ちをしているが、表情は固く、どこかツンとした態度がにじんでいた。背筋はまっすぐで、手には書類と薬の入った箱を持っている。


 彼女は部屋に入るなり、ハルトを見た。


 そして眉をわずかに寄せた。


「エイベル様。この者が例の灰鼠(はいそ)ですか」


灰鼠(はいそ)ではありません。ハルトです」


「……失礼しました」


 女はまったく失礼と思っていなさそうな顔で、言い直した。


「では、どこのネズミですか?」


「おい」


 ハルトは思わず声を出した。


 怒鳴りたかったが、声が掠れて迫力が出なかった。


 女は淡々と見下ろしてくる。


「動かないでください。包帯がずれます」


「先に喧嘩売ったのそっちだろ」


「喧嘩ではありません。確認です」


「セリカ」


 エイベルが名前を呼ぶと、女はすっと口を閉じた。


「彼は団長の命で預かった者です。扱いを間違えないように」


「承知しています」


「言葉もです」


「……承知しました」


 セリカと呼ばれた女は、納得していない顔のまま頭を下げた。


 ハルトは小さく息を吐いた。


 エイベルの部下。


 真面目。几帳面。目つきは冷たい。


 そして、エイベルをかなり慕っている。


 なんとなく分かった。


 セリカは薬箱を机に置くと、手際よく包帯の確認を始めた。傷口を見る手つきは慣れている。だが、優しくはない。必要だからやっている、という動きだった。


「痛みますか」


「痛まないように見えるか?」


「見えません」


「じゃあ聞くなよ」


「確認です」


 セリカは表情を変えずに答えた。


 こいつとは合わない。


 ハルトは即座にそう判断した。


 エイベルはそのやり取りを横目に見ながら、書類を一枚めくった。


「君の傷は、通常なら数週間はまともに動けない程度のものです」


「……だろうな」


「ですが、ここでは魔法治療を使えます。三日あれば歩けるでしょう。五日あれば、軽い訓練も可能です」


 三日。


 ハルトは一瞬、理解が追いつかなかった。


 あれだけ殴られて、蹴られて、窓枠に叩きつけられて、全身が壊れたみたいになっているのに。


 三日。


 灰鼠(はいそ)なら、たぶん寝かされもしない。


 働けないなら、放っておかれる。


 最悪、そのまま捨てられる。


 同じ黒牙(こくが)の中で、ここまで違うのか。


 ハルトの表情を見て、エイベルが言った。


「驚いていますか」


「……別に」


「嘘ですね」


 エイベルはすぐに見抜いた。


灰鼠(はいそ)黒牙(こくが)本体では、扱いが違います。食事も、寝床も、治療も、仕事の質も」


灰鼠(はいそ)黒牙(こくが)じゃないのかよ」


黒牙(こくが)ではあります」


 エイベルは少しだけ間を置いた。


「ですが、本体ではありません」


「じゃあ、なんだよ」


「爪の先についた泥です」


 その言葉は、静かに刺さった。


 灰鼠(はいそ)


 黒牙(こくが)の下部組織。


 盗品の荷車を押し、倉庫で荷を運び、ロッソとバルドの分まで働き、薄い豆の汁を飲んでいた場所。


 あれは黒牙(こくが)の中にいるつもりだった。


 でも違った。


 黒牙(こくが)の名前がついた底にいただけだ。


 ハルトは布団を握る手に力を入れた。


「……じゃあ俺は、その泥から拾われたってことか」


「言い方を選ばないなら、そうです」


「なんで」


 エイベルはすぐには答えなかった。


 代わりに、机の上に置かれた黒い布袋を見た。


「団長は、君を使うつもりです」


「何に」


「それを知るには、君はまだ弱すぎます」


 ハルトの胸の奥に、ざらついたものが走った。


「弱い?」


「はい」


「俺はガルムを殺した」


「殺しましたね」


「なら」


「だから危険ではあります。ですが、強いとは限りません」


 エイベルの声は変わらない。


「君は追い詰められて、偶然と覚悟と一つの技で生き残った。それは評価します。ですが、同じことを次もできると思っているなら、次は死にます」


 ハルトは言い返せなかった。


 ガルムを殺せたのは、ニオに教わった卑怯な手段があったからだ。


 ガラス片があったからだ。


 ガルムが勝ったと思って近づいたからだ。


 そして、致命の一撃(モータルピアス)が発動したからだ。


 正面からやれば、死んでいた。


「君には教育が必要です」


「教育?」


「はい」


 エイベルは静かに言った。


「盗賊にも、教育は必要です」


 ハルトは思わずエイベルを見た。


 何を言っているんだ、こいつは。


 盗賊に教育。


 響きだけなら冗談みたいだった。


 けれどエイベルは本気だった。


「奪うこと。逃げること。隠すこと。守ること。殺すこと。殺さないこと。命令を聞くこと。命令の裏を読むこと。どれも、知らなければ死にます」


 セリカが包帯を巻き直しながら、横から言った。


「特にあなたのようなネズミは」


「セリカ」


「失礼しました。特にあなたのような灰鼠(はいそ)上がりは」


「言い直してそれかよ」


「事実です」


 ハルトは舌打ちした。


 だが、痛みのせいでそれすら弱々しい音になった。


 エイベルは書類を閉じた。


「今は休みなさい。詳しい話は、立てるようになってからです」


「逃げたら?」


「逃げられると思うなら試しても構いません」


「止めないのか」


「止める必要がありません」


 エイベルは扉の方へ歩き出した。


「その体では廊下まで行く前に倒れます。仮に廊下まで出ても、セリカに捕まります。仮にセリカを抜けても、この施設の外には出られません」


「……嫌な説明ありがとよ」


「どういたしまして」


 エイベルは扉の前で振り返った。


「ハルト」


 名前を呼ばれて、ハルトは少しだけ目を上げた。


「君は今、自由ではありません」


「知ってる」


「ですが、死んでもいません」


 エイベルは穏やかな顔で言った。


「その差を、まずは大切にしなさい」


 扉が閉まる。


 部屋には、薬草の匂いと、セリカの無愛想な気配だけが残った。


 セリカは最後に包帯の端を留めると、薬箱を閉じた。


「暴れないでください」


「暴れられるなら暴れてる」


「でしょうね」


「お前、ずっとそんな感じなのか」


「必要なことしか言っていません」


「ネズミは必要だったのかよ」


「はい」


 セリカは迷いなく答えた。


「自覚していただく必要がありましたので」


「……やっぱ合わねぇ」


「こちらも同意見です」


 セリカは一礼し、部屋を出ていった。


 今度こそ、ハルトは一人になった。


 天井を見上げる。


 自由じゃない。


 助けられたわけでもない。


 信用できる人間もいない。


 それでも、生きている。


 死ななかった。


 ガルムを殺して、黒牙(こくが)に拾われて、エイベル・クロウという妙な男に預けられた。


 ハルトは左手で胸元の包帯を掴んだ。


 痛みがある。


 息がある。


 なら、まだ終わっていない。


 ニオ。


 あいつを殺す。


 そう思った瞬間、ガルムの声が頭の奥で蘇った。


 黒牙(こくが)では、仲間内の私刑はご法度。


 だが、粛清は別だ。


 粛清人に任じられた者。


 あるいは、それを命じられる立場にいる者。


 そういう者だけが、黒牙(こくが)の名で仲間を殺せる。


 今のハルトがニオを殺せば、ただの仲間殺しだ。


 次に粛清場へ引きずり出されるのは、自分になる。


「……くそ」


 殺したいだけでは、殺せない。


 憎いだけでは、届かない。


 この組織では、殺すにも理由と立場がいる。


 なら、上がるしかない。


 ニオを殺せる場所まで。


 誰にも止められない場所まで。


 強くなるしかない。


 その時だった。


 右目の奥が、ずきりと痛んだ。


「……っ」


 ハルトは反射的に右目を押さえた。


 腫れて、まともに開かない方の目。


 ガルムに殴られ、血で塞がり、包帯の下で熱を持っているはずの目。


 その奥だけが、はっきりと見えた。


 視界ではない。


 まぶたの裏でもない。


 頭の内側に、黒い文字が浮かんでいた。


 【悪名(あくみょう):ゴロツキ】


 文字に絡みついていた黒い鎖が、ぎしりと軋む。


 誰かの声が聞こえた気がした。


 灰鼠(はいそ)上がりのガキが、ガルムを殺した。


 粛清人を返り討ちにした。


 血まみれになってからが一番危ない。


 死にかけてから喉を裂いた。


 あいつは、粛清を返した。


 黒い鎖が一本、音もなく外れた。


 【悪名(あくみょう)を更新】


 【悪名(あくみょう)粛清返し(しゅくせいがえし)


「……なんだよ、これ」


 声は掠れて、ほとんど息にしかならなかった。


 胸の奥で、何かが低く笑った気がした。


 【堕落の王(ルシファー)


 【ステータスを更新】


 【身体能力が強化されました】


 【反応速度が強化されました】


 【魔力循環が強化されました】


 【ユニークスキルを確認】


 窮鼠猫噛(キュウソネコカミ)


 効果:追い詰められるほど、身体能力が上昇する。


 追い詰められるほど。


 その文字を読んだ瞬間、ハルトは喉の奥が冷えるのを感じた。


 祝福じゃない。


 救いでもない。


 これは、あの粛清場で流れた血と、誰かが勝手に膨らませた噂が、自分の中に入り込んできたものだ。


「……気持ち悪ぃ」


 ハルトは包帯の上から、開かない右目を押さえた。


 目は見えない。


 なのに、文字だけは消えなかった。


 粛清返し(しゅくせいがえし)


 窮鼠猫噛(キュウソネコカミ)


 堕落の王(ルシファー)


 どれも、自分のものとは思えなかった。


 なのに、確かに自分の中にある。


 自分の中に、自分じゃないものが増えていく。


 そんな感覚だった。


 扉の向こうで、エイベルの声がわずかに聞こえた。


「セリカ。明日から記録を取ります」


「訓練記録ですか」


「いいえ」


 少しだけ間があった。


「授業記録です」


 ハルトは、開かない右目の奥に浮かぶ文字を睨んだ。


 冗談じゃねぇ。


 そう思った。


 けれど、その日からハルトの体は、少しずつ別のものに変わり始めていた。

ここから第二編「金剛砕き」開始です。

灰鼠として生き残るだけだったハルトが、ここから少しずつ本格的に盗賊として鍛えられていきます。

ただ強くなるだけではなく、盗むこと、逃げること、隠すこと、殺すこと、殺さないこと、命令を読むこと。

この世界で悪党として生きるための知識と技術を、エイベルのもとで叩き込まれていく予定です。

第一編では、ハルトはまだ巻き込まれた側でした。

でも第二編からは、自分の意思で黒牙の中を上がっていくことになります。

粛清返しとして悪名を得たハルトが、どんなふうに変わっていくのか。

引き続き読んでもらえたら嬉しいです。

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