第35話 生き残った伝書鳩と、平和の金メダル
東京湾の端、第七廃倉庫街。
ほんの数分前まで、三十名を超える重武装の工作員たちの怒号と銃声が飛び交っていたその場所は、今や完全な、そして不気味な静寂に包まれていた。
戦闘の痕跡と呼べるものは、何一つ残っていない。
薬莢の山も、飛び散った血糊も、悲鳴を上げていたはずの人間たちの死体すらも。
アスファルトの表面には、高熱によって焼き焦げた黒い人型の染みが無数にこびりつき、彼らが乗ってきた数台のバンは、プラズマの直撃を受けてドロドロに溶け落ちた赤熱する鉄の塊へと姿を変えている。
大気中には、空気が焼き切れた際に発生する特有のオゾンの匂いと、アスファルトが溶ける強烈な悪臭だけが漂っていた。
「……あ、あぁ……あぁぁぁ……ッ」
その地獄のような光景の中で、ただ一人。
最後尾のバンから少し離れた路地の陰で、通信機器を抱えたままへたり込んでいる男がいた。
中国国家安全部から派遣され、ロシアのブラトヴァとの連絡係を務めていた工作員、王だ。彼は後方で各部隊の通信統制を行っていたため、ヴィクトルたちの放った『プラズマ・キャスター』の第一波から奇跡的に逃れることができたのだ。
だが、彼にとってその奇跡は、死以上の絶望を意味していた。
彼の目の前で、三十名以上の精鋭たちが、銃の引き金を引くことすら許されず、音もなく青白い光に飲み込まれて『蒸発』したのだ。
人間が、ただのチリとなって消滅する。
その光景は、彼がこれまで受けてきたどんな過酷な軍事訓練の想定をも超えた、人類の理解を絶する未知の恐怖だった。
「ひぃっ……! くるな……こっちへくるな……ッ!」
王は失禁し、ガタガタと全身を痙攣させながら、後ずさりして壁に背中を打ち付けた。
強烈なサーチライトの逆光を背に、顔の左半分に火傷の痕を持つ大柄な男――ヴィクトル・イワノフが、ゆっくりとした足取りで彼に近づいてきたからだ。
ヴィクトルの手には、銃身のない異様な形状のライフルが握られ、銃口の奥でプラズマの青白い光がチロチロと明滅している。
「殺さ……殺さないでくれ! 頼む! 俺はただの連絡員だ! 本国の命令に従っただけで、イージス社を恨んでいるわけじゃ……!」
王は通信機器を放り出し、アスファルトに額を擦りつけて泣き叫んだ。
超大国のエリート工作員としての誇りなど、そこには微塵も残っていない。ただ、あの光に焼かれて消滅することへの根源的な恐怖だけが、彼を支配していた。
「安心しろ。お前は殺さない」
ヴィクトルの低く、氷のような声が頭上から降ってきた。
王が恐る恐る顔を上げると、ヴィクトルは彼を見下ろし、極低温の眼差しで告げた。
「我が主は慈悲深い。お前たちのような愚か者にも、一度だけチャンスを与えると言っている。……生きて祖国へ帰り、本国でふんぞり返っている飼い主どもに、今日のこの光景を、一語一句違わず正確に報告しろ」
「ほ、ほうこく……?」
「そうだ」
ヴィクトルはしゃがみ込み、震える王の胸ぐらを鷲掴みにして引き寄せた。
ロシアの『死神』の顔が眼前に迫り、王はヒッと短い悲鳴を漏らす。
「イージス社に、神盾宗一に牙を剥いた結果がどうなるか。お前たちの用意した現代のオモチャのような武力が、我々の技術の前にどれほど無力であるかを伝えろ」
ヴィクトルは、王の耳元で、死刑宣告のように冷酷に囁いた。
「『二度目はない。次に我が主の家族に触れようとするならば、その代償は、お前たちの国家そのもので支払わせる』……とな」
王は、狂ったように何度も何度も、首が千切れるほどの勢いで頷いた。
「わ、わかった! 伝える! 一言一句違わず、絶対に伝える!! だから、命だけは……!」
「行け。振り返れば、お前もあの染みと同じになるぞ」
ヴィクトルが手を離すと、王は這いつくばるようにして立ち上がり、何度も転びながら、狂ったように夜の闇の中へ逃げ去っていった。
もはや彼の精神は完全に崩壊している。祖国に帰り着いたとしても、一生あの青白い光の恐怖に怯えながら生きていくことになるだろう。
ヴィクトルはその無様な背中を見送りながら、インカムのスイッチを入れた。
「――ボス。清掃は完了し、伝書鳩も放ちました」
『ご苦労だったな。これで、四大勢力の化石どもも、少しは我々の恐ろしさを理解するだろう』
イヤホン越しに聞こえる宗一の声は、凄惨な大虐殺を命じた直後とは思えないほど、どこまでも静かで平坦だった。
「周囲の痕跡は、シャドウの特殊処理班が完全に消去します。ドームの警備は引き続き万全です。……お嬢様の運動会を、存分にお楽しみください」
『ああ。後で合流しろ、ヴィクトル。結衣がお前の分の弁当も作ってきている』
「……恐縮です」
ヴィクトルは微かに口元を緩め、通信を切った。
冷血な悪魔でありながら、身内にはどこまでも深い情をかける。だからこそ、自分たち裏の人間は彼に絶対の忠誠を誓うのだ。
* * *
同時刻。イージス・ドーム。
完全貸し切り状態の巨大な屋内スタジアムのVIPルームには、温かい笑顔と美味しそうな匂いが満ちていた。
「パパ! みてみて! サチ、いっとうしょうのメダルもらったよ!」
「おおっ! すごいぞサチ! 金メダルじゃないか!」
私は、首から金色の折り紙で作られた手作りのメダルを下げて誇らしげに胸を張るサチコを、力いっぱい抱きしめていた。
午前中のプログラムがすべて終わり、待ちに待ったお弁当の時間だ。結衣が朝早くから起きて作ってくれた三段重の豪華なお弁当箱が、テーブルいっぱいに広げられている。
「ほら、宗一くん。サチをあんまり振り回さないの。ご飯の前に手を洗いなさい」
「わかっているとも。サチ、パパがエビフライを一番大きいやつにしてやろうな」
「わーい! エビフライ! タコさんウインナーも!」
結衣が笑顔でお茶を注ぎ、私たち家族三人は揃って手を合わせた。
「「「いただきます!」」」
サチコが美味しそうに卵焼きを頬張る姿を眺めながら、私は結衣の作ったサンドイッチを口に運んだ。
美味い。世界中のどんな三ツ星レストランのフルコースよりも、この家庭の味が私の舌には最高のご馳走だった。
さっきまで、私はモニター越しに三十人の人間を蒸発させる指示を下していた。
私の命令一つで、数万度のプラズマが夜の湾岸を焼き尽くし、大国の工作員たちが塵となって消えた。その絶対的な暴力と冷酷さは、間違いなく私の本質だ。
だが、こうして愛娘の笑顔を見つめ、妻の作った弁当を食べているこの時間もまた、紛れもない私の本質だった。
この平和な日常。ささやかで、何よりも尊い光。
これを守り抜くためならば、私は喜んで手を血に染める。世界中の人間から悪魔と罵られようと、歴史の裏側でどれほど残虐な処刑を繰り返そうと、私の心には微塵の後悔も呵責も生まれない。
「パパ、どーぞ!」
不意に、サチコが自分の首にかけていた折り紙の金メダルを外し、私の首にかけてくれた。
「ん? どうしたんだ、サチ。これは君が一生懸命走ってもらったメダルだろう?」
「えへへ。パパも、いっつもおしごとがんばってるから、サチからいっとうしょうのメダルをあげるの!」
「……っ」
サチコの純粋な言葉に、私は言葉を詰まらせた。
目頭が熱くなり、視界が滲む。
前世で、私はこの笑顔を守れなかった。自分の知識への傲慢さと、大国への甘い幻想のせいで、彼女をあの業火の中に消し飛ばしてしまった。
だが、今世では違う。私はこのメダルに誓う。二度と、絶対に、誰にも奪わせはしない。
「……ありがとう、サチ。パパの一生の宝物にするよ」
私は涙を堪え、最高の笑顔でサチコを抱きしめた。
* * *
昼食を終え、サチコが午後のプログラムへと元気に駆けて行った後。
私はVIPルームの片隅で、静かにタブレットの電源を入れた。
表の世界での父親の時間は終わらない。だが、裏の世界の『総帥』としての仕事は、次のフェーズへと移行しなければならなかった。
先ほどの廃倉庫街での処刑は、あくまで物理的な「防衛」と「警告」に過ぎない。逃がした伝書鳩が本国へ帰り着けば、中国とロシアの首脳陣は、未知の兵器の存在に恐怖し、戦慄するだろう。
だが、彼らのような権力者は、恐怖を長期間抱えたままでいると、やがて逆上し、さらなる暴挙に出る可能性がある。
「物理的な警告の次は、情報の完全支配だ」
私はタブレットの暗号化回線を通じ、イージス本社の地下に控える『ヴァルハラ』のサイバーセキュリティチームへ指示を飛ばした。
ヴィクトルが指揮する物理部隊とは別の、私が未来のアルゴリズムを用いて構築した、世界最高峰のハッカー集団だ。
「――ボス。指示通り、トラップの構築は完了しています」
モニター越しに、サイバーチームのチーフが報告する。
「ああ。物理的な潜入と拉致に失敗したと知れば、中露の強硬派は間違いなく焦り、今度はサイバー空間からイージス社のメインサーバーを破壊しようと総攻撃を仕掛けてくる。……彼らがアクセスしてきた瞬間に、逆に侵入経路をこじ開けろ」
私は、窓の外に広がる東京の空を見上げながら、冷酷な宣告を下した。
「彼らに、物理的な兵器の恐怖だけでなく、国家の中枢システムすらも私が完全に掌握しているという『絶対的な絶望』を味わわせてやる。……ターゲットは、アメリカのペンタゴン、ロシアのクレムリン、そして中国の中南海だ。四大勢力の軍事ネットワークを、同時にハッキングする準備を進めろ」
『了解いたしました。……世界が引っくり返りますね』
チーフの震えるような、しかし興奮に満ちた声が響く。
私の首には、サチコがくれた折り紙の金メダルがかけられている。
その温もりを胸に抱きながら、極東の悪魔は、世界を相手にしたサイバー空間での圧倒的な無双劇へと、冷徹にその舵を切ったのだった。




