第8話:青い瞳の目撃者と、遥かなる「故郷の香り」
1. 長崎・出島からの来訪者
慶長5年(1600年)、長崎。南蛮貿易の荷卸しで活気づく港に、一人の若いフランス人がいた。
名はルミエ。
彼は将来、パリで自分の店を持つことを夢見て、実入りのいい東洋貿易の雑用係として雇われ、遥々日本までやってきた「普通の青年」である。
「この国は黄金の国だと聞いたが、見かけるのは大きな刀を差した恐ろしい男ばかりだ。言葉も通じぬ相手が武器を携えている……その組み合わせは恐怖でしかない。早くフランスへ帰りたい」 ルミエは日々、募る不安を抱えていた。
そんな彼に、オランダ商館の主人から特命が下る。
大坂のさらに先にある「高槻」という地へ、安価で少量の香料を届けてこいというのだ。
実入りの少ない、面倒な使い走りであった。
「いいか、絶対に強引な布教はするなよ。この国ではそれが法律で禁じられているからな」 主人の忠告に、ルミエは首を傾げた。
(信仰を法律で縛る……? なんて不思議で、不可解な国なんだ……) 彼は期待よりも戸惑いを胸に、未知の地へと出発した。
2. 高槻、異次元の光景
ルミエが高槻に足を踏み入れた瞬間、彼は自分の目を疑った。
そこには、戦乱の日本とは思えないほど整理され、塵一つ落ちていない衛生的な石畳が続いていた。
そしてどこからともなく漂ってくるのは、懐かしくも甘い「焼き菓子の香り」だ。
工場の風景に、彼はさらに息を呑んだ。日本の瓦屋根の下、白い布を頭に巻いた女性たちが、歌を口ずさみながら整然とお菓子を焼いている。
その光景は、彼が夢に見た「パリの理想の菓子店」をそのまま巨大化させたかのようだった。
「……信じられない。ここは本当に、世界の果てのジパングなのか?」
3. 小さな女王との謁見
香料を届けるため、工場の奥にある接見室へ通されたルミエ。そこで彼を待っていたのは、煌びやかな着物を纏いながらも、どこかヨーロッパの貴族のような気品を漂わせる8歳の少女・真理だった。
「C'est bon?(美味しいかしら?)」 差し出されたハーブティーと炭酸煎餅を前に、ルミエは硬直した。
完璧な発音のフランス語。
こんな幼い子供が、なぜ? ルミエは驚きのあまり、手に持っていた伝票を落としそうになる。
真理は優しく微笑んだ。 「驚かないで。私はただの、お菓子が好きな女の子よ。
ルミエ、あなたが届けてくれたこの香料。
安価なものだけれど、私たちのお菓子にはこれこそが最適なの。
劇的な変化をもたらしてくれる、他には代えがたい宝物。届けてくれて、本当にありがとう」
親方から面倒な仕事を押し付けられたと思っていたルミエの心に、温かい灯がともった。商品が待ち望まれ、仕事そのものを心から感謝される。
(……引き受けてよかった。この仕事を選んで、本当によかった) ルミエにとって、それは生涯忘れられない奇跡の邂逅となった。
わずかな言葉を交わしただけだったが、彼女の瞳の奥に、故郷フランスの魂よりも深い「何か」を見た気がした。
4. エピローグへの種火
ルミエが高槻を去る際、真理は彼に一包みの「特製パン・デピス」と、一枚の銀貨、そして花の種が入った小さな紙袋を渡した。
「いつかフランスに帰ったら、これと同じ味を再現してみなさい。その時、この銀貨があなたの店の最初の看板になるわ。
あと、この種を育ててみて。袋に描いてあるアザミのような可憐な花を咲かせる、ゴボウという植物よ」 ルミエは、彼女が何者なのか、なぜフランス語を知っているのかを知る由もなかった。
しかし、受け取ったお菓子の温もりを胸に、「自分の店を持つ」という夢は、単なる野心から「あの少女への約束」へと変わっていった。
(いつか店を持てたなら、この花の絵をトレードマークにしよう) ルミエは希望に満ち溢れ、スキップでもしそうな足取りで長崎へと戻っていった。
その頃、大坂城では石田三成が、関ヶ原へと向かう歴史の荒波を必死に抑え込んでいた。
しかし、高槻という「甘い聖域」だけは、ルミエのような異邦人の記憶にも、戦とは無縁の別世界として刻まれていくのだった。




