5.食われる
矢野の作り物みたいな造形を間近で見るとその出来に感嘆する。無表情の男同士が向かい合って見つめ合ってるなんて鳥肌以外の何物でもない光景だと思うが、今はそれどころじゃない。悔しいが矢野の顔は黙ってさえいればずっと見ていてもいいと思わせる造形なのだ。
そんな形いい唇しやがって、持ってるなら動かせよ。使わないなら俺にくれ。
「和田、笑ってみろよ」
腰を屈めて俺の目線と合わせる。
「…面白くもないのに笑えない」
「いいから」
左手首をしっかり捕まれて逃げることも許されない。地味に初めて名前を呼ばれた。仕方なく、笑みと呼ばれるだろう表情をどうにか作ろうと躍起になった。まず真一文字になるとしても口角をできるだけ上に持ち上げる。そして頬の筋肉を上に上に、引っ張られるイメージで。
「やっぱひでー顔だな」
「ああ?」
無理やりやらせといてそれはないだろう。俺だって楽しくもないのに笑えない。
「じゃあお前がやってみろよ」
無愛想で仏頂面なくせして。やれるもんならやってみろってんだ。
「見本見せてやるよ」
そう言って矢野は素晴らしくよくできた笑顔を作った。
左右対称に上がった口角に、長めの前髪から覗く弧を描いた目がなんとも色っぽい。
さっきの皆の反応を思い出した。恐ろしいものを見たような青ざめた表情と蕩けるような見惚れる表情。後者の反応はまあそうだろうなという予想範囲内だった。前者はおかしいと思っていたが見て納得した。あまりにもよくできた左右対称の作り物みたいな顔が笑うと途端に人間味が出てくる。笑わないと思っていた人形がにっこりと笑ったら怖い。そんな雰囲気がある。いや矢野は人間なのだが。
しかし、俺は見惚れるでも青ざめるでもなかった。頭に浮かんだのは、前髪の隙間からチラチラじゃなくて顔をしっかり見たい、どうせならいつもは隠れてる眉毛も見たい、ついでに整った眉毛がなぞりたい、そんな願望だった。
俺自身それが浮かんできたことに嫌悪感はあった。俺、男が好きな性癖でもあったのだろうか。いやないと思う。しかし、我慢ができない。矢野の色気のある瞳に脳細胞がやられてしまったに違いない。きっと矢野のせいだ。
魔が差すってきっとこういうことだなと思いながら矢野の顔に手を伸ばす。矢野は意外にもゆっくり伸ばされた俺の手を拒否せずどう動くのか静かに見守っていた。それに調子づいて前髪を後ろに流した。
現れた眉はやはり綺麗に整っていて家で自分で整えてたりするんだろうかと、想像したら結構面白かった。でかい背中を丸ませてでっかい手で剃刀だの毛抜きだのを器用に使いながらちまちま整える。それって割りと可愛いんじゃないだろうか。ふと笑いが込み上げるけどどうせ顔には出ていないだろう。
「お前…」
「なに」
ちょっと俺お前の眉毛なぞるのに忙しいから話し掛けないでほしい。この眉毛と目の間が狭いのってほんといいよなあ。羨ましい。
形の良い眉を欲望のままなぞるのは楽しかった。矢野は大人しくされるがままだったけれど、やがてゆっくりと両手を伸ばして俺の耳たぶに親指を掛けて後頭部をゆるりと撫でた。頭が掌で包まれた感覚は不思議な安心感があって気持ちいい。
ああ矢野の手が冷たいんじゃなくて俺の耳が熱を持っているのかと気づいて目を閉じた。その方がこの感触を堪能できるだろう。
「無防備」
さわさわ後頭部を撫でて、矢野の気配がより近くなったなと感じて薄目を開けた。
「近っ!」
その美しい顔に焦点が合わないほど間近に迫っているのに驚いて、瞬間的に矢野の胸に手をついて距離をとろうとする。
「あ? 大人しく目ぇ閉じとけ」
閉じてられるか!なにしようとしてるんだこいつは。よく俺も目を閉じていられたな!
「はなせ!」
「なんで」
真顔で聞かれても困る。目尻を優しくなぞられて優しく語りかけてきた。
「俺の顔が気に入ったんならずっと見とけ」
その低い声はまるで魔力でもあるみたいだった。危なく頷きそうになって寸前でふるふると頭を振る。矢野はチッと舌打ちをして何を思ったか俺の左エラあたりにガブリと噛みついてきた。ヒィと今まで生きてきて出したことのない声とも言えない音が喉から絞り出される。
肉食獣に首を咥えられ、少しでも顎に力を入れられれば食い殺されてしまう恐怖心に自然と俺の両手は神に祈るべく指と指を交差させて固く握っていた。無宗教なのにこういう時だけは神の存在を信じてすがりつく。都合のいい話だっていうのはわかってる。
俺には信仰心なんてこれっぽっちもない。でも、でも祈るくらいは許されたっていいだろう。
助けて!誰でもいいから!この場に現れた誰かをすぐさま神として奉るから!
しかし、誰もいない。
矢野の顔が離れたと思ったら今度は右の首の根本をガッツリと噛まれる。血が出そうなほど痛くはないが歯形は完全に残るだろうくらいの力だ。もはや口からはなんの音も出なかった。全身に力が入り、力を抜かなければ自分の指さえも満足に動かせない。
顎をとられスッと上に持ち上げられ、あんなにガチガチになって自分すら操れなかった体が矢野によって簡単に動かされたことに違和感を覚えた。俺の体じゃないみたいだ。
限界まで伸ばされた首に痛みを感じてきた頃、屈んだ矢野が喉仏を目指して近付いてきていた。喉仏に痛くないように遠慮がちに唇で甘く食まれた時に、そう、誠に残念ながら、本当に残念ながら、恐怖と同時に自分の何かが満たされた幸福感を感じていたのだった。
丸呑みされそうなほどの勢いを持っていた矢野だが俺の喉仏を解放すると、満足したように目を細めた。
「ちょっとずつ食う方が楽しい」
と意味不明なことを矢野が仰ったことでこの異常事態は終わりを告げた。言葉の意味に関しては深く考えたくない。
「じゃあ」
ずるずると壁に沿って座り込んだ俺を尻目に矢野は悠々と去っていった。矢野の去った方向をぼんやり眺めて数分。誰も通りかからなくてむしろ良かったかもしれない。
心音がかつてないほどうるさい。今のは一体なんだったんだ。呼吸の仕方さえ忘れてしまうほどの衝撃。
俺もしかして捕食された?
落ち着いた俺がまず思った間抜けな一言はそれ。噛まれた場所がじんじんと熱を持っていた。




