第一話「新米冒険者」
【あらすじ】
冒険者アレアと、相棒のレイ。組んで三か月、Dランクに上がったばかりの二人が受けたのは、C級の討伐依頼だった。
静かすぎる秋の森。下生えを縫う低い影は、一頭では終わらない。背中合わせで包囲を割っても、次が滑り込んでくる。手を変えても、数は減らない。もどかしさの底で、アレアはひとつの方法を思いつく。
音のない森で、下生えだけが動いていた。
低く沈んだ背が底を這い、木の陰へ滑り込む。息をつく間もなく、今度は左手の茂みが鳴った。
鳥が鳴いていてもいい時刻だというのに、鳴く気配も、虫の羽音もない。渡っていくのは風だけで、乾いた落ち葉を撫でるたび、かさりと音を立てる。
その落ち葉が、足の下で砕けた。
それを蹴って揺れた茂みへ走り、割って走り出た背を追って木の間を縫い、いったん陰に見失っても、少し先でまた跳ねた葉へ足を向けた。
握った細剣は軽く、目にかかる前髪が走る風に後ろへ流れ、行く手の下生えを切っ先で払いのけて地を蹴り直す。左手の遠く、木立の隙間を紅赤の髪が抜けていき、担いだ大剣が木漏れ日を一度 跳ね返す。あちらも一頭を奥へ追い立てていて、声を張らなければ届かない距離が、二人の間にはあった。
目で追える影は数えられるが、追えていない影が何倍いるのかは数えようがない。
それでも、二人が足を止めることはなかった。
追っている背は右の前足に体重を乗せすぎていて、その走りでは、濡れた落ち葉を一度 踏めば横へ流れる。
獣をどこへ逃がすかを決めるのは、狩る側だった。追われているのは、あちらである。それが、楽しかった。
濡れた落ち葉を踏んだ前足が横へ流れて背が半歩 泳ぎ、逃げ場を失った一頭は、そこで逃げるのをやめた。
獣は振り返り、喉の奥で低く鳴って、そのまま跳んだ。
木の陰を出た体が、宙で一瞬、輪郭を結ぶ。
迎える形に膝を折って体を沈めると、胸元で三本の鎖が短く鳴り、頭上を越えていく腹の下、伸び上がった喉元へ細剣を差し入れた。
手応えは軽い。獣の勢いが刃を奥まで押し込み、着地の音も立てずに、その体は落ち葉の上へ崩れた。
立ち上がると、黒いケープが遅れて背に落ちた。息はまだ乱れていない。
散っていた残りが間を置かずに寄ってきて、左から来た一頭へ踏み込んで胴を薙ぎ、返す刃で、回り込んだ脚を落とす。木立の奥でも、枝の隙間に紅赤がよぎるたび、獣の声が一つ途切れた。
三頭、四頭と、指で追えるだけは確かに倒した。だが、寄ってくる数のほうは追えない。
下生えの奥を影が横切り、視界の端をまたかすめていく。減らしているはずが、増えている。
ふいに、音が途切れた。
足を止めると、枝葉の隙間ごしに、紅赤の髪が同じようにこちらへ振り向いていた。揺れていた木立の影も、いつのまにか一つ残らず止まっている。
風だけが、また落ち葉の上を渡っていく。
森の底で、地面が鳴った。
一頭ではない。足音が四方から押し寄せ、低い唸りが同時に立って、音のなかった森が獣の声で埋まった。
木々の間には、低い影が等しく並んでいる。輪だ。
立っていたのは木がまばらに抜けた場所で、頭の上には空が開け、輪の外側まで見渡せる。
「左から回る。お前は正面だ」
声が飛んだ。振り返りもしないうちに、体が走り出している。
「はいはい、わかってるって」
「……ったく」
落ち葉を蹴って走り寄り、背中同士がぶつかった。
背に当たっているのは硬い革で、その向こうで息の音がしている。
頭ひとつ分 高く、担いだ大剣が頭上で傾くたび、肩の厚みが影になって落ちてくる。出来上がった体だった。見上げれば、琥珀の瞳が輪の外まで数えていて、柄を握る銀の篭手にも、擦れた暗赤のマントにも、紋章は一つも縫われていない。
レイだ。
背を預けたまま、アレアは細剣を握り直した。並べば、腕も肩も、まだ一回り細い。喉の形も、育ちきっていない。声だって、まだ低くなりきっていなかった。揺れたアッシュグレーの毛束が、また目にかかり、その下で銀の瞳が輪をなぞる。
黒いケープの裾が金の蔓草ごと揺れ、胸元では、白真珠と深紅の石のブローチを繋ぐ三本の金の鎖が、息に合わせて小さく鳴っている。
輪は、さっきより近い。
囲まれたのに、アレアは追いかける手間が省けたとしか思っていなかった。
いちばん近い影が、腰を落とす。
背中は離さず、合わせたまま二人で同時に前へ出た。
輪を内側から押し広げる形で踏み出すと、頭上で大剣が唸り、重い風を背に浴びた。目の前では三つの影が同時に腰を落とし、跳ぶ姿勢を取る。
真ん中の一頭へ踏み込み、喉の下から肩へ細剣で一本の線を引くと、斬り口が銀白に光り、その光を追って魔力が音もなく同じ道を走った。
わずかに間があって、獣の内で爆ぜた。
崩れた影の左右で、二頭がたたらを踏んで後ろへ下がる。正面が、ひらいた。
「よしっ、これなら楽勝だな。……なぁ、レイ、この調子なら、早く片付きそうだな!」
返事の代わりに、背中越しで大剣が唸る。
「手を止めるな」
「止めてないってー」
三か月でD級へ上がって、初めて受けたC級の依頼だった。
浮ついていないと言えば、嘘になる。
正面がひらいていたのは、一息のあいだだった。
倒れた影を踏み越えた次の一頭が、仲間の背を渡って、いま空いたばかりの場所に立った。
黒く濡れた毛の、捲れた唇の奥に牙が並んでいる。腹まで響く低い唸りを追って顔を上げると、その目は、アレアと同じ高さにあった。
影ではなく、四肢があり、背があり、狼の輪郭を持っている。森や山に湧く魔狼 ―― ワーグである。
落ち葉を蹴散らして半歩、さらに半歩とさがり、レイの背に触れる手前でアレアは止まった。そこから踏み込んで斬ると倒れる音がして、その音の下で、唸りは減らない。
一つ倒れれば、どこかで二つ鳴く。数えたわけではないが、鳴っている量が変わっていないことは分かる。斬れば手応えは返ってくるのに、周りは軽くならない。
「うわ、まだ来んのかよー。キリがないって」
「文句を言っている暇があるなら、手を動かせ」
返事より、背中の大剣のほうがよく喋っていた。
言い返しかけて、アレアはやめた。言葉では、一頭も減らない。
剣だけで捌き、踏み込んで裂き、返す刃で脇から跳んだ影を仕留めても、圧は変わらない。
アレアは細剣を振り抜いた。刃の届かない先で葉と草が横一線に裂けて浮き、その裂け目を追って走った斬撃が、並んでいた三頭をまとめて薙ぎ払う。
黒いものが吹き飛んで下生えへ沈み、乾いた葉が舞い上がって視界の高さで渦を巻く。掘れた地面のそばで幹の斬り跡がまた一つ増え、その脇で、団栗が一つ、踏まれもせずに転がっている。
面がひらいて、同じ速さで埋まった。三頭を薙いでも、一頭のときと変わらない。
剣だけでは、もう追いつかなかった。
細剣の柄を握り直すと、魔力を通した熱が掌にまだ残っていた。
「でも、このままだと、じり貧だぞ」
振り向かずに言うと、返事はすぐだった。
「クソ、わかってる。一気に片付ける方法があればいいんだが……」
レイの言葉の途中で、覚えたての魔法のほうから、名を呼ばれた気がした。
周りの音がまとめて後ろへ退いていき、掌の熱だけが、やけにはっきりと残っている。
手は止めず、飛び込んできた一頭を横へ払いながら、アレアは口を開く。
「……あっ、そうだ! アレやってみるか!」
背中に来るはずの風が、一拍 遅れた。
「おい、まさか!?」
「その、まさかだ!」
言い終えると同時に、ワーグの唸りとレイの大剣が肉を裂く音が一度に戻ってきた。その上に、レイの声が重なる。
「待て、アレア! それは……」
「大丈夫だって、俺に任せろ!」
答えながら前へ出て、跳びかかってきた正面の一頭をよけずに踏み込んで胸を蹴ると、獣が横へ倒れる。倒れきる前にその背を蹴り、群れの頭上を越えた。
降り立ったのは、群れの向こう側だった。アレアとレイのあいだをワーグが埋めていき、もうレイの手は届かない。
「おい! だから、待てって」
アレアは目だけを後ろへ向けた。一歩 追いかけようとしたレイは、正面のワーグに阻まれ、大剣を振って向き直ると、伸ばしかけた手を下ろした。
声は届いていて、レイが何を止めたいのかもアレアには分かっていた。それでも足は止まらない。覚えたての魔法を、まだ一度も実戦で使っていないのだ。
掌を、上へ向ける。
「猛れ、喰らうことをやめぬ炎よ」
唱えた先から掌の上に火が生まれ、はじめは手のひらに乗るほどの、燃え盛る溶岩を丸めたような球だった。
「汝の通りし跡に、形あるものは残らぬ」
二節目で、火球は両腕でも抱えきれないほどに膨れ上がり、膨れるほどに赤みが濃くなって、熱で輪郭が揺れている。重みで腕が下がり、肘を締めても支えきれない。
あたりの空気が熱を帯びはじめ、舞っていた乾いた葉が渦を巻いて火球へ吸い寄せられていき、木々が軋んだ音を立てた。
目の端で、レイが後ろへ下がっていく。
「まずい……あのバカ!!」
その声は、さっきよりずっと遠くから届く。
アレアは、いたずらを思いついた子どものようににやりと笑う。この一撃で群れごと消し飛ばせる――そう信じて疑っていなかった。
「我が指の示す、その先へ」
四節目に入ると同時に、アレアは地面を蹴った。
「奔り、焼き尽くせ」
火球を頭上へ掲げたまま、ワーグの背も木々の枝も置き去りにして、梢のはるか上まで昇っていく。下では、吸い寄せられそこねた葉がまだ渦を巻き、幹という幹が軋みつづけていた。
昇りきったところでアレアが下を見ると、木立のあいだに三十頭ほどがひしめいているのが、手前から奥まではっきりと見える。
群れの先には二人が歩いてきた道が続いていて、踏み荒らされた地面と斬り伏せた跡が、点々と残っていた。
ここからなら一頭も残さずに済む ―― アレアは、そう踏んだ。
頂点で体が止まり、掲げていた掌を群れの真ん中へ返す。
「業火」
術の名とともに、火球を叩き込んだ。
白が、目を灼いた。その白が薄れないうちに熱の塊が下から突き上げ、腹の底を、低い音が打った。
白が薄れたあと、アレアが眼下の森を見ると、正面にいた群れはもう一頭も動いていない。火はそこで止まらず、地を走って逃げる背中を後ろから追い越し、次々と飲み込んでいった。
アレアが羽のようにゆっくりと降りていく間に、数頭が火の手をかいくぐって森の奥へ消えていくのが見えた。
落ち葉の上へ着地する。思ったとおりに決まって、口元がゆるむのを止められなかった。
「この魔法、マジでスゲー!! おい、レイ! 見てたか!!」
声は、着地の勢いのまま出た。胸の奥では、まだ火球の熱が鳴っている。
声が届くころには足音がもう戻ってきていて、落ち葉を蹴散らして駆け戻ったレイが、目の前で止まる。
「見てたか? じゃねーよ!! お前こそ、周りを見てみろ!!」
「なんだよ、せっかく俺が……」
怒鳴られる理由が分からないまま、アレアは言われたとおりに振り返った。
火が、走っていた。
着弾の先から地を這う火の線が扇の形に広がり、乾いた葉から葉へ目で追いつけない速さで移って、線の先では下生えが次々に立ち上がるように燃えた。煙は、まだ薄い。
「あっ。すまん、やり過ぎた!!」
レイの後ろで、また一本、下生えが燃え上がった。
「いいから、早く消火しろ!! 俺は散ったワーグを片付けてくる」
言い終えたときには、レイはもう半身を返していた。目だけが、まだアレアを見ている。
「わ、わかった!」
答えたときにはアレアも走り出していて、向かう先は火の縁、レイは森の奥だった。
走り出した足が交わり、すれ違いざまに低い声が耳元へ落ちる。
「それと……アレア……後で覚えていろよ」
「うっ……」
返事とも言えない音が漏れたときには、紅赤の髪はもう遠ざかっていて、振り返る余裕はアレアにも無かった。
火の縁で足を止め、掌を上へ向ける。唱えたのは、二節で足りた。
頭の上に、火球より二回り小さい水の球が生まれ、形を崩して雨になり、火の線へ落ちた。地を這っていた火が、白い湯気を噴いて消えていく。
だが、消えた先で、離れた場所から新しい煙が立つ。火は、雨の届かないところまで移っていた。
もう一度 球を作って崩すと、また別の場所が白く立ち上る。追いかけては消し、消しては追いかけた。
どれだけ繰り返したか、最後の煙が白いまま細くなり、立ち消えた。目の届く範囲に、火はもう残っていない。
腕が重い。撃った一発より、そのあとの雨のほうが、よほど体から魔力を持っていった。
森の奥では、まだ剣の音が続いている。逃げた影が木々の間を回り込むたび、レイがその行く手で待っていて、鳴き声が一つずつ途切れていった。一頭も、逃がす気がない。
息をついて顔を上げると、黒くなった幹が立っていた。根元から梢の近くまで炎の抜けた色をして、枝先だけが、まだ赤い。
やり過ぎたことは、アレアにも分かっている。
だから思い出すのは、帰り道のことだった。「後で覚えていろよ」の続きが、そこに待っている。想像しただけで、肩まで重くなった。
それでも、燻りの残りを探して、火の抜けた跡を歩き出す。
探す足だけは、止めなかった。
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