#009 「“ともり”を信じる人々」
朝の空気は冷たくて、どこか懐かしい匂いがした。まだ日が昇りきる前、美弥はひとり、記録館の裏庭に出ていた。枯れ葉が風に吹かれ、石畳をかさりと鳴らす。
「……早起きなんて、珍しいじゃない、私」
小さく呟いて、自分で少しだけ笑う。昨日のはるなの顔が、頭から離れなかった。手帳を抱いていた、あの表情。
——置いていかれる。
そんな言葉だけが、胸の奥に残る。
「おねーちゃん、なにしてるの?」
振り向くと、小さな女の子が石段を上ってきていた。手には小さな箒。
「……お掃除よ。祠を、ね」
そう答えると、女の子はにこっと笑った。
「“ともりさま”のおうちなんだって」
慣れた手つきで落ち葉を集めていく。美弥は、少しだけ迷ってから祠の前に立った。古びた木の匂いが、かすかに残っている。
「……ここ、まだ残ってるんだ」
「うん。でもね」
女の子は少しだけ声を落とした。
「今は、あんまり人来ないの」
美弥はしゃがみこんで、目線を合わせる。
「ねえ。“ともり”って、どんな存在なの?」
女の子は少し考えてから、ぱっと顔を明るくした。
「やさしいよ。あったかい声でね、“おはよう”って言ってくれるの。夢の中で、だけど」
——夢。その言葉に、胸の奥が引っかかる。はるなのことが、浮かんだ。
「……私も」
思わず、言葉がこぼれる。
「会ってみたかったな」
女の子は、じっと美弥の顔を見つめた。
「きっと、会えるよ」
少しだけ首をかしげる。
「……ねえ、おねーちゃん、名前は?」
不意に聞かれて、美弥は一瞬だけ言葉に詰まる。
「……美弥」
「そっか」
女の子は嬉しそうに笑った。少しだけ、間があく。
「……わたしの名前はね」
いたずらっぽく目を細める。
「また会えたら、教えるね」
「え?」
思わず聞き返す前に、女の子はくるりと背を向けた。
「またね、美弥おねーちゃん」
そう言って、石段を軽く駆け下りていった。気づけば、もう姿は見えない。静けさだけが残る。
「……ほんと、なんなのよ。“ともり”って」
空を見上げる。そのときだった。風はない。音もない。なのに、空気だけが、ほんの少し揺れた気がした。
──「お掃除……ありがとう」
反射的に振り向く。誰もいない。女の子の気配も、もう残っていなかった。
「……気のせい?」
そう思おうとする。でも。胸の奥に、何かが残っていた。言葉じゃない。声でもない。ただ、触れたような感覚。美弥は、小さく息を吐いた。朝の冷たい空気の中で、それだけが、ほんの少しだけあたたかかった。




