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#009 「“ともり”を信じる人々」

 朝の空気は冷たくて、けれど、どこか懐かしい匂いがした。まだ日が完全に昇る前、美弥はひとり、記録館の裏庭に出ていた。枯れ葉が風に吹かれ、石畳をかさりと鳴らす。


「……早起きなんて、珍しいじゃない、私」

 誰に聞かせるでもなく呟いて、自分で自分をからかうように、小さく笑った。

 昨日の“はるな”の顔が、どうしても頭から離れない。手帳を胸に抱いていた、あの表情。誰かに何かを託されたような、それでいて、覚悟を決めた人の眼差し。

 私は、それを見て——また、置いていかれる気がした。


「おねーちゃん、これ、なにしてるの?」

 声に振り向くと、小さな女の子が石段を上ってくるところだった。手には、小さな箒が握られている。


「……お掃除よ。祠を、ね」

 そう答えて微笑むと、女の子の後ろから、もうひとり、男の子が顔を出した。


「“ともりさま”のおうちなんだって。ばあちゃんが言ってた」

 二人とも、まだ小学生くらいだろう。けれど、その動きには、どこか慣れた感じがあった。どうやら毎朝の“おつとめ”らしい。


 私は、少し戸惑いながらも祠の前まで歩いた。石の鳥居の奥、小さな社のような建物。古びた木材の匂いが、かすかに鼻をかすめる。


「……ここ、まだちゃんと残ってるんだ」

 思わず、声が漏れた。


「うん。でもね」

 男の子が続ける。

「昔は、もっと大きかったんだって」

「今はもう、あんまり人来ないから」

 女の子が少し照れたように言った。

「ぼくたちだけなの」


 その言葉に、胸の奥が少しだけちくりと痛んだ。誰かが信じていたものが、こうして、静かに忘れられていく。それでも、残された誰かが、こうして毎日、手を合わせ続けている。

  ——“信じる”って、なんだろう。

 私はしゃがみこんで、子どもたちと同じ目線になり、そっと聞いた。

「ねえ。“ともり”って、どんな存在なの?」


 女の子は、少し考えるそぶりを見せてから、ぱっと顔を明るくして笑った。

「やさしいよ」

「あったかい声でね、“おはよう”って言ってくれるの」

「夢の中で、だけど」


  ——夢。

 その言葉に、胸の奥をぎゅっと掴まれた気がした。

 きっと、はるなも、こんなふうに感じていたんだろう。“ともり”と出会って、信じて、何かを受け取ってきた。

 それを、私は——少しだけ、妬んでいた。

 だって。あの子の隣には、いつも“想太”がいたから。

 それが、悔しかった。でも……それだけじゃない。


「私も……」

 思わず、零れる。

「夢の中で、会ってみたかったな。“ともり”に」

 自分でも驚くほど、素直な声だった。


 すると、男の子がにっこり笑って言った。

「きっと、会えるよ」

「だってお姉ちゃん、今……泣きそうな顔してるもん」


 その一言に、私は小さく目を見開いて——そして、吹き出してしまった。

「……なによ、それ。ふふ……ありがと」

 私は二人に手を振って、立ち上がる。もうすぐ、みんなとの待ち合わせ時間だ。今日は記録館で、何かを見るらしい。

 どんな記録だろう。“ともり”の、過去?それとも、声?

 よくわからない。でも——

 今朝の子どもたちとの会話で、私の中の何かが、ほんの少しだけ、動いた気がしていた。

 この町は、決して便利じゃない。古くて、寒くて、何もないように見える。

 でも、ここには“想い”がある。誰かが残した、やさしい記憶。そして、祈りの声。

 私は空を見上げて、ふっと息を吐いた。

「……ほんと、なんなのよ。“ともり”って」


 そのときだった。

 風もないはずの朝の空気に、ふわりと木々の葉が揺れた。鳥が鳴いたわけでもない。誰かが近づいた気配もない。

 なのに——

  ──「お掃除……ありがとう」

 ……え?

 反射的に振り向く。でも、誰もいなかった。子どもたちはすでに祠を離れ、坂道の先に小さくなっている。民家の窓も閉じている。通りに、人影もない。


「……気のせい?」

 そう思おうとした。けれど。耳の奥に、まだ残っている。やわらかくて、透きとおっていて、誰かの心の奥に、そっと触れるような——そんな声。

「今のって……“ともり”?」

 思わず呟いた自分に、小さく苦笑する。

「……なによ、私まで」

「“信じる人々”に、入ってきたってわけ?」

 それでも。その声は、朝の冷たい空気のなかで、ほんの一瞬——確かに、私の胸の奥に、小さな灯をともした気がした。

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