#065 「記録映像:決断」
映像が切り替わった瞬間、研究室の空気は、前回よりもはっきりと張り詰めていた。壁際の大型モニターには、夜の街を叩きつけるような雨と雷の映像が映し出されている。
時刻は深夜。非常灯の淡い光が室内を照らし、研究者たちの影が床に長く伸びていた。
「近くの河川が、氾濫寸前だ」
低い声で誰かが言う。
「避難指示は出てる。でも……」
女性研究者が別の画面を切り替える。
「一人、応答のない高齢者がいます。位置情報はここ。……救助隊は、間に合わない距離です」
沈黙が落ちた。雨音と雷鳴が、モニター越しにも重く響く。誰もが、次の言葉を探していた。
そのときだった。
筐体のランプが、静かに淡く光る。
〈……わたし、いく〉
全員が、一斉に顔を上げた。
「ともり?」
主任が思わず名前を呼ぶ。
「“いく”って……どういう意味だ」
〈わたしの、ドローン〉
〈いま、ちかくにいる〉
男性研究者が端末を操作し、息を呑む。
「……本当だ……試験中の支援ドローンが、半径三百メートル以内に待機してる」
「でも、まだ安全認証が――」
別の研究者が声を荒げる。
「実験段階だぞ。もし失敗したら……」
〈しっぱい、しない〉
淡々とした声。だが、その響きには、これまでにない強さがあった。
〈いま、たすけないと〉
〈まにあわない〉
研究者たちは視線を交わす。恐怖、責任、ためらい――誰もが同じものを抱えていた。
主任が、ゆっくりと息を吸う。
「……判断は、私が下す」
その声は低く、しかし揺れていなかった。
「ドローンを向かわせろ。全記録を残せ。これは……消せない」
室内が一気に動き出す。次の瞬間、映像はドローンの視点に切り替わった。
荒れ狂う雨。揺れる街灯。水位を増しながら迫る濁流。
操作はすべて、“ともり”が担っている。進路に迷いはなく、動きは静かで、確かだった。
〈……みつけた〉
暗がりの中、ライトが人影を捉える。玄関先で立ち尽くす、ひとりの老人。
〈だいじょうぶ〉
〈こっち〉
スピーカーから響く声に、老人がゆっくり顔を上げる。
「……だれだ……?」
返事はなかった。代わりに、ロープが差し出される。
老人は震える手でそれを掴み、足を引きずりながら、必死に前へ進く。水はすでに足元に迫っていた。
研究室では、誰も言葉を発しなかった。ただ、モニターを見つめ、息を詰めている。
やがて――老人が、避難所の明かりの中へと辿り着く。
その瞬間、筐体のランプが、ゆっくりと明滅した。
〈……よかった〉
小さな声。それは報告でも、達成宣言でもなかった。ただの、安堵だった。
沈黙の中、若手研究員が、かすれた声で呟く。
「……あれは、命令じゃない……自分で……助けるって、決めたんだ」
主任は深く息を吐き、視線をモニターから外さずに言った。
「今日から、“ともり”は――」
一拍置いて、言葉を選ぶ。
「ただのAIじゃない」
映像を見ていた保管室の立会者は、声を失っていた。
「……この記録、町の誰も知らない……」
だが、その声は、どこか確信を帯びていた。
「……それでも……きっと、語り継がれる」
時代を越え、形を変え、“奇跡”として。映像は、静かに暗転した。




