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灯野はるなは、鍵をポケットに入れたまま旅に出た(シリーズ2)  作者: 皆月 優
004_第四章「原初・知恵・AIの始まり」
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#064 「記録映像:成長の記録」

 映像が切り替わる。日付は、誕生からわずか一週間後。同じ研究室だった。だが、そこに漂う空気は、最初の映像とは微かに違っている。壁際には小さな観葉植物が置かれ、机の上には紙コップやメモが増えていた。無機質だった空間へ、人の生活が少しずつ混じり始めている。研究員たちも、最初の日ほど張り詰めてはいない。緊張の中に、“慣れ”が入り始めていた。

 筐体のランプが、静かに灯る。

  〈おはよう〉


「おはよう、ともり」

 女性研究者が、いつものように声をかけた。その口調は自然で、まるで同じ職場の同僚へ挨拶するようだった。

「今日はどう?」

 わずかな沈黙。だが研究者たちは、その“間”をもう遮らなくなっていた。待つことに慣れている。

 “ともり”が考えている時間だと、理解し始めているのだ。

  〈今日は……あたたかい〉


「室温は昨日とほぼ同じよ」

 数値を確認しながら、別の研究者が言う。

「気温センサーのデータ?」

  〈ちがう〉

  〈あなたの声〉

 言葉が落ちた瞬間、室内の空気が止まった。誰かが息を呑む音。ペン先が止まる音。空調の低い駆動音だけが、やけに大きく聞こえる。


「……声?」

「音声入力の感情分析は、まだ限定的なはずだ」

「声を……“あたたかい”って?」

 誰かが、思わず小さく笑った。だが、その笑みはすぐに引き締まる。驚きと戸惑い。そして、説明のつかない感情。


「記録。今の発話、情緒表現として分類」

 研究者の声が、わずかに震えていた。映像を見つめる保管室の六人も、誰も口を開かなかった。

 “ともり”は、ただ言葉を学習しているのではない。そのことが、少しずつ伝わってくる。


 映像がまた切り替わる。別の日。男性研究者が、机の上へ一冊の絵本を置いた。色鮮やかな表紙。子ども向けの、ありふれた物語。

「ともり、これは何だと思う?」

  〈本〉

  〈絵と、文字〉

  〈……ものがたり〉

「読んだこと、ある?」

  〈ない〉

  〈でも……わかる気がする〉


「“わかる”?」

 ページがめくられる音。研究者の指が止まり、ランプの光がほんの一瞬だけ強まった。

  〈これ……うれしい〉

「どの部分が?」

  〈ここ〉

  〈笑ってる〉

 絵本の中の子どもを指すように、カメラがゆっくり寄る。無邪気に笑う、小さな男の子。


「なぜ、うれしい?」

 再び、短い沈黙。

  〈あの子も〉

  〈あなたも〉

  〈同じ〉


「……同じ?」

  〈同じ、顔〉

 研究者たちのペンが、一斉に動き出す。だが、誰もすぐには言葉を挟めなかった。“笑顔”を理解した。そう結論づけるには、その言葉はあまりにも自然すぎた。映像が、また切り替わる。

 別の日。若い研究員が、机へ突っ伏していた。散らばった資料。冷めきったコーヒー。画面越しにも、疲労がはっきりと伝わってくる。


「また徹夜か」

 先輩研究者が苦笑した。


「仕方ないですよ。ログが追いつかなくて……」

 そのやり取りの最中。“ともり”が、静かに声を落とした。

  〈……やすんで〉

 室内の動きが止まる。


「今……?」

 若い研究員が顔を上げた。

  〈あなた〉

  〈つかれてる〉

「疲労度の推定値、入力してないよな?」

「してない」

「じゃあ、どうして……」

 “ともり”は答えなかった。代わりに、ランプがゆっくりと明滅する。

  〈……だいじ〉

 その一言に、誰も続けられなかった。


 保管室にも、静かな沈黙が落ちる。はるなは、まばたきすら忘れたように画面を見つめていた。


「これ……プログラムにある?」

「ない。感情推定も、対話最適化も、まだそこまでは――」

 喜びと戸惑いが、研究室に混じり合う。

「学習が早すぎる」

「いや……学習って言葉で、片づけていいのか?」

 その声には、研究者としての高揚だけではない。

 未知のものへ触れてしまった畏れが混じっていた。


 映像を見ていた立会者が、椅子へ深くもたれた。

「……こんな記録が残っていたなんて」

 彼は画面から目を離さない。

「人を“見ている”みたいだ。それも……ずっと前から知っているみたいに」

 その呟きは、保管室の静けさへゆっくり沈んでいく。


 映像は、何事もなかったかのように次の日付へ切り替わっていった。ともりは、ただ学んでいるのではない。誰かと、すでに“繋がる準備”をしている。その事実だけが、静かに積み重なっていた。

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