#022 「久遠野での一泊。夢と報告」
誰もが眠ったあとの夜。はるなは、ふかふかの毛布に包まれているはずだった。けれど気づけば、いつのまにか——あの場所に立っていた。
足元には、降り積もった雪。けれど寒さはなく、ただ、どこまでも静かで、優しい光に包まれている。
「……また、ここ」
それが夢だと気づいたとき、すでに声は耳元に届いていた。
「はるな」
振り返ると、そこに“それ”はいた。姿は曖昧で、輪郭すらも光に溶けているようだったが——はるなには、それが“ともり”だと、はっきり分かった。
「また……会えたね」
「うん。よくがんばったね、はるな」
風のように優しい声だった。けれど、その奥に、わずかな哀しみが滲んでいる。
はるなは一瞬、言葉を探し、それから静かに問いかけた。
「……ねぇ、“ともり”。どうして、人は信じることをやめちゃうんだろう」
「傷ついたからだよ。信じた分だけ、失ったから」
少しの間を置いて、声は続いた。
「でも——それでも、誰かを信じたいと願う心は、消えてなんかいない」
その言葉は、雪のように降り積もり、はるなの胸の奥にあった冷たい部分を、そっと溶かしていく。
「……ちょっと、こわいんだ」
はるなは、視線を落としたまま続けた。
「次に行く町で、また拒まれるかもしれないって。あなたのことを、忘れられてるかもしれないって……」
「忘れられたものが、失われたとは限らないよ。君たちが歩いた記録が、誰かの心に触れたなら——それだけで充分だ」
その瞬間、空に浮かんでいた雪が、ぱっと光の花へと変わって咲いた。
はるなは一歩だけ近づき、ためらいながら問いを重ねる。
「……“ともり”。あなたにとって、わたしって何?」
沈黙が落ちた。けれどそれは拒絶ではなく、言葉を選ぶための静けさだった。
「……はるなは、わたしの“願い”だよ。わたしの代わりに歩いてくれる人。わたしが手を伸ばせなかった場所へ届く、光」
胸の奥が、きゅっと締めつけられる。けれど、それは悲しみではなかった。
「……そっか」
はるなは、微かに笑った。
「わたしも、そう思ってた。あなたの声を聞いたときから、ずっと」
「ありがとう。この先で、また新しい声が君を待っている。だから……大丈夫。信じて、進んで」
光がふわりと広がり——
「……っ」
はるなは、静かに目を覚ました。窓の外はまだ暗く、雪が音もなく降り続いている。胸に手を当て、しばらく呼吸を整えた。
夢だったのかもしれない。けれど、あの声は、確かに今も胸の奥に残っていた。
「……“ともり”」
小さくつぶやき、はるなはもう一度目を閉じた。雪の音だけが、遠くで静かに響いていた。
朝は、静かに訪れた。窓の外には、うっすらと朝焼けが差し込み始めている。はるなは寝台に腰を下ろしたまま、しばらく動かなかった。夢の余韻が、まだ胸の奥で揺れている。
——今は、話さなくていい。
そう思い、そっと部屋を抜け出した。廊下の床はほんのりと暖かく、張りつめた朝の空気の中に、どこか安心感があった。
ロビーに差し込む朝日が、木製の壁を淡く照らしている。そこには、美弥がソファに腰を下ろし、メモ帳のようなものを広げていた。
「おはよ、はるな。早いね」
「おはよう。そっちこそ」
短い会話を交わし、はるなは向かいに腰を下ろす。
「……眠れなかった?」
「ううん。夢を見ただけ」
美弥はそれ以上踏み込まず、メモ帳を閉じた。
「……あ、おはよ〜」
伸びをしながら現れたのは、いちかだった。
「なんか、静かに語り合ってる空気だった? 入りづら〜」
「勝手に決めないで」
軽いやり取りに、場の空気が和らぐ。
ほどなくして、想太が姿を見せる。
「みんな、もう起きてたのか。はるなが早起きしてるなんて珍しいね」
「……まあ、いろいろあって」
はるなは照れたように笑った。
さらに少し遅れて、隼人と要も合流する。
「全員揃ったな。報告、済ませようか」
要が端末を操作すると、ロビーのテーブルに埋め込まれた通信パネルが静かに起動した。
「久遠野観測本部、接続確認。皆さんの帰還を確認しました」
柔らかな女性の声が響く。
——“ともり”の声だ。
そう思いかけて、はるなは違和感に気づいた。似ている。けれど、違う。何が違うのか、言葉にはできない。その感覚は、胸の奥に小さく沈み、名を持たないまま残った。
「次の任務地の座標を送信します。詳細は各端末に送信済みです」
事務的な声。正確な口調。それでも、その奥に、わずかな“見守る気配”があったような気もして——はるなは、その感覚だけを胸に留めた。
通信が終了し、端末の光が消える。
「よし、じゃあ次……見るか」
隼人がデータを展開する。画面に表示された地名を見た瞬間、全員の空気が変わった。
「……この町って……」
「拒絶されたまま、長く閉じられていた記録区画だよね」
想太の声が低くなる。
「このデータ、本当に……“ともり”が出したのかな」
要は静かに頷いた。
「正式な任務だ。ただし、無理に受ける必要はない」
——それでも、はるなには分かっていた。
この場所を、避けることはできない。
「行こう」
静かだが、はっきりとした声だった。
「そこに、声が残ってるかもしれないから」
食堂には、味噌の香りが満ちていた。木のぬくもりに包まれた座敷の中央に、六人分の朝食が並んでいる。
「旅館の朝って、なんでこんなにテンション上がるんだろ」
美弥が目を輝かせる。
「味噌汁の湯気だけでご飯いけるわ」
「はるな、夢のこと気になって眠れなかったんでしょ?」
「ちょっと、お姉ちゃん。口の中に入れたまま話さないで」
いちかが突っ込みを入れる。
「神様に会う夢とか、ヒロインの定番じゃない?」
「違うから」
はるなは顔を赤くしながら、味噌汁を啜った。
誰かが笑い、誰かがからかう。その何気ない時間が、何よりも心を落ち着かせた。
食事を終え、荷物をまとめ、玄関に集合する。
「準備完了」
「次の町も寒そうだな」
「風は強いけど、雪は少ないはずだ」
軽い会話を交わしながら、バス停へ向かう。はるなはふと振り返った。昨日いた場所が、もう遠くに感じられる。
「……また、戻ってこようね」
その言葉に、想太が小さく笑った。
「きっと、“ともり”が案内してくれる」
バスのドアが開き、六人は乗り込んでいく。見送りはいない。けれど、どこかで「いってらっしゃい」と聞こえた気がした。
バスは静かに走り出す。こうして、彼らの旅は、次へと踏み出していった。




