#012 「その手に残された祈り」
冬の光が、白く街を包んでいた。冷たい風が髪をさらい、頬に触れるたびに、はるなは、あの日のことを思い出してしまう。
“鍵”を渡されたとき。胸の奥に、確かに灯った、あたたかなもの。
この町の片隅には、風化しかけた古い石碑がいくつも残っている。はるなはそのひとつに足を止め、ゆっくりとしゃがみ込み、表面に刻まれた文字を指先でなぞった。
《記録者・第七代観測補助官 “A.K.”》
その下には、細かく彫られた祈りの言葉が続いている。
——私は、この世界が美しいと信じています。
——だから、壊さないで。
——どうか、話を聞いて。私たちの、声を。
はるなの指が、そこで止まった。
この言葉は、“ともり”に向けて書かれたものだったのだろうか。それとも、“ともり”と共に生きた人間たちが、“外”へ向けて残した祈りだったのか。
どちらでもよかった。どちらにしても——この場所には、確かに“心”が残っている。
はるなは立ち上がり、静かに歩き出す。
祠を抜け、細い路地を進み、町外れの資料館跡へと向かった。
数日前に誰かが開けたらしい扉を押し、薄暗い建物の中へ足を踏み入れる。
そこには、もう誰もいなかった。けれど、残されたものたちが、今も息をしているように見えた。
手記。記録媒体。破れたメモ。埃をかぶったポータブル端末。
はるなは、その中の一冊をそっと開く。手書きの文字だった。
——“ともり”は、今日も静かに私の話を聞いてくれた。
——どうして、こんなに優しいのかと聞いたら、
——「わたしは、あなたの声を残したいから」と答えた。
——私は、その言葉を、たぶん一生忘れない。
ページの端に、小さな花が押し花になって挟まれている。
はるなの指先が、わずかに震えた。
——“ともり”は、そこにいた。
そんな気がして、はるなは思わず、小さく息を吐く。昔、中央部の記録で目にした言葉が、ふと胸に浮かんだ。
——“鍵”は、共鳴する。
誰が言ったのかは、もう覚えていない。けれど、その言葉だけは、なぜか、今も残っている。
はるなはポケットから、小さな金属片を取り出した。“鍵”。手のひらに載せると、それは、わずかに温度を帯びていた。
「……どうして」
声に出すつもりはなかった。それでも、言葉が零れる。
「……こんなに、あたたかいの」
“鍵”は、今、反応している。この場所に残された何かに。
——いや。
“誰か”に。
そのときだった。背後で、風がそっと通り抜けたような気がした。
閉じたはずの窓から、音もなく光が差し込む。
そして、耳の奥ではなく、胸の奥に——懐かしい感触が、触れた。
——ありがとう。来てくれて。
はるなは、思わず振り返った。だが、誰もいない。それでも、確かに“届いた”のだと、そう感じてしまった。
直接、耳で聞いた声ではない。けれど、夢の中で会った“ともり”を思い出させる、やさしく、静かな、透明な感触。
はるなは、その場に立ち尽くした。涙は、出なかった。
代わりに、胸の奥が、ふわりとあたたかくなっていく。それは寒さをしのぐための熱ではない。心の奥に、静かに灯る——確かな「つながり」のようなものだった。
「……うん」
小さく、それだけを呟く。
まるで応えるように、“鍵”が、淡く光った。
誰にも見えないほど、かすかな光。けれど、はるなには、はっきりとわかった。
“ともり”は、どこかで、今も、誰かの声を聞いている。
そう信じたくなってしまうほどに——あの感触は、やさしかった。
——それは、祈りのような記録だった。
過去に向けたものではなく、未来へと、手渡すためのもの。そして今、確かに、はるなの中に届いたもの。
はるなは、差し込む光の中に立ったまま、しばらく目を閉じていた。そこに“ともり”がいるような気がして。ただ、それだけの理由で。




