#100 「祈りとは何か」
誰かが「行こう」と言ったわけではなかった。ただ、今は話し合う気にもなれず、それぞれが、自然と同じ方向へ足を向けていた。官僚たちの決めた言葉は、理屈としては整っていた。理解できた者もいる。納得したふりをすることも、きっとできた。
それでも六人は、その続きを言葉で受け止める気にはなれなかった。答えを探しに行くわけじゃない。抗議をしたいわけでもない。ただ、胸の奥へ溜まったものを、一度、静かな場所へ置きに行きたかった。
ユグノドア・ドームは、学園中心部にあった。巨大な半球状の建造物は、遠くから見ると、空へ伏せられた透明な器のようにも見える。外壁は柔らかな光を反射し、昼でも夜でも、そこだけ時間の流れが少し違って見えた。ここは学園施設でありながら、市民へ常時開放されている場所でもある。
特定の宗教名は掲げられていない。祀られた像も、象徴もない。ただ。
《祈りの場》それだけが、静かに記されていた。
学園創設時、この街が「AIと人が共に生きる場所」として設計された際、最後まで残された空間だと、はるなは以前聞いたことがある。
信じることを否定しない。けれど、信仰を一つへ定めもしない。誰かが何かを願ってもいい。何も願わなくてもいい。考えることを、少し休んでもいい。そのために、このドームは存在している。
中へ足を踏み入れると、外の音は自然と遠ざかった。高い天井から差し込む光は人工的なのに、不思議と眩しすぎない。床へ敷かれた柔らかな素材が、歩くたび靴音を静かに吸い込んでいく。すでに数人の市民が、思い思いの場所で時間を過ごしていた。手を組み、目を閉じる人。壁にもたれ、ぼんやり天井を見上げる人。ただ、静かに座っているだけの人。誰も、六人へ特別な視線を向けなかった。
「……静かだね」
いちかが、声をひそめて言う。
「うん」
美弥が小さく頷いた。
「何も言わなくていい感じ」
隼人は無言のまま歩き、少し離れた場所へ腰を下ろした。腕を組んだまま、目を閉じることもせず、ただ床を見ている。
要は天井を見上げ、何かを考えかけては、やめるように息を吐いた。
想太は入口付近で立ち止まり、一歩踏み出すまでに、ほんの少しだけ時間がかかっていた。
はるなは、その様子を横目で見ながら、中央に近い場所へゆっくり歩いていく。
ここへ来てから、胸の奥にあったざわつきが、少しだけ形を変えていた。消えたわけじゃない。整理されたわけでもない。ただ、“言葉にならなくなった”。
誰かが祈り始めた、という明確な瞬間はなかった。それぞれが、それぞれのやり方で、立ち止まっていただけだった。
はるなは静かに目を閉じる。何かを願おうとして、すぐにやめた。今は、願いを作ることすら、少し重い。
──『無理に、考えなくていいよ』
耳の奥で、あの“近い”声が静かに響いた。広場や会議室で聞いた声とは違う。命令でも、説明でもない。ただ、そこに在る声。
「……ここ、変だね」
はるなが小さく呟く。返事はなかった。それで、よかった。
しばらくして。いちかが、ぽつりと言った。
「ねえ……私、分かったことがある気がする」
誰も返事をしない。それでも、いちかは続けた。
「分からないままでも、ここにいていいってこと」
美弥が、静かに笑う。
「それ、答えじゃない?」
「……答えじゃないよ」
いちかは小さく首を振った。
「逃げ道、かな」
「逃げ道も、大事だよ」
想太が、少しだけ力を抜いた声で言う。その言葉を、誰も否定しなかった。
やがて、六人は静かに立ち上がる。来た時より何かが軽くなったわけじゃない。でも。壊れそうだったものが、壊れずに済んだ。それだけで、十分だった。
ドームを出ると、外の光が少しだけ眩しく感じられる。世界は相変わらず動いていた。定義も、制度も、変わっていない。それでも六人は、同じ方向へ足を向けて歩き出す。
祈りは、答えをくれなかった。けれど。立ち止まる理由には、なってくれた。それだけで、この場所は役目を果たしていた。




