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日本帝国立怪異研究学園―九尾の野望―  作者: 月乃宮 夜見
黒牡丹の監査者

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2/14

第二章:獬豸殿と監査の役割

重厚な木製の扉が静かに閉まる音が、学園長室に響いた。


珠紀は思わず背筋を伸ばす。部屋の中は古い紙と香の混じった匂いで満たされていた。壁一面を埋め尽くす書棚には、分厚い和綴じの本や見たこともない装丁の書物が並び、机の上には万年筆が置かれていた。


そして、部屋の中央に立つ人物――梅鶯桃華は、珠紀をじっと見つめ微笑んでいた。


「面白いですねぇ。冥利くんから話は聞いていたけれど、想像以上です」


「……え?」


珠紀は戸惑った声を漏らす。桃華は小柄で、年齢も自分とそう変わらないように見える。艶のある髪に整った顔立ち。だが、その瞳だけは不思議な威圧感を宿していた。


「警戒しなくていいですよ。私は怖い人じゃないですからね?」


桃華は笑うと、椅子へ腰掛けた。

冥利が、咳払いをする。


「学園長。本題を」


「そうでした」


桃華は机に頬杖をつき、珠紀を見た。

その瞬間、部屋の空気が変わる。


「九条珠紀くん。君は『記憶の蕾』の影響を受けなかった。まず、それ自体が異常です」


珠紀は思わず唇を噛んだ。桃華は静かに続ける。


「『記憶の蕾』は精神干渉型の怪道具。本来、一般人に対して極めて高い効果を発揮します。簡単な記憶処理なら一瞬で終わるほどに」


「記憶……処理……?」


珠紀の顔が青ざめる。冥利が使った道具は、そんなものだったのか。


「危害を加えるものじゃないですよ」


桃華は軽い口調で言うが、内容は軽くない。


「怪異に遭遇した一般人は、記憶処理して日常へ帰す。それが方針ですから」


珠紀は言葉を失った。

自分は本来ならここへ来ることなく日常に戻され、何も知らずに生きていたのだろうか。


「でも、君には効かなかった」


桃華の目が細まる。言葉に、珠紀の胸がざわついた。


「……私は、どうなるんですか」


気づけば、そう零していた。


「安心してください。閉じ込めたり解剖したりはしないので」


「か、解剖!?」


「冗談ですよ」


くすくすと笑う桃華に、珠紀は不安になる。すると冥利が呆れたように口を開いた。


「警戒されるような言い方をしないでください」


「だって本当のこと言うともっと怖がるでしょ?」


「え……?」


だが桃華はすぐに、真面目な表情へ戻った。


「九条珠紀くん。君には、しばらくこの学園で過ごしてもらいます」


静かな声だが、有無を言わせぬ力があった。


「君自身を守るためでもあるし――」


桃華はそこで一度言葉を切る。

そして微笑んだ。


「この学園を守るためでもある」


「しかし本当に珍しいですねぇ……」


桃華は感心したように呟く。


「『記憶の蕾』だけでなく、境界の狭間でも精神汚染を受けていない。普通なら、とっくに正気を失っていてもおかしくないんですが」


「精神……汚染……?」


珠紀は思わず顔を引きつらせた。


「怪異は、人の精神へ干渉する存在が多いんです。幻覚を見せたり、記憶を書き換えたり。だから怪道具にも精神干渉系が多い」


桃華は机の引き出しから小さな紙片を取り出した。札のようなそれには、黒い墨で複雑な紋様が描かれている。


「これは簡易的な催眠札。普通の人に使えば、一時的に眠らせるくらいはできます」


桃華が指先で札を軽く弾く。

次の瞬間、珠紀の目の前で紙片が淡く光った。


だが――何も起きない。


「……え?」


眠気も違和感も、一切感じない。桃華は楽しそうに口角を上げる。


「ほら、効かない」


冥利も壁際で腕を組みながら、小さく息を吐いた。


「予想以上だな……」


珠紀は困惑して二人を見る。


「ま、待ってください。効かないって言われても……」


「でしょうねぇ」


桃華はあっさり頷いた。


「でも事実です。君は怪異から“干渉されにくい”。それは、とても重要な意味を持つ」


桃華は頬杖をついたまま、少し声の調子を落とした。


「学園には、怪異や怪道具を扱う生徒が大勢いる。当然、事故や暴走も起こる。中には、記憶操作や認識改変を悪用する子もいるんです。証拠を消したり、自分に都合の良い記録を残したりね」


部屋の中で、桃華の目だけが妙に冷たく見えた。


「だから必要なんです。“影響を受けない人間”が」


言葉が、自分へ向けられていると理解する。


「君には、学園の『監査』になってもらいます。簡単に言えば、怪道具や怪異利用の不正を監視する役目。公平な立場から、生徒たちを見てもらいます」


「む、無理です!」


珠紀は反射的に声を上げた。


「急に言われても……! そもそも怪異とかもよく分かってないのに!」


「普通はそうなりますよね」


桃華は頷いた。


「でもね、九条珠紀くん。君はもう“普通”じゃいられない」


珠紀は息を呑む。帰宅途中だったはずの日常は、もう遠い場所へ消えてしまった気がした。


「とはいえ、いきなり全部やれなんて言わないですよ。まずは学園に慣れてもらいます。住む場所も用意してありますしね」


「……住む場所?」


桃華は満面の笑みを浮かべる。


「ようこそ、怪異研究学園へ。九条珠紀くん――今日から君は、ここの生徒だ」


「さて、ここからが本当に大事な話です」


その言葉に、珠紀は嫌な予感を覚えた。


桃華は一枚の書類を抜き取り、珠紀の方へ向ける。そこには『獬豸殿』という文字が記されていた。


「君には新設寮――獬豸殿の寮長になってもらいます」


「……え?」


間の抜けた声が漏れるが、桃華は気にせず続けた。


「獬豸殿は監査専門の独立寮です。他の寮から干渉を受けない、中立を保つ場所」


「いや、今日来たばかりの人間が寮長なんて!」


珠紀は慌てて声を上げた。


「そう思いますよね」


桃華は頷く。だが、その顔はまるで最初から反論を想定していたようだった。


「でも獬豸殿に必要なのは、経験や戦闘能力じゃない。“公平であること”です。監査役は、生徒の怪道具使用などを確認する役目を持つ。時には規律違反を暴くこともあるし、寮同士の問題へ介入することもある」


つまり、学園中から嫌われる可能性がある役目。


「楽な役目ではないです。監査は誰かの味方になりすぎても駄目だし、逆に敵を作ることも多い」


「そんなの……尚更私には無理です」


珠紀は俯いた。自分に、そんな役割が務まるとは到底思えない。


「だけど君だけは、“改竄されない目”を持っている」


改竄されない。

つまり、誰かが嘘を作っても、外部からの影響を受けない珠紀だけは、真実を見られるのだ。

確かに、珠紀にしかできない役割。

珠紀は無意識に、書類へ視線を落とす。


「……でも、急すぎます」


かろうじて絞り出した声に、桃華は悪戯っぽく笑う。


「安心してください。もう転校手続きは終わってます」


珠紀の思考が停止した。


「…………はい?」


「戸籍関係、学籍移動、保護者連絡、住居手配、全部済ませてますよ。うちの事務は優秀ですねぇ」


「待ってください! 私まだ何も了承してませんよね!?」


「問題はないですから」


「そういう話じゃなくて!」


冥利が横で深いため息をつく。


「学園長、毎回強引すぎるんですよ……」


「だって説明してる間に逃げられたら困りますし」


さらりと言い切る桃華に、珠紀は頭を抱えたくなった。


「怖いですか?」


その問いに、珠紀は言葉を失った。


怖い。


当たり前だ。


突然知らない世界へ連れて来られ、怪異だの監査だのと言われ、気づけば転校まで決まっている。


不安しかない。


そんな珠紀を見て、桃華は静かに言う。


「でもね、九条珠紀くん。君のその力は、学園に必要になる」


その声音は、先ほどまでの軽薄さが嘘のように真剣だった。


学園長室を出る頃には、外はすっかり夕闇に包まれ始めていた。


赤かった空は群青へと変わり、吊るされた灯籠がぽつぽつと淡い光を灯し始める。昼間には美しく見えた学園の風景も、夜が近づくにつれて不気味さを帯びていた。


珠紀は冥利の後ろを歩き、小さく息を吐く。

頭の中は混乱したままだ。


怪異研究学園。

監査役。

獬豸殿。

転校。


現実感が薄く、夢の中のようだ。


「……本当に、ここで暮らすんですか」


零した声に、冥利は振り返らないまま答える。


「しばらくはね」


その短い返答だけで会話が終わる。静寂が二人の間へ落ちた。

やがて、人気の少ない道へ。


「……遠いんですね」


「獬豸殿は独立寮だからな。他の寮から距離を置いて建てられている」


冥利の横顔は、僅かな複雑さが滲んでいるようにも見えた。

しばらく歩いた先で、冥利が足を止めた。


「着いた」


珠紀はゆっくり顔を上げる。


そこにあったのは、古い怪談に出てきそうな建物。

黒漆塗りの柱に深く張り出した瓦屋根。長い年月を感じさせる木造建築。その美しさは既に朽ち始めている。


「……ここに住むの?」


声が震えてしまった。冥利は静かに頷く。


「長い間閉鎖されてたんだ。獬豸殿が再設立されることになって、最低限だけ整備された」


“最低限”。その言葉に、珠紀は不安しか覚えなかった。


冥利は引き戸へ手をかける。

ぎぃ、と鈍い音を立てながら扉が開いた。

中は外以上に静まり返っていた。


誰かが住んでいる気配は、ほとんど無い。


「……ほんとに寮なんですよね、ここ」


「一応ね」


冥利は靴を脱ぎ、そのまま廊下を歩き始める。珠紀も慌てて後を追った。

歩くたび、床板がみしりと軋む。


「部屋は空いてる場所を使えばいい。元々人数が少ない寮だからね」


「少ないって……今は何人いるんですか?」


珠紀の問いに、冥利は少し沈黙した。


「今は君だけだ」


「……え?」


珠紀は思わず立ち止まった。冥利は振り返る。


「獬豸殿の寮生は居なかった。だから君が最初の入寮者になる」


珠紀は思わず周囲を見回した。


ここで、一人。


その現実が急に重くのしかかってくる。


「……無理かも」


小さく漏れた本音に、冥利は少しだけ目を細めた。


「慣れるさ」


無責任な言い方だが、その声音は僅かに柔らかい。


「まずは自分の部屋を決めるといい。荷物も後で届くはずだ」


そう言って冥利は廊下の先を示した。

珠紀は不安を抱えたまま、静まり返った獬豸殿の奥へと足を踏み入れていく。


冥利と別れた後、珠紀は一人、獬豸殿の廊下を歩いていた。

建物の内部は静かだった。むしろ、静かすぎる。


廊下の天井には、古びた照明が等間隔に吊るされている。だが電灯の光は弱く、ぼんやりとした橙色の明かりが床を照らしているだけ。


その淡い光が揺れるたび、影がゆらりと歪む。


珠紀は思わず、足を止めた。


「……気のせい、だよね」


小さく呟く。だが返事はない。

聞こえるのは、自分の足音と、どこからか吹き込む風の音だけ。


ひゅう、と細い風切り音が廊下の奥から流れてくる。

障子の隙間でも空いているのだろうか。それとも――。


珠紀は慌てて考えを振り払った。

こんな場所に来たせいで、少し神経質になっているだけだ。


けれど床板がぎしり、ぎしりと軋む音を立てるたび、不安はむしろ大きくなっていった。


廊下の途中には閉ざされた部屋がいくつも並んでいる。


どの部屋も長い間使われていないのか、薄く埃が積もっていた。


珠紀は無意識に歩く速度を速めた。

やがて、廊下の突き当たりへ辿り着く。


襖を開けると、室内は驚くほど質素だった。


板張りの部屋に、木製の机が一つ、古い本棚が一つ、クローゼットが一つ。


それだけ。


「……本当にここで暮らすんだ」


ぽつりと呟いた声が、静かな部屋に溶けていく。


生活感の無い空間は、どこか仮住まいのようにも見えた。

珠紀はゆっくり部屋へ上がる。


その時だった。


不意に、窓の外で何かが揺れた。


珠紀はびくりと肩を震わせ、反射的に窓へ視線を向ける。


そこには、一面に黒牡丹が咲いていた。


月明かりを浴びた花々は、夜の闇に溶け込むように黒く深い色をしている。


風が吹くたび、花弁が静かに揺れる。


その光景は恐ろしいほど美しかった。


珠紀は思わず窓辺へ近づく。


庭に広がる黒牡丹は、まるで誰かが意図して植えたかのように整然と並んでいた。


白い月光の中で、黒い花々だけが妖しく浮かび上がっている。


そして。


――ざわ。


風が吹いた瞬間、

花々が一斉に揺れた。


珠紀は息を呑む。


ほんの一瞬だけ。

花たちが、何かを囁いたように聞こえた。


「……っ」


思わず窓から身を引く。

心臓が早鐘のように鳴っていた。

気のせいだ。そう思いたいのに。


「(すごく……怖い)」


こんな古い建物に一人。無理はない。


今までとは全く違う世界へ来てしまったのだと、珠紀は改めて実感する。


窓の外では、黒牡丹が静かに揺れていた。


まるで、この寮そのものが珠紀を見つめているかのように。


夜は、思っていた以上に静かだった。


珠紀は布団へ横になったまま、ぼんやりと天井を見つめていた。


古びた木造の天井板には小さな染みがいくつも浮かび、月明かりが障子越しに淡く差し込んでいる。部屋の隅は薄暗く、静寂が重たく沈殿していた。


時計の音すら聞こえない。


その静けさが、逆に珠紀の不安を際立たせていた。


――ひゅう。


どこか遠くで風が鳴る。


古い建物の隙間を抜けているのだろうか。


時折、廊下の奥から木が軋むような音も聞こえてくる。


ぎし……。みし……。


まるで誰かが歩いているようにも聞こえて、珠紀は思わず布団を握りしめた。


「……気のせい、気のせい……」


小さく呟く。

だが、その声すら部屋へ吸い込まれていくようだった。


珠紀はそっと寝返りを打つ。

窓の外では、黒牡丹が月明かりの中で静かに揺れていた。


花弁が風に揺れるたび、

誰かが囁いているような錯覚を覚えてしまう。

珠紀は慌てて視線を逸らし、布団を胸元まで引き上げた。


目を閉じても、今日の出来事ばかりが頭を巡る。

どれも、自分とは無関係だったはずの言葉だ。

なのに今、自分はその世界の中にいる。


「……なんで、私なんだろ」


ぽつりと漏れた声は、弱々しかった。

自分は特別な人間ではない。


勉強も普通。

運動も普通。

特別な才能なんて何一つ無い。


それなのに突然、「怪異に干渉されない」などと言われても、実感なんて湧くはずがなかった。


珠紀はぎゅっと拳を握る。


思い浮かぶのは、家族の顔だった。


いつもの食卓。

何気ない会話。

学校帰りの友人との時間。


昨日までは、それが当たり前だった。

明日も続くと信じていた。


なのに今は、知らない場所で、一人きりで、得体の知れない環境に囲まれている。


胸の奥が、じわりと痛んだ。


「(……帰りたい)」


その言葉が、喉元まで込み上げる。

だが同時に、桃華の言葉も思い出した。


――もう“普通”じゃいられない。


珠紀はゆっくり目を開ける。


障子越しの月光が、ぼんやり部屋を照らしていた。


視界が、じんわりと滲む。小さく鼻をすすり、目元をそっと拭った。


逃げたいと思う。


怖いとも思う。


それでも、もう元の日常には戻れない。


転校手続きは終わっている。きっと、もう元の学校には戻れない。


自分は既に、怪異研究学園の生徒なのだ。


その現実だけが、嫌になるほどはっきりしていた。


「……やるしか、ないのかな」


ただ夜風だけが静かに吹き込み、窓の外で黒牡丹を揺らしていた。


障子越しに差し込む月明かりが、静かな部屋を淡く照らしていた。


珠紀はゆっくりと起き上がり、じっと窓の外を見つめる。目が冴えてしまって、全く眠れなかった。


「(私は……いつから“異常”だったんだろう)」


1番の疑問はそれだ。

そもそもなぜ、自身は“境界の狭間”なんて場所に入り込んでしまったのだろうか。


「(私の“異常”は、他の怪異学園の人たちと……どう違うのかな)」


“珍しい体質”と言われていた。

一体、どれくらい珍しい体質なのだろうか。


全く、自分のことが分からない。


珠紀はそっと息を吐く。

怖くないわけではない。

むしろ、怖いことだらけだった。


怪異が存在する世界。

生徒たちを見張る監査という役割。

精神干渉が効かない自身の体質。

突然の寮長への就任。


どれも、自分とは無縁だった世界の話だ。


今日一日だけで、人生が丸ごと別のものへ変わってしまったような感覚がある。


それでも。


「……やるしか、ないよね」


小さく呟く。


その声はまだ弱々しかったが、先ほどより少しだけ芯があった。

逃げたい気持ちは消えていない。

家へ帰りたいとも思う。

けれど、もう戻れないのだと理解してしまった。


なら――前へ進むしかない。


珠紀はゆっくり息を吐き、拳を握る。

自分には特別な力なんて無いと思っていた。

だが桃華は言った。


“怪異に干渉されない”特別な体質。

その体質は、この学園に必要なものだと。


もし本当に、自分にしかできない役割があるのなら。

もしその力で、誰かを助けたり、何かを守れたりするのなら。

少しくらいは、この場所にいる意味があるのかもしれない。


珠紀は再び窓の外を見る。


月光の中で揺れる黒牡丹は、夜の海のように静かだった。


ここは奇妙な場所だ。

美しくて、不気味で。

けれど同時に、どこか惹きつけられるものもある。


怪異研究学園。


この場所で、自分は何を知るのだろう。

まだ分からない。


それでも、胸の奥には小さな熱が生まれ始めていた。


不安だけではない。

ほんの僅かな期待。


「(……もう寝なきゃ)」


眠れる気はしなかったが、目を閉じてじっとしてるだけでもいいだろう。


古い天井を見上げながら、ゆっくり目を閉じた。


廊下は静かだ。

先ほど聞こえた物音も、今はもうしない。


「……おやすみなさい」


誰に言うでもなく、珠紀は小さく呟く。

その声は、広い獬豸殿の静寂へ溶けていった。


月明かりの下、黒牡丹が静かに揺れている。

まるで、新しい住人を迎え入れるように。


障子越しの淡い陽射しは昨夜の不気味な空気を薄め、静かな温もりを獬豸殿へ運んでくる。


「ん……」


九条珠紀は薄く目を開けた。

しばらくぼんやり天井を見つめる。


「どこ、ここ……」


古びた木目。

静かな部屋。

遠くから聞こえる鳥の声。


「……そうだ」


そこでようやく、自分が怪異研究学園にいるのだと思い出した。


「……夢じゃ、ないんだ」


小さく呟きながら、珠紀はゆっくり身体を起こす。朝の薄い光が、部屋を僅かに明るくしていた。


昨夜感じていた恐怖は、まだ胸の奥に残っている。けれど不思議と、少しだけ落ち着いていた。


窓の外を見る。

朝露を受けた黒牡丹が静かに揺れていた。

夜には妖しく見えた花々も、朝の光の中ではどこか穏やかに見える。


「(うん……大丈夫だよ、きっと)」


珠紀はそっと息を吐いた。

そして布団から身を起こし、立ち上がる。


部屋の隅には、昨夜のうちに運び込まれていた制服と荷物が整えられていた。いつのまに運ばれていたのだろう。


黒を基調とした制服は、一般的な高校制服とは少し違う。


詰襟風の意匠に和装を思わせる飾り紐。

落ち着いた銀色の校章。

袖口には細かな刺繍が施されている。


古風なのに、不思議と洗練されていた。


「……すごい制服」


珠紀は思わず呟く。


まるで昔の学生映画の衣装みたいだ、と思った。


そっと袖を通す。


生地は見た目以上に軽く、身体へ自然に馴染んだ。


最後に校章を胸元へ留める。


鏡代わりの古い姿見へ視線を向けると、そこには見慣れない自分が映っていた。


怪異研究学園の制服を纏った、獬豸殿の寮長。


「(まだ実感は湧かない……けど)」


けれど昨日までの自分とは、確かに少し違って見えた。


珠紀は鏡の前で小さく拳を握る。


怖さは消えていない。


監査役なんて大役が務まるとも思えない。


怪異についてだって、まだ何一つ理解できていない。


それでも。


「……よし」


小さく息を吸う。


「やってみる」


その言葉は、昨日よりほんの少しだけ強かった。


窓の外では朝風が吹き抜け、黒牡丹が静かに揺れる。


まるで、新しい始まりを祝福するように。


珠紀は部屋の襖を開けた。


古い廊下へ朝の光が差し込み、獬豸殿の静かな空気を照らしている。


「(怪異研究学園も、監査役も、獬豸殿のことだって)」


何もかも未知の世界だ。


けれど、ここから先で出会うもの全てが、きっと自分の未来を変えていく。


珠紀は静かに歩き出す。


その一歩が、より良い自分の未来を作ると信じて。

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