第二章:獬豸殿と監査の役割
重厚な木製の扉が静かに閉まる音が、学園長室に響いた。
珠紀は思わず背筋を伸ばす。部屋の中は古い紙と香の混じった匂いで満たされていた。壁一面を埋め尽くす書棚には、分厚い和綴じの本や見たこともない装丁の書物が並び、机の上には万年筆が置かれていた。
そして、部屋の中央に立つ人物――梅鶯桃華は、珠紀をじっと見つめ微笑んでいた。
「面白いですねぇ。冥利くんから話は聞いていたけれど、想像以上です」
「……え?」
珠紀は戸惑った声を漏らす。桃華は小柄で、年齢も自分とそう変わらないように見える。艶のある髪に整った顔立ち。だが、その瞳だけは不思議な威圧感を宿していた。
「警戒しなくていいですよ。私は怖い人じゃないですからね?」
桃華は笑うと、椅子へ腰掛けた。
冥利が、咳払いをする。
「学園長。本題を」
「そうでした」
桃華は机に頬杖をつき、珠紀を見た。
その瞬間、部屋の空気が変わる。
「九条珠紀くん。君は『記憶の蕾』の影響を受けなかった。まず、それ自体が異常です」
珠紀は思わず唇を噛んだ。桃華は静かに続ける。
「『記憶の蕾』は精神干渉型の怪道具。本来、一般人に対して極めて高い効果を発揮します。簡単な記憶処理なら一瞬で終わるほどに」
「記憶……処理……?」
珠紀の顔が青ざめる。冥利が使った道具は、そんなものだったのか。
「危害を加えるものじゃないですよ」
桃華は軽い口調で言うが、内容は軽くない。
「怪異に遭遇した一般人は、記憶処理して日常へ帰す。それが方針ですから」
珠紀は言葉を失った。
自分は本来ならここへ来ることなく日常に戻され、何も知らずに生きていたのだろうか。
「でも、君には効かなかった」
桃華の目が細まる。言葉に、珠紀の胸がざわついた。
「……私は、どうなるんですか」
気づけば、そう零していた。
「安心してください。閉じ込めたり解剖したりはしないので」
「か、解剖!?」
「冗談ですよ」
くすくすと笑う桃華に、珠紀は不安になる。すると冥利が呆れたように口を開いた。
「警戒されるような言い方をしないでください」
「だって本当のこと言うともっと怖がるでしょ?」
「え……?」
だが桃華はすぐに、真面目な表情へ戻った。
「九条珠紀くん。君には、しばらくこの学園で過ごしてもらいます」
静かな声だが、有無を言わせぬ力があった。
「君自身を守るためでもあるし――」
桃華はそこで一度言葉を切る。
そして微笑んだ。
「この学園を守るためでもある」
「しかし本当に珍しいですねぇ……」
桃華は感心したように呟く。
「『記憶の蕾』だけでなく、境界の狭間でも精神汚染を受けていない。普通なら、とっくに正気を失っていてもおかしくないんですが」
「精神……汚染……?」
珠紀は思わず顔を引きつらせた。
「怪異は、人の精神へ干渉する存在が多いんです。幻覚を見せたり、記憶を書き換えたり。だから怪道具にも精神干渉系が多い」
桃華は机の引き出しから小さな紙片を取り出した。札のようなそれには、黒い墨で複雑な紋様が描かれている。
「これは簡易的な催眠札。普通の人に使えば、一時的に眠らせるくらいはできます」
桃華が指先で札を軽く弾く。
次の瞬間、珠紀の目の前で紙片が淡く光った。
だが――何も起きない。
「……え?」
眠気も違和感も、一切感じない。桃華は楽しそうに口角を上げる。
「ほら、効かない」
冥利も壁際で腕を組みながら、小さく息を吐いた。
「予想以上だな……」
珠紀は困惑して二人を見る。
「ま、待ってください。効かないって言われても……」
「でしょうねぇ」
桃華はあっさり頷いた。
「でも事実です。君は怪異から“干渉されにくい”。それは、とても重要な意味を持つ」
桃華は頬杖をついたまま、少し声の調子を落とした。
「学園には、怪異や怪道具を扱う生徒が大勢いる。当然、事故や暴走も起こる。中には、記憶操作や認識改変を悪用する子もいるんです。証拠を消したり、自分に都合の良い記録を残したりね」
部屋の中で、桃華の目だけが妙に冷たく見えた。
「だから必要なんです。“影響を受けない人間”が」
言葉が、自分へ向けられていると理解する。
「君には、学園の『監査』になってもらいます。簡単に言えば、怪道具や怪異利用の不正を監視する役目。公平な立場から、生徒たちを見てもらいます」
「む、無理です!」
珠紀は反射的に声を上げた。
「急に言われても……! そもそも怪異とかもよく分かってないのに!」
「普通はそうなりますよね」
桃華は頷いた。
「でもね、九条珠紀くん。君はもう“普通”じゃいられない」
珠紀は息を呑む。帰宅途中だったはずの日常は、もう遠い場所へ消えてしまった気がした。
「とはいえ、いきなり全部やれなんて言わないですよ。まずは学園に慣れてもらいます。住む場所も用意してありますしね」
「……住む場所?」
桃華は満面の笑みを浮かべる。
「ようこそ、怪異研究学園へ。九条珠紀くん――今日から君は、ここの生徒だ」
「さて、ここからが本当に大事な話です」
その言葉に、珠紀は嫌な予感を覚えた。
桃華は一枚の書類を抜き取り、珠紀の方へ向ける。そこには『獬豸殿』という文字が記されていた。
「君には新設寮――獬豸殿の寮長になってもらいます」
「……え?」
間の抜けた声が漏れるが、桃華は気にせず続けた。
「獬豸殿は監査専門の独立寮です。他の寮から干渉を受けない、中立を保つ場所」
「いや、今日来たばかりの人間が寮長なんて!」
珠紀は慌てて声を上げた。
「そう思いますよね」
桃華は頷く。だが、その顔はまるで最初から反論を想定していたようだった。
「でも獬豸殿に必要なのは、経験や戦闘能力じゃない。“公平であること”です。監査役は、生徒の怪道具使用などを確認する役目を持つ。時には規律違反を暴くこともあるし、寮同士の問題へ介入することもある」
つまり、学園中から嫌われる可能性がある役目。
「楽な役目ではないです。監査は誰かの味方になりすぎても駄目だし、逆に敵を作ることも多い」
「そんなの……尚更私には無理です」
珠紀は俯いた。自分に、そんな役割が務まるとは到底思えない。
「だけど君だけは、“改竄されない目”を持っている」
改竄されない。
つまり、誰かが嘘を作っても、外部からの影響を受けない珠紀だけは、真実を見られるのだ。
確かに、珠紀にしかできない役割。
珠紀は無意識に、書類へ視線を落とす。
「……でも、急すぎます」
かろうじて絞り出した声に、桃華は悪戯っぽく笑う。
「安心してください。もう転校手続きは終わってます」
珠紀の思考が停止した。
「…………はい?」
「戸籍関係、学籍移動、保護者連絡、住居手配、全部済ませてますよ。うちの事務は優秀ですねぇ」
「待ってください! 私まだ何も了承してませんよね!?」
「問題はないですから」
「そういう話じゃなくて!」
冥利が横で深いため息をつく。
「学園長、毎回強引すぎるんですよ……」
「だって説明してる間に逃げられたら困りますし」
さらりと言い切る桃華に、珠紀は頭を抱えたくなった。
「怖いですか?」
その問いに、珠紀は言葉を失った。
怖い。
当たり前だ。
突然知らない世界へ連れて来られ、怪異だの監査だのと言われ、気づけば転校まで決まっている。
不安しかない。
そんな珠紀を見て、桃華は静かに言う。
「でもね、九条珠紀くん。君のその力は、学園に必要になる」
その声音は、先ほどまでの軽薄さが嘘のように真剣だった。
学園長室を出る頃には、外はすっかり夕闇に包まれ始めていた。
赤かった空は群青へと変わり、吊るされた灯籠がぽつぽつと淡い光を灯し始める。昼間には美しく見えた学園の風景も、夜が近づくにつれて不気味さを帯びていた。
珠紀は冥利の後ろを歩き、小さく息を吐く。
頭の中は混乱したままだ。
怪異研究学園。
監査役。
獬豸殿。
転校。
現実感が薄く、夢の中のようだ。
「……本当に、ここで暮らすんですか」
零した声に、冥利は振り返らないまま答える。
「しばらくはね」
その短い返答だけで会話が終わる。静寂が二人の間へ落ちた。
やがて、人気の少ない道へ。
「……遠いんですね」
「獬豸殿は独立寮だからな。他の寮から距離を置いて建てられている」
冥利の横顔は、僅かな複雑さが滲んでいるようにも見えた。
しばらく歩いた先で、冥利が足を止めた。
「着いた」
珠紀はゆっくり顔を上げる。
そこにあったのは、古い怪談に出てきそうな建物。
黒漆塗りの柱に深く張り出した瓦屋根。長い年月を感じさせる木造建築。その美しさは既に朽ち始めている。
「……ここに住むの?」
声が震えてしまった。冥利は静かに頷く。
「長い間閉鎖されてたんだ。獬豸殿が再設立されることになって、最低限だけ整備された」
“最低限”。その言葉に、珠紀は不安しか覚えなかった。
冥利は引き戸へ手をかける。
ぎぃ、と鈍い音を立てながら扉が開いた。
中は外以上に静まり返っていた。
誰かが住んでいる気配は、ほとんど無い。
「……ほんとに寮なんですよね、ここ」
「一応ね」
冥利は靴を脱ぎ、そのまま廊下を歩き始める。珠紀も慌てて後を追った。
歩くたび、床板がみしりと軋む。
「部屋は空いてる場所を使えばいい。元々人数が少ない寮だからね」
「少ないって……今は何人いるんですか?」
珠紀の問いに、冥利は少し沈黙した。
「今は君だけだ」
「……え?」
珠紀は思わず立ち止まった。冥利は振り返る。
「獬豸殿の寮生は居なかった。だから君が最初の入寮者になる」
珠紀は思わず周囲を見回した。
ここで、一人。
その現実が急に重くのしかかってくる。
「……無理かも」
小さく漏れた本音に、冥利は少しだけ目を細めた。
「慣れるさ」
無責任な言い方だが、その声音は僅かに柔らかい。
「まずは自分の部屋を決めるといい。荷物も後で届くはずだ」
そう言って冥利は廊下の先を示した。
珠紀は不安を抱えたまま、静まり返った獬豸殿の奥へと足を踏み入れていく。
冥利と別れた後、珠紀は一人、獬豸殿の廊下を歩いていた。
建物の内部は静かだった。むしろ、静かすぎる。
廊下の天井には、古びた照明が等間隔に吊るされている。だが電灯の光は弱く、ぼんやりとした橙色の明かりが床を照らしているだけ。
その淡い光が揺れるたび、影がゆらりと歪む。
珠紀は思わず、足を止めた。
「……気のせい、だよね」
小さく呟く。だが返事はない。
聞こえるのは、自分の足音と、どこからか吹き込む風の音だけ。
ひゅう、と細い風切り音が廊下の奥から流れてくる。
障子の隙間でも空いているのだろうか。それとも――。
珠紀は慌てて考えを振り払った。
こんな場所に来たせいで、少し神経質になっているだけだ。
けれど床板がぎしり、ぎしりと軋む音を立てるたび、不安はむしろ大きくなっていった。
廊下の途中には閉ざされた部屋がいくつも並んでいる。
どの部屋も長い間使われていないのか、薄く埃が積もっていた。
珠紀は無意識に歩く速度を速めた。
やがて、廊下の突き当たりへ辿り着く。
襖を開けると、室内は驚くほど質素だった。
板張りの部屋に、木製の机が一つ、古い本棚が一つ、クローゼットが一つ。
それだけ。
「……本当にここで暮らすんだ」
ぽつりと呟いた声が、静かな部屋に溶けていく。
生活感の無い空間は、どこか仮住まいのようにも見えた。
珠紀はゆっくり部屋へ上がる。
その時だった。
不意に、窓の外で何かが揺れた。
珠紀はびくりと肩を震わせ、反射的に窓へ視線を向ける。
そこには、一面に黒牡丹が咲いていた。
月明かりを浴びた花々は、夜の闇に溶け込むように黒く深い色をしている。
風が吹くたび、花弁が静かに揺れる。
その光景は恐ろしいほど美しかった。
珠紀は思わず窓辺へ近づく。
庭に広がる黒牡丹は、まるで誰かが意図して植えたかのように整然と並んでいた。
白い月光の中で、黒い花々だけが妖しく浮かび上がっている。
そして。
――ざわ。
風が吹いた瞬間、
花々が一斉に揺れた。
珠紀は息を呑む。
ほんの一瞬だけ。
花たちが、何かを囁いたように聞こえた。
「……っ」
思わず窓から身を引く。
心臓が早鐘のように鳴っていた。
気のせいだ。そう思いたいのに。
「(すごく……怖い)」
こんな古い建物に一人。無理はない。
今までとは全く違う世界へ来てしまったのだと、珠紀は改めて実感する。
窓の外では、黒牡丹が静かに揺れていた。
まるで、この寮そのものが珠紀を見つめているかのように。
夜は、思っていた以上に静かだった。
珠紀は布団へ横になったまま、ぼんやりと天井を見つめていた。
古びた木造の天井板には小さな染みがいくつも浮かび、月明かりが障子越しに淡く差し込んでいる。部屋の隅は薄暗く、静寂が重たく沈殿していた。
時計の音すら聞こえない。
その静けさが、逆に珠紀の不安を際立たせていた。
――ひゅう。
どこか遠くで風が鳴る。
古い建物の隙間を抜けているのだろうか。
時折、廊下の奥から木が軋むような音も聞こえてくる。
ぎし……。みし……。
まるで誰かが歩いているようにも聞こえて、珠紀は思わず布団を握りしめた。
「……気のせい、気のせい……」
小さく呟く。
だが、その声すら部屋へ吸い込まれていくようだった。
珠紀はそっと寝返りを打つ。
窓の外では、黒牡丹が月明かりの中で静かに揺れていた。
花弁が風に揺れるたび、
誰かが囁いているような錯覚を覚えてしまう。
珠紀は慌てて視線を逸らし、布団を胸元まで引き上げた。
目を閉じても、今日の出来事ばかりが頭を巡る。
どれも、自分とは無関係だったはずの言葉だ。
なのに今、自分はその世界の中にいる。
「……なんで、私なんだろ」
ぽつりと漏れた声は、弱々しかった。
自分は特別な人間ではない。
勉強も普通。
運動も普通。
特別な才能なんて何一つ無い。
それなのに突然、「怪異に干渉されない」などと言われても、実感なんて湧くはずがなかった。
珠紀はぎゅっと拳を握る。
思い浮かぶのは、家族の顔だった。
いつもの食卓。
何気ない会話。
学校帰りの友人との時間。
昨日までは、それが当たり前だった。
明日も続くと信じていた。
なのに今は、知らない場所で、一人きりで、得体の知れない環境に囲まれている。
胸の奥が、じわりと痛んだ。
「(……帰りたい)」
その言葉が、喉元まで込み上げる。
だが同時に、桃華の言葉も思い出した。
――もう“普通”じゃいられない。
珠紀はゆっくり目を開ける。
障子越しの月光が、ぼんやり部屋を照らしていた。
視界が、じんわりと滲む。小さく鼻をすすり、目元をそっと拭った。
逃げたいと思う。
怖いとも思う。
それでも、もう元の日常には戻れない。
転校手続きは終わっている。きっと、もう元の学校には戻れない。
自分は既に、怪異研究学園の生徒なのだ。
その現実だけが、嫌になるほどはっきりしていた。
「……やるしか、ないのかな」
ただ夜風だけが静かに吹き込み、窓の外で黒牡丹を揺らしていた。
障子越しに差し込む月明かりが、静かな部屋を淡く照らしていた。
珠紀はゆっくりと起き上がり、じっと窓の外を見つめる。目が冴えてしまって、全く眠れなかった。
「(私は……いつから“異常”だったんだろう)」
1番の疑問はそれだ。
そもそもなぜ、自身は“境界の狭間”なんて場所に入り込んでしまったのだろうか。
「(私の“異常”は、他の怪異学園の人たちと……どう違うのかな)」
“珍しい体質”と言われていた。
一体、どれくらい珍しい体質なのだろうか。
全く、自分のことが分からない。
珠紀はそっと息を吐く。
怖くないわけではない。
むしろ、怖いことだらけだった。
怪異が存在する世界。
生徒たちを見張る監査という役割。
精神干渉が効かない自身の体質。
突然の寮長への就任。
どれも、自分とは無縁だった世界の話だ。
今日一日だけで、人生が丸ごと別のものへ変わってしまったような感覚がある。
それでも。
「……やるしか、ないよね」
小さく呟く。
その声はまだ弱々しかったが、先ほどより少しだけ芯があった。
逃げたい気持ちは消えていない。
家へ帰りたいとも思う。
けれど、もう戻れないのだと理解してしまった。
なら――前へ進むしかない。
珠紀はゆっくり息を吐き、拳を握る。
自分には特別な力なんて無いと思っていた。
だが桃華は言った。
“怪異に干渉されない”特別な体質。
その体質は、この学園に必要なものだと。
もし本当に、自分にしかできない役割があるのなら。
もしその力で、誰かを助けたり、何かを守れたりするのなら。
少しくらいは、この場所にいる意味があるのかもしれない。
珠紀は再び窓の外を見る。
月光の中で揺れる黒牡丹は、夜の海のように静かだった。
ここは奇妙な場所だ。
美しくて、不気味で。
けれど同時に、どこか惹きつけられるものもある。
怪異研究学園。
この場所で、自分は何を知るのだろう。
まだ分からない。
それでも、胸の奥には小さな熱が生まれ始めていた。
不安だけではない。
ほんの僅かな期待。
「(……もう寝なきゃ)」
眠れる気はしなかったが、目を閉じてじっとしてるだけでもいいだろう。
古い天井を見上げながら、ゆっくり目を閉じた。
廊下は静かだ。
先ほど聞こえた物音も、今はもうしない。
「……おやすみなさい」
誰に言うでもなく、珠紀は小さく呟く。
その声は、広い獬豸殿の静寂へ溶けていった。
月明かりの下、黒牡丹が静かに揺れている。
まるで、新しい住人を迎え入れるように。
障子越しの淡い陽射しは昨夜の不気味な空気を薄め、静かな温もりを獬豸殿へ運んでくる。
「ん……」
九条珠紀は薄く目を開けた。
しばらくぼんやり天井を見つめる。
「どこ、ここ……」
古びた木目。
静かな部屋。
遠くから聞こえる鳥の声。
「……そうだ」
そこでようやく、自分が怪異研究学園にいるのだと思い出した。
「……夢じゃ、ないんだ」
小さく呟きながら、珠紀はゆっくり身体を起こす。朝の薄い光が、部屋を僅かに明るくしていた。
昨夜感じていた恐怖は、まだ胸の奥に残っている。けれど不思議と、少しだけ落ち着いていた。
窓の外を見る。
朝露を受けた黒牡丹が静かに揺れていた。
夜には妖しく見えた花々も、朝の光の中ではどこか穏やかに見える。
「(うん……大丈夫だよ、きっと)」
珠紀はそっと息を吐いた。
そして布団から身を起こし、立ち上がる。
部屋の隅には、昨夜のうちに運び込まれていた制服と荷物が整えられていた。いつのまに運ばれていたのだろう。
黒を基調とした制服は、一般的な高校制服とは少し違う。
詰襟風の意匠に和装を思わせる飾り紐。
落ち着いた銀色の校章。
袖口には細かな刺繍が施されている。
古風なのに、不思議と洗練されていた。
「……すごい制服」
珠紀は思わず呟く。
まるで昔の学生映画の衣装みたいだ、と思った。
そっと袖を通す。
生地は見た目以上に軽く、身体へ自然に馴染んだ。
最後に校章を胸元へ留める。
鏡代わりの古い姿見へ視線を向けると、そこには見慣れない自分が映っていた。
怪異研究学園の制服を纏った、獬豸殿の寮長。
「(まだ実感は湧かない……けど)」
けれど昨日までの自分とは、確かに少し違って見えた。
珠紀は鏡の前で小さく拳を握る。
怖さは消えていない。
監査役なんて大役が務まるとも思えない。
怪異についてだって、まだ何一つ理解できていない。
それでも。
「……よし」
小さく息を吸う。
「やってみる」
その言葉は、昨日よりほんの少しだけ強かった。
窓の外では朝風が吹き抜け、黒牡丹が静かに揺れる。
まるで、新しい始まりを祝福するように。
珠紀は部屋の襖を開けた。
古い廊下へ朝の光が差し込み、獬豸殿の静かな空気を照らしている。
「(怪異研究学園も、監査役も、獬豸殿のことだって)」
何もかも未知の世界だ。
けれど、ここから先で出会うもの全てが、きっと自分の未来を変えていく。
珠紀は静かに歩き出す。
その一歩が、より良い自分の未来を作ると信じて。




