第2話:断絶の深淵 〜偽りの聖女と、天秤に刻まれし害意の記録〜
夜明け前の帝都ルテティアは、死者を送る儀式のように冷え切っていた。
地下牢から引きずり出されたヴァレリアの身体には、昨夜の鎖よりもさらに重く、分厚い魔導手枷と足枷が嵌められていた。十年間、太陽の光を浴びたことのない皮膚は外気に触れただけで針で刺されたように粟立ち、痩せこけた足首には鉄の冷たさが骨まで食い込む。
一歩歩くごとに、重い鉄輪が擦れ合い、ジャラリと鈍い金属音を響かせた。
前後に並ぶのは、白銀の甲冑を纏った帝国近衛騎士団の威容。だが、彼らが守っているのは護衛対象ではなく、ただの使い古された「生贄」の逃走を防ぐためだけの警戒線だった。
「歩け、穢らわしい魔女め。貴様のような汚物に、陛下の敷石を踏ませることすらおぞましいわ」
背後から容赦のない罵声と共に、槍の柄で背中を小突かれる。
ヴァレリアはよろめき、乾いた唇を小さく噛み締めた。
足の裏は破れ、石畳に赤い足跡を点々と残していく。だが、彼女の視線は決して足元に落ちることはなかった。濁った薄明かりの空を睨み据える紫紺の瞳は、まるでこれから処刑される罪人ではなく、戦場へと赴く指揮官のように静まり返っている。
連行された先は、帝都の西端、切り立った黒い断崖の上であった。
――名を『断絶の深淵』。
帝国の創世神話において、原初の神々が悪神を封じ込めるために大地を裂いて造ったとされる、底知れぬ亀裂。
崖の下には紫がかったドス黒い濃霧が渦巻き、吹き上がってくる突風は氷のように冷たく、この世のものとは思えない怪異の呻き声を含んでいた。覗き込めば、どれほど強靭な精神を持つ戦士であっても三秒と正気を保てぬと言われる、絶対死の奈落。
ガルディニア帝国において、この深淵は「国家を揺るがす最大の国賊」を葬るための最終処刑場として使われてきた。
だが、その断崖の周囲を取り囲んでいたのは、厳粛な処刑の静寂などではなかった。
「出たぞ! 魔女だ!」
「偽聖女を殺せ! 帝都を穢した大罪人に死を!」
「私たちの暮らしが苦しかったのは、全部あいつのせいだったんだ!」
大歓声と罵詈雑言の嵐が、崖の上に設営された観覧席から雪崩のように押し寄せていた。
集まっていたのは、着飾った貴族たちだけではない。帝都中から呼び集められた数千、数万の平民たちが、興奮に顔を上気させ、広場を埋め尽くしていたのだ。
彼らの手には、腐った果物や泥炭、尖った石ころが握られていた。
バシャリ、と腐臭を放つトマトがヴァレリアの胸元に命中し、酸えた果汁が灰色の衣を汚す。
続いて、拳大の硬い石が彼女の額を掠め、一筋の紅い血が白磁の頬を伝い落ちた。
「ひと思いに突き落とせ!」
「新しき聖女様に栄光あれ! 魔女に天誅を!」
狂乱する民衆の叫びを、ヴァレリアは冷ややかに聞き流していた。
彼らは知らないのだ。
今、手の中で弄んでいるその石を投げつけている相手こそが、自分たちが飢え死にもせず、疫病で内臓を吐き出すこともなく平穏に暮らすために、十年間この地下で骨を削り、血を流し続けてきた唯一の防壁であったことを。
彼らが口にする「豊かで美しいガルディニア」などという幻想は、すべてこのヴァレリアが飲み込み続けてきた毒の上に咲いた、毒花に過ぎないということを。
「……愚かですこと」
額から流れる血を拭うこともせず、ヴァレリアは小さく呟いた。
彼女の魂の奥底で、何かがカチリと音を立てる。
それは感情の揺らぎではない。世界を律する絶対の理――【因果】の針が、民衆から浴びせられる純度百パーセントの「無知と害意」を、正確無比な質量として計測し始めた感覚だった。
「おや、まだ口を利く余裕がおありのようですわね、お姉様?」
鈴を転がすような、甘ったるく愛らしい声が、騒音を縫って響いた。
崖の中央、一段高く設営された白絹と黄金の天幕から、一人の少女が軽やかに歩み出てくる。
波打つ柔らかな黄金の巻き髪に、小鹿のように無垢な青い瞳。純白の神聖布で仕立てられた豪奢なドレスを纏い、胸元には大粒の魔力石をあしらった聖杖を抱えている。
――新聖女、マリアベル・ローラン。
彼女が一歩前へ進むたびに、足元から柔らかな金色の燐光が立ち上り、周囲の空気を温める。
その光景に、広場の民衆は熱狂的な叫び声を上げた。
「聖女様! マリアベル様だ!」
「ああ、なんと神々しく慈愛に満ちたお姿か……!」
「あの薄汚い魔女とは大違いだ!」
マリアベルは群衆に向けて胸の前で手を組み、聖母のような笑みを振りまいて小さく会釈した。
そして、手枷を嵌められて立ち尽くすヴァレリアの元へと、優雅に歩み寄る。
「可哀想なお姉様……。十年間も薄暗い地下で、魔女の呪いに魂を蝕まれていらしたのね。でも、もう大丈夫ですわ。貴女が犯した数々の大罪も、我がガルディニアを脅かした穢れも、このマリアベルが放つ光の奇跡で、すべて洗い清めてご覧に入れます」
芝居がかった潤んだ瞳でヴァレリアを見つめ、大声で語りかけるマリアベル。
群衆はその慈悲深さに涙し、歓声をさらに一段引き上げる。
だが――マリアベルがヴァレリアのすぐ眼前まで歩み寄り、その耳元に顔を寄せた瞬間、その表情は一変した。
可憐な光の聖女の仮面が剥がれ落ち、そこにあったのは、下卑た嘲笑と底知れぬ強欲に満ちた、一匹の雌狐の素顔だった。
「――ねえ、どんなお気持ちかしら? ヴァレリアお姉様」
群衆の歓声にかき消される微小な囁き。
だが、その声に含まれる悪意の密度は、地下牢のヘドロよりもドス黒かった。
「十年間、地下でネズミみたいに震えて国を支えてきた気になっていたんでしょうけれど……無駄骨でしたわね。貴女が積み上げてきた聖女としての功績も、公爵令嬢としての名誉も、そしてユースティス殿下の寵愛も――ぜぇんぶ、私のものよ」
マリアベルはヴァレリアの耳朶に舌なめずりせんばかりに息を吹きかけ、嘲笑を深める。
「貴女の顔、見た目だけは昔から無駄に綺麗だったらしいけれど、今じゃ見る影もないわ。カサカサの肌に、ドブ色の服。ユースティス様が仰っていたわよ。『あの女の顔を見るだけで反吐が出る、早く奈落へ蹴り落としてくれ』って。ふふっ、哀れな生贄。私の輝かしい未来の踏み台になれて、光栄に思いなさいな?」
至近距離から浴びせられる、純粋な加害の快楽に濡れた言葉。
だが、ヴァレリアの紫紺の瞳は、微塵も揺らがなかった。
恐怖も、怒りも、絶望すら浮かばない。ただ冷徹に、目の前の女の魂の輪郭を観察するように見つめ返し、淡々と応じる。
「……身の丈に合わない光など振り回すものではありませんわよ、マリアベル。器のない者が大衆を煽れば、その熱狂はやがて自らを焼き尽くす薪となるだけですのに」
「な……ッ!?」
死を目前にした人間から返ってきたとは思えない冷徹な指摘に、マリアベルの眉が不快そうに跳ね上がった。勝ち誇るはずの自分が、まるで路傍の羽虫を見るような目で見下ろされたのだ。
「口の減らないドブネズミめ……! 後悔しなさい、暗黒の底で四肢を千切られながらね!」
マリアベルが忌々しげに後退し、天幕の影へと退いた。
入れ替わるようにして、重厚な軍靴の足音を響かせ、一人の巨漢が歩み出てくる。
近衛騎士長ボリス。
身の丈二メートルを超す熊のような体躯に、漆黒のプレートアーマーを着込んだ帝国屈指の豪傑。かつては公爵家の恩恵を受けながら、風向きが変わるや否やユースティスとマリアベルに擦り寄り、ヴァレリアを地下牢から引きずり出す先頭に立った男である。
「無駄口を叩くな、大罪人!」
ボリスの獰猛な咆哮と共に、鋼鉄の爪先を備えた重厚な軍靴が、ヴァレリアの背後から振り抜かれた。
――ドゴォッ!!
鈍く重い破壊音が、断崖の上に響き渡る。
ボリスの容赦のない蹴りが、ヴァレリアの右膝の裏関節を真後ろから正確に撃ち抜いたのだ。
メキリ、と関節の軟骨が悲鳴を上げ、耐え難い激痛が走る。すでに限界まで摩耗していた細い脚は体重を支えきれず、ヴァレリアの身体は前のめりに崩れ落ち、尖った岩肌の上に両膝を叩きつけられた。
「ぐっ……ッ」
「跪け! 殿下の御前であるぞ!」
ボリスは下卑た嗤いを浮かべ、跪いたヴァレリアの後頭部を手甲でさらに踏み躙ろうと圧力をかける。
砕け散るかのような膝の痛みに、視界が白く明滅した。
だが――その痛覚が走ったコンマ一秒の後。
ヴァレリアの神経系を駆け巡ったのは、激痛だけではなかった。
――加害対象:近衛騎士長ボリス。
――加害部位:右膝関節、および全身の骨格支持部。
――悪意の純度:保身、媚態、無抵抗な者への肉体的暴力。
声なき世界の記録が、不可視の刻印としてボリスの魂へ突き刺さるのを、ヴァレリアは確かに知覚した。
まだ能力は解放されていない。だが、魂の器が割れる寸前、その『秤』はすでに、加害者の命数を正確に天秤の皿へと載せていた。
「見苦しいぞ、ヴァレリア」
優雅な足取りで、第一皇太子ユースティスが断崖の際へと進み出てきた。
彼は白銀の長剣を腰から抜き放ち、その切っ先を地面に這いつくばるヴァレリアの喉元へと突きつける。群衆は息を呑み、静まり返った。劇的な処刑のクライマックスを、固唾を呑んで見守っている。
「これが帝国の意思だ。お前の存在そのものが、我がガルディニアの繁栄に対する反逆なのだよ」
ユースティスは冷酷に微笑み、観覧席の民衆に向けて剣を高々と掲げた。
「我が帝国の同胞たちよ! 今ここに、十年の長きにわたり国を蝕み続けた悪しき魔女を排し、真なる聖女マリアベルの光のもと、新たな黄金時代を切り拓くことを宣言する!」
『うおおおおおおおおっ!!』
『ユースティス殿下万歳! 聖女マリアベル様万歳!!』
地響きのような大歓声が、天を衝く。
何万人もの熱狂。正義の名の下に行われる、一人の無実の少女に対する集団虐殺の祝祭。
その熱狂を背中に浴びながら、ユースティスはヴァレリアを見下ろし、剣を納めた。
「手柄をくれて感謝するぞ、ドブネズミ。お前の死は、我が戴冠のための最高の敷物となった」
ユースティスが右足を引いた。
その軍靴の裏が、無抵抗に倒れ伏すヴァレリアの背中の中央――背骨の真上へと向けられる。
「失せろ、帝国の汚物め!」
――ドカァッ!!
無慈悲な衝撃が、ヴァレリアの背中を直撃した。
肺の中の空気がすべて強制的に吐き出され、肋骨がきしむ音が体内に響く。
蹴り出されたヴァレリアの身体は、断崖の縁を滑り落ち、重力に引かれて虚空へと放り出された。
――加害対象:第一皇太子ユースティス。
――加害部位:背部中枢、および国家指導者としての絶対背信。
――悪意の純度:完全なる搾取、恩義の破棄、自己顕示のための虐殺。
浮遊感が、全身を包み込む。
視界がぐるりと反転した。
遠ざかっていく断崖の頂上。
そこには、互いに寄り添い合い、勝ち誇った笑みを浮かべて見下ろすユースティスとマリアベルの姿があった。
膝をへし折ったボリスが胸を張り、数万の民衆が拳を振り上げて歓喜の叫びを上げている。
抜けるような青空と、燦々と降り注ぐ陽光。
その美しすぎる世界の中で、自分一人だけが、切り捨てられたゴミのように暗黒の穴へと落ちていく。
「…………」
ヴァレリアは、叫ばなかった。
手を伸ばして助けを求めることもしなかった。
ただ、その冷徹な紫紺の瞳に、崖の上に立つ者たちの顔を、一人残らず、その魂の形に至るまで焼き付けていた。
(……しっかりと、焼き付けましたわ)
ゴオオオオッ、と耳を劈く烈風が鼓膜を打つ。
時速百キロ、二百キロ、三百キロ――落下速度は加速度的に跳ね上がり、吹き荒れる風圧が擦り切れた衣服を剥ぎ取り、皮膚を切り裂く。
見上げる崖の上は瞬く間に針の穴のように小さくなり、周囲を包み込んだのは、大地の底から立ち上るドス黒い瘴気の濁流だった。
光が消える。
温もりが消える。
待っているのは、数千メートルの落下の果てに待つ、岩盤への激突。
肉体はミンチのように砕け散り、骨は粉々になり、血反吐を撒き散らして生命活動を停止する――それは物理法則が定めた、絶対にして不可避の「死」の結末。
心臓が、最後の痙攣を起こしかけた。
血流が止まり、脳細胞への酸素供給が途絶え、意識が暗黒の彼方へと融解していく寸前。
――ゴォォン……。
どこからともなく、音が響いた。
それは風の音でも、岩の軋みでもない。
遥かなる太古の深淵から響き渡るような、重厚で、冷徹で、世界の基幹を揺るがす巨大な青銅の響き。
――ギギギ、と。
ヴァレリアの魂の最奥で、巨大な【天秤】が傾き、軋む音が鳴り響いた。
十年間、溜まりに溜まった国家規模の怨嗟。
身代わりとして吸い尽くした何百万トンもの瘴気。
そして今、頭上から浴びせられた、裏切りと暴力と嘲笑のすべて。
器は満ちた。
死の確定という最後の鍵が、冷酷な音を立てて回る。
――原初固有能力【因果の天秤】。
――絶対反転の臨界点を検知。
激突まで、あと数秒。
暗黒の虚空のただ中で、死に瀕していたヴァレリアの唇が、ふわりと、この世で最も残酷で美しい弧を描いた。




