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第1話:汚泥の底の十年間

ガルディニア帝国大聖堂の地下深く、外光の一筋すら届かぬ最深部に、その場所は存在する。

名を『封呪の石牢』という。

かつて古代の狂王が神殿の地下に穿ったとされるその牢獄は、壁面一面に刻まれた無数の抑止呪符が青黒い燐光を放ち、天井からは絶えず氷のように冷たい地下水が滴り落ちていた。

空気は鉛のように重く、鼻腔を突くのは腐臭と錆びた鉄、そして大地の底から噴き出す霊的毒素――『黒瘴気』の焦げた匂いである。常人であれば五分と呼吸を保てず、肺を爛れさせて発狂するであろう致死の猛毒が、この狭隘な石牢の中には濃密に渦巻いていた。


その部屋の中央。

冷たい黒曜石の台座に、一人の女が縫い留められていた。


ヴァレリア・フォン・アルトハイム。

帝国筆頭貴族であるアルトハイム公爵家の長女であり、帝国の歴史において忌み名として記録される『身代わりの聖女』。

彼女の四肢には、大人の手首ほどもある太い黒鉄の鎖が巻き付けられていた。鎖の一端は石壁の核石に直結し、帝国全土の魔導炉から排出される莫大な穢れ、呪詛、民衆の怨嗟、大地脈の歪みといった負のエネルギーが、絶え間なく彼女の肉体へと流し込まれている。

ドクン、ドクン、と鎖が脈打つたびに、ヴァレリアの細い血管が青黒く浮き上がった。

骨を万力で砕かれ、内臓を針で掻き回されるような激痛が、二十四時間、三百六十五日、一秒の途切れもなく彼女を苛み続ける。


身に纏うのは、擦り切れて泥と血に汚れた灰色の貫頭衣が一枚のみ。

かつて豪奢な公爵邸で黄金の輝きを湛えていたはずの黒髪は、手入れもされず枯れ枝のようにパサつき、乱雑に床へと広がっている。白磁を誇った肌はひび割れ、瘴気の侵食によって青ざめ、生気を失っていた。

十歳でこの地下牢に押し込められてから、十年間。

ヴァレリアは、光を知らない。

帝都の華やかな貴族たちが舞踏会で美酒に酔いしれ、貧民街の者たちが温かなパンを分け合っている間、その繁栄と安寧のすべては、この地下で一人、泥水を啜りながら苦痛に喘ぐ少女の犠牲の上に成り立っていた。


「……ふぅ……ッ、……」


ひび割れた唇から、熱い吐息が零れ落ちる。

激痛はとっくに感覚の閾値を超え、脳を焼き切る寸前で麻痺していた。普通ならばとっくに精神が崩壊し、狂人となって自らの舌を噛み切っているはずの歳月。

だが、ヴァレリアの紫紺の瞳だけは、死んでいなかった。

泥濘の底に沈められ、人間としての尊厳のすべてを剥ぎ取られながらも、彼女の冷徹な知性は、暗闇の中で研ぎ澄まされた氷の刃のように澄み渡っていた。

彼女は数えていたのだ。

天井から落ちる水滴の数を。

鎖を通じて流れ込んでくる帝国の穢れの波長を。

そして、自分をこの地獄へと売り飛ばした者たちの顔と、彼らが積み重ねていく罪の重さを。


カツン、カツン、と。

静寂を破り、重厚な石段を降りてくる硬い靴音が響いた。


それは一人ではない。二人。

一つは若く、気取り腐った軽薄な足取り。もう一つは、老獪で重々しい、権力者特有の足取り。

結界を施された三重の鉄扉が、重苦しい軋み音を立てて開け放たれる。外の廊下から差し込んできた魔導灯の白い光が、ヴァレリアの濁った視界を容赦なく射抜いた。

まぶしさにわずかに目を細めたヴァレリアの前に、二人の男の姿が浮かび上がる。


先頭に立つのは、金の刺繍が施された豪奢な白銀の軍服を纏った若者。

整った顔立ちに酷薄な嘲笑を貼り付けたその男は、ガルディニア帝国第一皇太子であり、かつてヴァレリアの婚約者であったユースティスだった。彼は石牢に足を踏み入れるなり、あからさまに眉をひそめ、白檀の香油を染み込ませた絹の扇子で鼻と口を覆った。

まるで、肥溜めに迷い込んだ高貴な白鳥気取りである。


その背後に控えているのは、厳格そうな髭を蓄え、黒漆の正装を着込んだ中年の男。

アルトハイム公爵ハインリヒ。ヴァレリアの実の父親であり、十年前、彼女の手を引いてこの石牢の台座へと縛り付けた張本人であった。


「……相変わらず、吐き気を催す悪臭だな」


ユースティスが、さも汚らわしいものを見る目でヴァレリアを見下ろした。

その青い瞳には、かつて幼少期に交わした言葉や、婚約者としての情愛など欠片も存在しない。あるのはただ、路傍の汚物に対する純粋な嫌悪と侮蔑だけだった。


「十年間もこの泥溜めに漬かっていれば、人間としての形すら保てぬか。見ろ、ハインリヒ公。これがかつて我が妃にと望まれた女の成れの果てだ。貴公の娘とはいえ、もはや豚のほうがまだ愛嬌があるぞ」


「……殿下の仰る通りにございます。我が血筋からこのような怪物を生み出してしまったこと、一族の長として恥じ入るばかりにございます」


ハインリヒは冷淡極まる声音で頭を下げた。

実の娘が、骨と皮ばかりに痩せ衰え、鎖に繋がれて血を流している姿を見ても、その眉一つ動かない。彼にとってヴァレリアは、アルトハイム公爵家が帝室から莫大な補助金と領地、そして免税特権を引き出すための「便利な生贄」に過ぎなかったのだ。


ヴァレリアはゆっくりと顎を上げ、掠れた声で唇を開いた。


「……何の、御用ですの……殿下。……お父様」


十年ぶりの発声は、喉が擦り切れるように痛んだ。

だが、その声音には卑屈な響きも、命乞いの気配も一切混ざっていなかった。淡々と、事実だけを確認するような平坦さ。

それが、ユースティスの傲慢な自尊心を逆撫でしたらしい。皇太子は舌打ちを鳴らすと、手元に持っていた分厚い羊皮紙の束を、ヴァレリアの無防備な顔面目掛けて無造作に投げつけた。


バサリ、と硬い紙の束がヴァレリアの頬を打ち、冷たい石畳の上に散らばる。


「貴様のような薄汚いドブネズミに、聖女を名乗る資格などないということだ」


ユースティスは冷酷に言い放ち、手袋を嵌めた指先で羊皮紙の文面を指し示した。


「帝室および大聖堂最高司教会の連名による正式決定通達だ。第一条、ヴァレリア・フォン・アルトハイムと第一皇太子ユースティスとの婚約を破棄する。第二条、帝国の聖女位を永久に剥奪。――そして第三条、貴様を『帝国の魔導炉を穢し、国家に呪詛を撒き散らさんとした大逆の魔女』として断罪し、明日未明をもって死刑に処す」


死刑。

その言葉が、狭い石牢の中に冷たく反響した。

十年間、帝国のすべての穢れを肩代わりし、彼らの繁栄の基礎をその身で支え続けてきた人間に対する、国家からの返礼がそれであった。


「……大逆の、魔女……?」


ヴァレリアは、足元に落ちた羊皮紙を見下ろした。

そこには、彼女が魔導炉に邪悪な呪術を仕掛け、帝都に瘴気を呼び寄せた首謀者であるという、噴飯ものの捏造事実が整然とした公用文でびっしりと書き連ねられていた。


「馬鹿げた言いがかりですわね。……私がこの身を差し出さなければ、帝都ルテティアはとっくの昔に瘴気の海に沈み、腐敗の都と化していましたのに」


「黙れ、ドブネズミが!」


ユースティスが激高し、軍靴の踵で石畳を激しく踏み鳴らした。


「貴様のその恩着せがましい物言いが反吐が出るのだ! 貴様が地下で鎖に繋がれていたから国が保たれていたなどという戯言を、いつまで本気で信じている? 貴様はただ、呪詛を吸い寄せるだけの忌まわしい体質を持った化け物に過ぎぬ!」


ユースティスは胸を張り、陶酔しきった笑みを浮かべた。


「時代は変わったのだ、ヴァレリア。真の奇跡を持つ天上の乙女が、我がガルディニアに降臨された。――マリアベル・ローラン男爵令嬢。彼女こそが、神が遣わした真なる『光の聖女』だ!」


マリアベル。

ここ数ヶ月、牢番たちの下品な雑談の中から漏れ聞こえていた名だった。

愛嬌のある可憐な容姿と、柔らかな金髪。触れた者の傷を癒やし、眩い光を放つ奇跡の乙女。民衆を甘い言葉で煽り、貴族たちの懐に入り込み、今や社交界の頂点に君臨しているという男爵家の娘。


「マリアベルの放つ神聖な光は、瞬く間に人々の病を癒やし、都を清めてくださる」

ユースティスは恍惚とした瞳で語り続ける。

「彼女の愛らしい笑顔と清らかな祈りこそが、民の求める真の聖女の姿だ。それに引き換え、貴様はどうだ? 薄暗い地下牢に引きこもり、血と泥に塗れ、怨嗟の顔をして鎖に繋がれているだけの化け物。帝国の神聖なる歴史に、貴様のような醜悪な存在は汚点でしかないのだよ!」


ハインリヒ公爵もまた、冷酷に追従した。


「すでにアルトハイム公爵家の籍からも、貴様の名は除籍してある。我が家には次女のクロティルデがいる。クロティルデはマリアベル様とも懇意であり、近々、新たな公爵令嬢として社交界に華々しく披露される予定だ。……貴様のような穢れた出来損ないは、我が家の歴史から完全に抹消されねばならんのだ」


親子の縁すら、紙切れ一枚で切り捨てられた。

十年間、ヴァレリアが吸い上げ続けた苦痛の対価として、公爵家が得た広大な領地と利権。それらを手中に収めた今、用済みとなった長女は、ただ処分されるべき邪魔なゴミ屑でしかないというわけだ。


ヴァレリアは、感情の波を一切見せることなく、静かに問うた。


「……理解していらっしゃらないようですわね、お父様。そして、ユースティス殿下」


「何だと?」


「私がこの結界を出れば、十年間この身に封じ込めてきた帝国全土の呪縛の防壁が消滅いたします。帝都の地下水脈に溜まった毒も、魔導炉が吐き出す黒瘴気も、抑え手を失って地表へと逆流を始めますわ。……貴方たちの仰るその『新しい聖女様』に、国家規模の穢れを相殺するだけの質量がおありだと、本気でお思いなのですか?」


ヴァレリアの指摘は、極めて論理的で、冷徹な現実認識に基づいていた。

マリアベルの持つ『光』など、所詮は表面的な治癒魔法の変種に過ぎない。水槽に溜まった数万トンのヘドロを前にして、水面に香水を一滴垂らしたところで何の意味もないのと同じことだ。


だが、その正論は、傲慢に目を曇らせた愚者たちの耳には届かなかった。


「ははははっ! 滑稽だな、負け犬の遠吠えとはこのことか!」

ユースティスは腹を抱えて嘲笑した。

「まだ自分の存在に価値があると思い込んでいるのか? マリアベルの奇跡の光があれば、貴様の泥臭い人柱など最初から不要だったのだ! 貴様が苦しげな顔をして吸い込んでいた程度の毒など、マリアベルの神聖魔法にかかれば一瞬で霧散するわ!」


ユースティスは扇子を畳むと、その先端でヴァレリアの額を乱暴に突いた。


「安心しろ、ヴァレリア。貴様には最後の役目を与えてやる。――帝都の果て、『断絶の深淵(アビス・クレバス)』。あそこに貴様を生贄として投げ落とし、マリアベルの聖女戴冠式の祝祭を彩る見世物にしてやる。大逆の魔女が奈落の底へ消え失せ、新しき光の聖女が国を照らす……実に美しい筋書きではないか!」


「……深淵、ですか」


「そうだ。底なしの暗黒へ堕ち、己の無能と醜悪さを呪いながら砕け散るがいい。貴様のようなドブネズミには、お似合いの墓場だ!」


ユースティスは満足げに唾を吐き捨てると、踵を返した。

「行くぞ、ハインリヒ公。こんな悪臭の満ちる場所にこれ以上長居すれば、服に貧民の穢れが移ってしまう」

「はっ、殿下」


公爵は一度たりとも娘の顔を振り返ることなく、皇太子の背後に従った。

重厚な鉄扉が再び閉じられ、ガチャン、と重い閂が下りる。

足音が遠ざかり、地下牢には再び、完全な闇と静寂が戻ってきた。


ぽた、ぽた、と水滴が落ちる音。

そして、鎖を通してヴァレリアの骨肉を焼き続ける、帝国中の呪詛の軋み音。


石畳の上に散らばる羊皮紙の破片。

十年間、自分が守り続けてきた祖国。

血を分けた実の家族。

かつて愛を語り合った婚約者。

それらすべてが、自分をただの「使い捨ての汚物」として切り捨てた。


――けれど。


「……ふふ」


闇の中、小さな笑い声が漏れた。

それは絶望の叫びでも、悲痛な慟哭でもなかった。

凍てつくように冷たく、狂気に濡れ、どこまでも研ぎ澄まされた、美しい女の笑い声。


ヴァレリアは、ひび割れた自らの指先を見つめた。

鎖を通して流れ込んでくる黒瘴気。十年間にわたって彼女の魂の器に注ぎ込まれ、限界まで圧縮され、沈殿し続けてきた、国家規模の悪意と怨嗟の奔流。


「……マリアベルの光があれば、不要、でしたかしら」


ヴァレリアの紫紺の瞳の奥で、小さな、だが決して消えることのない冷酷な燐光が灯った。それは十年間、一度たりとも宿ることのなかった、絶対の捕食者としての輝き。


「ええ……分かりましたわ、ユースティス。お父様。――わたくしを捨てたこと、せいぜい後悔なさらないことですこと」


彼女はゆっくりと目を閉じる。

自らの魂の深淵で、何かが軋みを上げて回転を始めているのを、彼女の研ぎ澄まされた理知は確かに感知していた。

それはまだ目覚めてはいない。

だが、臨界点は近い。

彼らが望む通り、深淵の底へ落ちてやろうではないか。


――そして、すべてが反転するその瞬間を、静かに待つとしよう。

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