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プライベートカウンセラー  作者: Ohtori
第17章「ゲーム開発ディレクター・宇佐美翔太(32歳)」
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第85話「自分の名前で、立つ」

週明けの月曜日。春の陽差しが東京の街にやわらかく降り注ぎ、丸の内のホテルラウンジにはいつになく明るい空気が満ちていた。

香坂美月は、テーブルに一輪の花が飾られた席で、いつものように落ち着いた所作でクライアントを待っていた。


今日で、北川美優のカウンセリングは一区切り。すでに辞職届を提出し、地元での活動も始まっている。これまでの一歩一歩を振り返りながら、今の美優がどんな心境でこの場に来るのか──美月は静かに想像していた。


そこへ、美優が姿を現した。淡いグリーンのブラウスにベージュのジャケット。以前よりも軽やかで、肩の力が抜けた印象を与えていた。


「おはようございます、美月さん。今日で一旦、最後ですね」


「おはようございます。美優さん、お顔に迷いがありませんね」


「そうですね……この2ヶ月、怒涛でした。地元の支援者と何度も話し合い、政策勉強会もすでに3回。SNSは少しずつフォロワーが増えて、反応もあって。昨日なんて、初めて“応援しています”ってDMが届きました」


「それは素晴らしいことですね。誰かの言葉が、美優さんの“名前”に届いたということですから」


「はい……ようやく、“私自身の声”が誰かに届き始めたんだと実感しています」


そう言って、美優はカバンから一枚の紙を取り出した。A4サイズの、控えめなフォントで綴られた文章。


「これは、今後の私の政治活動の核になるメッセージです。香坂さんと一緒に作った200字から発展させたものです」


美月は紙を手に取り、目を通した。そこには、こう記されていた。


「制度の狭間で声を上げられない人々の代弁者でありたい。政治が遠いと感じている人にこそ届く言葉を、自分の言葉で届けたい。裏方として社会を支えてきた15年の経験を、これからは“表”で活かしたい。私は、私の名前で立ちます。」


読み終えた美月は、目を上げた。


「……美優さん、もう何も迷うことはないですね。これは、あなたが選んだ“自分の人生の旗”です」


「はい。選挙に出るかどうかは、まだ最終決定ではありません。でも、私はもう、戻らないと思います。“誰かのため”に生きることは素晴らしい。でも、私は今、自分の信じる言葉で誰かに届くことを選びたいんです」


「それができるのは、美優さんが長い時間をかけて“自分の言葉”を育ててきたからです」


「香坂さんがいなかったら、きっと私は今も“違和感を覚えたままの日常”を続けていたと思います。ここで、あの時、迷いを言葉にできたことが、本当に大きかったです」


「私がしたのは、少しだけ背中を押しただけです。歩いたのは、美優さん自身です」


そう言いながら、美月は封筒を取り出した。いつものように、控えめな文字で「領収書在中」と記されている。


「こちら、5回分のカウンセリング料金です。ご確認ください」


美優は微笑みながら受け取り、封筒を開いて中身に目を通した。すると、目を止めたまま、首をかしげた。


「……“議員秘書ご卒業記念・特別割引適用”……?」


「最後の1回分だけ、少しおまけしました。これまで、ずっと社会のために尽くしてきた感謝の気持ちです」


美優は、ほんの少しだけ目を潤ませた。


「……ずるいですね、香坂さん。こういうときだけ優しいんだから」


「時々ですよ。滅多にありません」


二人は静かに笑い合った。


「この領収書、額に入れて部屋に飾ろうかな。“ここから、始まった”っていう記念に」


「それ、いいアイデアですね。いつか、本当に立候補されるときには、ぜひ原稿料代わりに取材させてください」


「そのときは、“香坂さんが背中を押したおかげです”って、ちゃんと言いますから」


ラウンジの窓の外では、桜の蕾がほころび始めていた。

風はまだ冷たいが、確かに春が近づいている。


北川美優の新しい人生は、“誰かの言葉”ではなく、

“自分の名前”で始まろうとしていた。

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