第5話「名前のないエンディング」
日曜の午後、いつもの丸の内のホテルラウンジ。
春の兆しを感じさせる陽光がガラス越しに降り注ぎ、テーブルの上に置かれた白磁のティーカップに淡い光を反射させていた。
香坂美月が静かにノートを開いていると、時間ぴったりに宇佐美翔太が姿を見せた。彼の顔つきは、初回のカウンセリングの頃とはまるで違っていた。目の奥には、穏やかで確かな光が宿っている。
「こんにちは、美月さん。今日で最後ですね」
「はい、ようこそ。お顔がずいぶん晴れやかですね」
宇佐美は席に着くと、バッグからノートパソコンと紙の資料を取り出した。
「前回お伝えした、教育NPOとのテスト導入……実施できました。10人規模の子どもたちが実際にプレイしてくれて、いくつか印象的な反応ももらえたので、まとめてきました」
美月が目を細めて、うなずく。
「それはすごい前進ですね。ぜひ、お聞かせください」
宇佐美はPCを開き、何枚かのスライドを見せながら話し始めた。
「一番嬉しかったのは、ある小学3年生の子が“このゲームやってたら、心が落ち着く”って言ってくれたことでした。彼、普段はすぐにパニックになるらしくて。でもゲームの“呼吸モジュール”を繰り返すことで、自分で落ち着く方法を見つけられたそうです」
「それは本当に素晴らしいですね。“届いた”という感覚が、何よりの成果です」
「はい、正直言って、数字にはならないかもしれない。でも、僕はこれをやって良かったって心から思えたんです」
彼の言葉には、作り手としての確信と、自信が混ざっていた。
「このプロジェクトには、僕の名前は出ていません。チーム名だけ。でも、それでいいと思ってます。むしろ、そこにこそ本当の自由を感じています」
「“名前のない場所”で、自分を取り戻したんですね」
「はい。だから、ディレクターという肩書きも一旦降りました。今の会社とは、相談して“開発アドバイザー”という形で関わるようにしています。表舞台から少し離れた立ち位置で、自分の作りたいものに集中できる環境を整えました」
「勇気のある決断でしたね」
「怖かったですよ、もちろん。でも、あの時、逃げずに自分と向き合って良かった。カウンセリングがなければ、今もあの会議室で、心のない企画書を量産してたと思います」
宇佐美は小さく笑った後、美月に一枚の封筒を差し出した。
「今日の分も含めた、5回分のカウンセリング料金です。正直に言うと……金額だけを見たら、安くはない。でも、ここで過ごした時間がなかったら、僕の人生は何一つ動かなかったと思います。だから、これは“自己投資”として、過去一でリターンの大きい出費でした」
美月は微笑みながら受け取り、封筒をテーブルの上にそっと置いた。
「ありがとうございます。私としても、宇佐美さんのようなクリエイターの“再起動”に関われたことは、非常に光栄です」
宇佐美はふと視線を窓の外にやり、遠くを見つめながら口を開いた。
「最近、“将来どうするのか”って聞かれても、焦らずに答えられるようになったんです。“まだ模索中だけど、自分の心に正直な選択をしてる”って。それが、今の自分の誇りです」
「それで十分です。未来は、定義するものではなく、育てるものですから」
彼はしばらく沈黙し、そして笑った。
「……美月さん。実は、ずっと聞いてみたかったことがあるんですけど、いいですか?」
「なんでしょう?」
「この仕事って、感情を受け止め続けるし、毎回“相手の人生”に深く関わるでしょう? ご自身が疲れてしまうことってないんですか?」
美月は一瞬だけ目を細め、そしてゆっくりと答えた。
「ありますよ。もちろん。でも、私は誰かの“変わろうとする瞬間”が好きなんです。そこに立ち会えるだけで、救われる感覚があります。私は、実務の世界で人と向き合うことが好きなんです」
宇佐美は頷き、カップに残った紅茶を一口飲んだ。
「……なるほど。そういうところも含めて、やっぱりプロですね」
彼は立ち上がり、カバンを肩にかけた。
「本当に、ありがとうございました。今後、このプロジェクトが形になったら……いずれ、子どもたち向けのイベントに招待します。もちろん、名前なしの裏口VIPで」
美月はクスッと笑った。
「楽しみにしています。そのときは、名前のない主人公が活躍するゲーム、ぜひプレイさせてください」
二人は軽く頭を下げ合い、それぞれの新しい道へと歩み始めた。
名前に頼らず、数字に縛られず、心に正直に。
宇佐美翔太の人生は、ようやく“自分の名前のないエンディング”から、新しい章を始めようとしていた。




