第1話「キャリアの終わりか、始まりか」
都心のホテルラウンジ。夕暮れ時の穏やかな光が窓から差し込み、落ち着いた雰囲気が広がっている。香坂美月は、目の前に座る佐伯和彦の表情を観察していた。
佐伯和彦、50歳。大学病院での勤務を経て、現在は民間病院の診療部長として働くベテラン医師だ。スーツ姿はきちんとしているが、どこか疲れた様子があり、その目には迷いが見えた。
「初めまして、香坂美月です。本日はよろしくお願いします。」
「こちらこそ、よろしくお願いします。」
佐伯は少し硬い表情で頷いた。
「では、早速ですが、現在の悩みについてお聞かせいただけますか?」
美月の問いかけに、佐伯はゆっくりとカップを手に取り、深く息を吐いた。
「私は医師として約25年間、この道を歩んできました。これまでのキャリアに誇りはありますが……最近、今後のことを考えるようになりましてね。」
「今後のこと、ですか?」
「ええ。若い頃は、ただひたすら目の前の患者を救うことに全力を尽くしてきました。でも、50歳を迎えて、このまま定年まで同じように働き続けるのが本当に自分の望む道なのか、考え始めたんです。」
佐伯はコーヒーを一口飲み、少し苦笑した。
「最近は、医療業界も変わってきました。AI診断、遠隔医療、働き方改革……私が医師になった頃とは、まるで違う世界です。今の若い医師たちは、私たちとは異なる価値観で仕事をしている。でも、だからこそ、彼らに何かを残せるのではないかとも思うのです。」
「なるほど。後進の育成に興味をお持ちなのですね?」
「はい。しかし、それをどのような形で実現すればいいのかが分からない。医療現場で働き続けるべきか、それとも教育に軸足を移すべきか……自分がどこで一番価値を発揮できるのか、見極められずにいます。」
美月は静かに頷きながら、メモを取り、ゆっくりと口を開いた。
「佐伯さんのような経験豊富な医師が、後進の育成に関わることは、非常に意義のあることですね。ただ、重要なのは、『ご自身がどのような形で関わることに最も充実感を感じるか』ではないでしょうか?」
佐伯は少し考え込んだ。
「充実感、ですか?」
「ええ。たとえば、病院の指導医として若手を育てるのと、大学で講師として医学教育に携わるのとでは、求められる役割が異なります。また、医療の現場から少し離れ、執筆や講演活動を通じて知識を伝えるという選択肢もあります。」
佐伯は眉をひそめながら頷いた。
「確かに……いくつかの選択肢があることは分かっているのですが、それぞれの道を実際に歩むイメージがまだ湧かないんです。」
美月は微笑みながら、テーブルの上の紙に三つの円を描いた。
「佐伯さんのこれまでの経験、興味のある分野、そして価値を発揮できる場所、この三つが交わるポイントを探してみましょう。」
「なるほど……。」
「まず、佐伯さんがこれまで最もやりがいを感じた瞬間は、どんなときでしたか?」
佐伯は少し考えた後、ゆっくりと答えた。
「……若い医師が、私の指導を受けて成長していくのを見たときでしょうか。特に、ある医局の後輩が、最初は自信がなかったのに、私のアドバイスをきっかけに外科医としての腕を磨いていったのを見たときは、本当に嬉しかったですね。」
「では、後進の育成には強い関心があるのですね。」
「はい。でも、現場の仕事と並行してやるのは難しいのも事実です。負担が増えすぎると、自分のキャリアそのものが持続可能でなくなってしまう……。」
美月は再びメモを取りながら、続けた。
「その点を考えると、今の臨床の仕事を少しずつ減らしながら、教育活動を増やすという形が現実的かもしれませんね。」
「それは……あり得る選択かもしれません。」
佐伯は腕を組みながら考え込んだ。
「しかし、私は患者と直接向き合うことにも、まだやりがいを感じています。完全に教育にシフトするのではなく、両方のバランスを取る道がないかも考えたい。」
美月は頷いた。
「そのバランスを取るために、まずは小さなアクションを試してみるのはどうでしょう?たとえば、非常勤講師として医学部の授業を担当する機会を探したり、医療系のカンファレンスで講演をしてみるなど。」
佐伯はしばらく考えた後、ゆっくりと頷いた。
「確かに……。そうすれば、自分が教育にどれだけ適性があるのか、無理なく試すことができますね。」
「そうですね。そして、次回までに、具体的にどのような機会があるのかをリサーチしてみましょう。病院の内部で教育活動を増やす方法があるのか、あるいは学外での指導の場を見つけられるのか。それを整理した上で、次のステップを考えていきましょう。」
佐伯は大きく頷いた。
「分かりました。やってみます。」
美月は静かに微笑みながら、カップを手に取った。
「佐伯さんにとって、これはキャリアの終わりではなく、新たな始まりかもしれませんね。」
佐伯は少し驚いたように顔を上げたが、その表情はどこか穏やかになっていた。
「……そうかもしれません。少しずつでも、新しい道を模索してみます。」
こうして、佐伯は次のステップに向けて、一歩を踏み出した。
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