第2話「自分の価値を見つめ直す」
都心のホテルラウンジ。午後の光が柔らかく差し込む中、香坂美月はコーヒーカップを手に取りながら、目の前の中島彩子を見つめた。彼女は前回よりも少しだけ落ち着いた表情をしているが、その目にはまだ迷いが残っているようだった。
「こんにちは、彩子さん。」
「こんにちは、美月さん。」
彩子はカップに手を伸ばし、小さく息を吐いた。
「前回の課題だった案件リストの整理、やってみました。」
美月は微笑みながら、ゆっくりと頷いた。
「どんな気づきがありましたか?」
「思った以上に、単価の低い案件が多かったです。それに、長年付き合いがあるクライアントでも、安い金額のまま更新されている案件がいくつかありました。」
「なるほど。それに気づけたのは大きな進歩ですね。今まで、単価交渉はしたことがありましたか?」
彩子は少し戸惑ったように首を振った。
「正直に言うと、ほとんどしたことがありません。長く付き合っているクライアントだと、『このままの単価でお願いしたい』と言われることが多くて、なんとなく受け入れてしまっていました。」
美月は静かに頷いた。
「それは、フリーランスの方によくある状況ですね。でも、彩子さんのスキルと経験を考えれば、適正な価格で仕事をすることは当然の権利でもあります。」
彩子は少し考え込みながら、手元のノートを開いた。
「それで、思い切って二つのクライアントに単価交渉をしてみたんです。」
美月は少し前のめりになり、興味深そうに尋ねた。
「どうでしたか?」
「一社はすぐに了承してくれて、単価を10%上げてもらえました。でも、もう一社は『これ以上は難しい』と言われてしまいました。」
「なるほど。交渉の結果としては、半々といったところですね。」
「はい。でも……単価交渉をしたこと自体が、私にとっては大きな挑戦でした。今までは、『安くても仕事があるだけありがたい』と思っていたので、交渉しようという発想すらなかったんです。」
美月は満足そうに微笑んだ。
「それは素晴らしい変化ですね。フリーランスにとって、自分の価値をしっかり伝えることはとても大切なスキルです。そして、もう一つ考えてほしいのは、『交渉に応じなかったクライアントとの関係をどうするか』です。」
彩子は少し考え込みながら、静かに言った。
「今のまま続けるべきか、少し迷っています。低単価のままだと、やっぱり時間を取られるし……。」
「では、一度冷静に整理してみましょう。」
美月は手元のメモに、三つの視点を書いた。
1. そのクライアントとの関係は今後も続ける価値があるか?
2. その時間を、より高単価の仕事に使うことで収入が増える可能性はあるか?
3. クライアントの言い分は、単なるコスト削減なのか、それとも本当に予算の限界なのか?
「この三つの視点で考えてみると、どうでしょう?」
彩子はしばらく考えた後、ゆっくりと答えた。
「正直、今の低単価の仕事を続けるより、少しずつ高単価のクライアントとの関係を深めた方がいい気がします。でも、完全に切るのは怖い……。」
「それは自然な気持ちですね。では、一気に手放すのではなく、少しずつ調整していくのはどうでしょう?」
「調整、ですか?」
「たとえば、そのクライアントとの仕事を少しずつ減らして、並行して新しい高単価のクライアントを探す期間を作るんです。そうすれば、リスクを抑えながら、徐々に仕事の質を上げていけます。」
彩子はしばらく考え、やがて頷いた。
「確かに、それなら安心して進められそうです。」
美月は微笑みながら、次の質問を投げかけた。
「では、次の課題として、新しい高単価クライアントをどう獲得するかについて考えてみましょう。」
「それが一番難しいんですよね……。今のクライアントは、ほぼ紹介で増えてきたので、自分から営業したことがなくて。」
「なるほど。でも、彩子さんのスキルがあれば、適正な単価で新しい仕事を獲得することは十分可能ですよ。」
美月は、いくつかの戦略を提案した。
1.ポートフォリオの整理
過去の実績を明確にし、どの分野の翻訳が得意かを強調する。
2.既存クライアントからの紹介強化
現在単価を上げてくれたクライアントに、他のクライアントを紹介してもらう。
3.新しいプラットフォームの活用
海外の翻訳者向けのプラットフォームや、高単価案件が出やすいサイトを活用する。
4.SNSでの発信
自身の翻訳に関する考えや実績を発信し、クライアントに興味を持ってもらう。
「この中で、彩子さんがすぐに取り組めそうなものはありますか?」
彩子は少し考えた後、答えた。
「ポートフォリオの整理なら、すぐにできそうです。あと、既存クライアントに紹介をお願いするのも、今ならできるかもしれません。」
「それはいいですね。次回までに、ポートフォリオを整理して、紹介を依頼する準備をしてみましょう。」
「分かりました。やってみます。」
彩子の表情は、最初よりも明るくなっていた。
「少しずつですが、仕事の仕方を見直せそうな気がします。」
「ええ。焦らず、一歩ずつ進んでいきましょう。」
美月は穏やかに微笑みながら、カップを置いた。
彩子は深く息を吸い、静かに笑った。
「ありがとうございます。次回までに、しっかり準備を進めます。」
彼女は、新しい働き方に向けて、また一歩前進する決意を固めていた。




