吉野宮滝(1)
春の日差しが眩しい。遠く吉野山の山桜の白い色が新緑の中で輝いている。吉野川の清流を見ていると心が洗われるようだと沙羅羅姫は思った。吉野を神仙峡に見たてて吉野の宮を造営したのは祖母の斉明女帝であった。桃源郷とは、このような地であるのかも知れない。川の流れの水底まで澄んで見える。美しい。
今日も草壁と忍壁を連れて春菜摘みに出てきた。水辺の芹や道端の蒲公英、草壁は足を濡らすのが苦手のようで蒲公英を専門に採っている。早いもので、もう十才になる。先程から忍壁とふざけ合っていた草壁が菜摘に厭きてきたのか沙羅羅のもとへやって来た。
「母君、お腹が空いて来ました。もう戻りましょう。」と草壁は言って、蒲公英の入った笊を差し出した。
「おおこれはこれは、大漁でございますな。」警護役で付いてきている舎人の大分君恵尺が、僅かな笊の中身を見てからかった。
「恵尺には食べさせないよ。」と言って草壁はふくれた。
吉野の宮の前まで来ると、忍壁の帰りを待っていたのか母親の穀媛娘が一才になる泊瀬部皇女を背負って出ていた。
「お帰りなさいませ。」と言う穀媛娘に忍壁が自分の笊を差し出した。
「これはこれは、おひたしにいたしましょうか。それとも粥にいたしましょうか。」と穀媛娘は聞いた。
大海人と一緒に吉野に来た后妃は沙羅羅姫と[木穀]媛娘だけだった。沙羅羅姫の場合は父である天智の帝への反発と意地が大海人について来た理由である。これに対して穀媛娘の場合は大海人に求められ来たのである。身分は低いが、何事もそつなくこなす[木穀]媛娘を見ると嫉妬の気持ちが湧いてくる沙羅羅であった。
[木穀]媛娘は沙羅羅を姫様と呼ぶ。それに対して沙羅羅は[木穀]媛娘を娘殿と呼んだ。身分が違うのである。年は[木穀]媛娘のほうが二つ程上であったが、宍人臣大麻呂という豪族の娘でしかない。それに対して沙羅羅は、先の大君天智の帝の娘であった。天智帝の娘で大海人に嫁いだのは沙羅羅姫だけではない。同母姉の大田皇女それに異母妹の大江皇女と新田部皇女である。
これは祖母の斉明女帝が決めたことであった。斉明の夫である舒明帝の前には蘇我氏の血を引く大君が続いた。蘇我氏の血の入らない大君は斉明や夫の舒明帝の祖父になる敏達帝が最後であった。推古帝の後を舒明帝が継げたのは幸運にも蘇我氏の系列に繋がる山背の大兄の皇子の頑迷さにあった。当時の大臣の蘇我の蝦夷にとって例え聖徳太子の子であり、蘇我の血を引いていると言っても蝦夷にとって制御不能な大君は不用であったのである。
見方を変えるなら遣隋使を発した父聖徳太子を尊敬する山背の皇子は当時の親唐派の先鋒であった。蝦夷は百済との外交を取り仕切る倭国側の窓口としての蘇我氏の利権の喪失を恐れたのである。百済からもたらされる最新の文物は蘇我氏を経由して倭国に振り分けられたのである。舒明帝は百済川のほとりに百済の宮や百済大寺の建設を推進したように蘇我氏の政策の協力者でもあった。皇極もこの路線を継承したから非蘇我系の大君として即位出来たのである。
蘇我の入鹿の山背の大兄の皇子襲撃は、皇極帝の後の皇統を蘇我の本へ取り戻す為の伏線であった。入鹿にとって蘇我の母を持つ古人の大兄が即位すれば、蘇我氏の権力は磐石のものとなる筈であった。
従兄妹でもある舒明帝に嫁ぎ、自らも皇極斉明として即位した老女帝は、自らの皇統が引きつがられていく事を望んだ。
斉明帝は大君家の皇統が臣下である一外戚氏族の専横のために左右されているのを見て、これを防ぐ方法を見つけたのである。大君家の血統の純粋培養であった。吾が子である天智と大海人の皇子女を交互に婚すことで、外から外戚氏族が入ってこないのである。この方法であれば皇統を継ぐのは父方からも母方からも大君に繋がる者の中から選ばれるのである。
天智も大海人もこれに同意した。同意したものの、天智の嬪からは男子が誕生しないのである。唯一、遠智の郎女が生んだ健の皇子は早世してしまった。この他に三人の男子が誕生したが、その母親は婢母と呼ばれる豪族の娘たちだった。