吉野にて(2)
去る10月、兄天智の帝は病重く吾を呼び出して後事を託すと申された。吾は蘇我の安麻呂より「よくよく心してお応えください。」と言われていたから兄はこの期に及んでも謀で吾を試すのかと思った。素直に大友に位を譲りたい。其れにはなれの力を貸して欲しいと何故言えん。吾はほとほと呆れて言った。
「吾は不幸にして、元から多病で、とても国家を保つことはできません。願わくば陛下は、皇后に天下を託して下さい。そして大友皇子を立てて、皇太子としてください。私は今日にも出家して、陛下のため仏事を修行することを望みます。」
言いながら、胸の内から涙が零れた。吾は何の為に、兄を助けてきたのか。しかし、何かが終わって、これで良いのだとも思えた。兄が出家を許すと言った時、正直生き延びたと思った。母の斉明帝が生きておればこうは為らなかった筈だと言う考えもよぎったが、兎に角こんな所に長居は無用だった。大海人は思い出していた。これで良いのだ。
不改常典とは、不改常典と読む。晩年の天智の帝が頻りに口にした言葉である。
律令制と仏教の受容を鮮明に推し進めたのは聖徳太子である。当時の倭国は大陸の中原の隋唐などの国家と較べれば辺境の田舎者でしかなかった。律令制を採用すると言うことは、法治国家となることを意味した。
戦乱の打ち続く中国北朝で考え出された富国強兵策である。法家思想を基にしたもので遠い昔に秦で採用されたものであったが、秦の時代と違うのは口分田の班給である。人民の一家族が食べていけるだけの土地を国家が支給するのである。律とは刑法であり、令とは政令である。帝王も庶民も律令の規定のみに縛られるのである。この制度により、北魏・北周・隋・唐と国名と支配者の変遷を経ながら北朝は遂に中国を統一したのである。
翻って倭国の状況はどうであったのか。当時の倭国では、地方の豪族と畿内の豪族の緩やかな連合の上に大王が推載されているような状況であった。犯罪などの裁きの対応は氏上という氏族の長や地域の豪族の長が対応したが、賂の有無や近親者などへの愛憎などの恣意が入ることがあった。政治については、朝令暮改なども珍しくなかった。結局、法令に拠るのでは無く有力者の判断に任された人治国家なのである。
それでは百姓と呼ばれた農民庶民の生活はどうであったのか。当時の倭国は古代母系制の名残が残っている状態あったから、婚姻形態は男性が女性のもとへ訪れる通い婚が普通であり、生まれた子供は母親のもとで育てられた。家産の相続は、母親の財産は娘が引き継ぎ、父親の財産は息子が引き継いだ。それについても特段の決りは無かったから親の恣意で決められたのである。
家産の無いものについての婚姻は、最初通い婚であるが子供ができると暮らしが立つ方で暮らした。所謂、家子である。奴とも書くが土地を持っている者に寄生して生きていくしか無いのである。奴婢と呼ばれた者たちとは違うが、生産手段としての土地を持たぬ者たちである。家部とか部曲とも呼ばれた。
奴婢と呼ばれた者たちは、戦争や犯罪および借財の返済不能によりその身を落とした者たちであって、官戸や氏上もとで使役され売買の対象でもあった。
聖徳太子に派遣された遣隋使やその後の遣唐使達によりもたらされた先進文化への憧れは当時の皇族や知識人の夢でもあったのである。
大化の改新以来、改革の先頭に立って進んだ天智にとって皇統の安定はもう一つの課題であった。蘇我入鹿暗殺は、古人の大兄の皇位継承だけでなく己の命の不安定さの解消でもあった。入鹿が山背の皇子を襲撃したのを見て、皇位承継の近いところにいた皇子達の恐怖は一人中の大兄の皇子だけでは無かったのである。
不改常典とは、皇位の嫡子相続のことである。父から子へ、子から孫へと皇位が受け継がれて行くということである。中華王朝では既に採用されていることであったが、当時の倭国とは決定的な違いがあった。それは、官僚機構の整備であった。例え幼くして玉座に着こうとも暗愚な主君であったとしても、法令と官僚機構により守られていれば王座は安泰なのである。
庚午年籍や近江令の採用と進んできた天智の理想は、不改常典により完成するのである。入鹿に斬りつけた若き日の思いから二十六年、吾が子大友の皇子へ皇位が引き継がれることにより天智の理想は完結するのであった。大海人も納得してくれる。天智は信じた。大友と十市の子が皇位を継承すれば、吾と大海人の孫ではないか。そう信じたのである。




