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紅い月が叫ぶ夜に  作者: 久遠夏目
第四章 白い月が還る夜に
51/58

07

 月日は流れ、小学校に入学したぼくたちは平和に過ごしていた。彼女とは特に何かあったわけではないけれど、あの出来事以来、彼女がぼくにとって一番近い存在になったのは確かだった。

 だが、平和というのはぼくにとってあまり好ましい状態ではなかった。何故なら、ぼくは血に飢えていた――と言うと吸血鬼みたいだから言い直そう。ぼくは、快楽に飢えていたのだから。もちろん、人を殺すという快楽に。

 初めて人を殺したあの日から、ぼくは誰も殺していない。ぼくもバカではないので、子供である自分にできることなど限られていると知っていた。この近所で殺人をすることなど不可能だし、だからといって遠くに行くこともできない。とてももどかしい状態だった。

 転機が訪れたのは、ぼくが十歳のときだった。その日、ぼくが一人で下校していると、ぼくが進もうとする道の真ん中に、高級そうなスーツを着た男の人が立っていた。年齢は四十代半ばといったところだろうか。

 しかし、知らない人だったので目を合わせないようにうつむき、その横を通り抜けようと道の端に寄ったのだが、そうすることはできなかった。何故なら、その人もぼくと同じ方向に動き、行く手に立ちふさがったからだ。意図的にぼくの前に来た以上、誘拐だとか悪い意味だとしてもぼくに用があるのは明白だ。

 本当に不審者だったらどうしようかと下を向いたままでいると、その人がすっと屈んでぼくの顔をのぞきこんできた。しかも、思いっきり眉間にシワを寄せたぼくを見て、にこ、と穏やかに微笑み、その笑顔とは正反対なことを言い放ったのだ。


「ねえ君、人を殺したくはないかい?」

「……は?」


 反射的に声が漏れる。何を言っているんだ、この人は。小学生に犯罪を持ちかけるなんて――ぼくにとっては願ってもないことだが――、やっぱり不審者だ。これは結構ヤバイ状況ではないだろうか。

 すると、その人はぼくの思考を読んだかのように、笑みを濃くした。


「私は別に怪しい者ではないよ。と言っても信じてもらえないだろうね」

「うん、十分怪しいよ」

「はは、そうだね。ただ、仮に私が怪しい人物だとしても、君に言いたいことは変わらない。私は君の過去を知っている。しかも、真実を、だ」


 ドクン、と心臓が跳ね上がる。ぼくの過去は、あのとき関わった警察の人間と施設の先生しか知らない。だけど、それだって父親による無理心中という「偽り」の過去だ。

 それなのに、この人は「真実」を知っていると言った。それはつまり――


「君が両親を殺したんだろう?」


 凪のように穏やかな声で、いとも簡単に「真実」を言い当ててしまった彼に、ぼくの鼓動も静かになった。それは、停止したと言ってもいいかもしれない。

 しかし、すぐに冷静になろうと努めると、一つの疑問が浮かんだ。数分前に出会ったばかりのこの人が、何故それを知っているんだ?

 ――ああ、そんなことはどうでもいいか。ぼくは昔から面倒くさいことが嫌いだった。無駄だと思うことには執着しない。だから、もうそんなことは考えない。「真実」を知られてしまったことに変わりはないのだから。

 そう割り切ってしまうと、自然と笑みがこぼれてきた。


「だったら、何? そんなの、脅しに使う価値もないよ?」

「ああ、もちろん世間に公表する気はないし、君を脅すつもりもない。だけど、『彼女』に教えたら、どうなるかな?」


 その言葉を聞いた瞬間、『誰か』の笑顔が頭をよぎり、目の前にある穏やかな笑顔に、少しの恐怖と心の底からの殺意を覚えた。


「それは脅しじゃないの?」

「はは、今のは冗談だよ。そんなにこわいカオをしなくても、君の大切な彼女に教えるつもりなどない。私はただ、君に力を貸してほしいだけなんだ」

「力……?」

「そう。言っただろう? 『人を殺したくはないかい?』とね」

「それ、どういう意味?」

「君は人を殺すという快楽を求めている。私なら、その快楽を提供してあげられるということさ」

「どうやって?」


 そう尋ねたぼくは、すでに彼の誘惑の罠にはまっていたのかもしれない。彼は満足そうににこりと笑うと、説明し始めた。

 彼はとある犯罪組織のボスで、その仕事の一つとして殺し屋のようなこともやっているらしい。そして、そのための人材をさがしているのだが、そこでどういうわけかぼくに目をつけ、話しかけたということだった。本当にそんな組織があるのか疑わしいことこの上なかったが、ぼくはその一員になるわけではなく、あくまで助っ人のような存在だということで、とりあえず一回やってみることにした。

 そのためにぼくは施設に戻り、友人の家に泊まるということで外泊許可を得た。そのとき、彼がその友人の父親だと偽って紹介し、その家に電話をかけさせないよう念を押すのも忘れずに。

 移動の車に揺られている間、ぼくは体中の血が疼くのを感じた。これは、母親を殺そうとしたときと同じ感覚だ。ぼくの身体が、ぼくの本能が、殺人という快楽を求めている。


「着いたよ。ナイフは持ったかな? 私が相手の気を引いておくから、あとは君が考えて、君のすきなようにすればいい」


 とんでもないことを言っているにもかかわらず、彼はやはりどこまでも穏やかな笑みを浮かべていた。さすが犯罪組織のボスというだけあって、一般人とは感覚が違うのかもしれない。

 しかし、ぼくはそれをおかしいとは思わなかった。だって、ぼくもこの人と同じ、なのだから。

 ターゲットに会うと、彼はぼくを自分の息子だと紹介した。ターゲットは一瞬怪訝そうなカオをしたが、すぐに笑顔――もちろんニセモノだ――を浮かべると、屈んでぼくに目線を合わせ、頭をわしゃわしゃとなでた。


「お父さんとは仲良くさせてもらっているよ。よろしくな」

「はい、よろしくお願いします。いえ、違いますね。――サヨウナラ」

「え? ……っ!?」


 どす、という突然の衝撃に驚いたターゲットがゆるゆると視線を下げれば、そこにあったのはぼくがその人の腹部に突き刺したナイフ、だった。

 ぼくはそれを引き抜き、もう一度刺した。

 そして、また刺す。刺す、刺す。

 そのたびに舞う紅い血を見て、ぼくは快楽に浸った。もっと、血が見たい。もっと、この快楽を味わいたい。

 やがて、ターゲットは動かなくなり、口からひゅーひゅーというか細い息が聞こえるだけになった。すると、少し離れたところからぼくを見ていた彼がこちらへ来て、すっと何かを差し出してきた。それは、テレビや映画の中でしか見たことのない黒い武器――拳銃だった。


「さあ、これでとどめを刺すといい」


 ぼくは銃と彼を交互に見たあと、ぼくの足下で倒れて虫の息になっているターゲットを一瞥し、嗤った。


「いらない。もうこの人は助からないんだから、死ぬまで最高の苦しみを味わえばいいさ」


 そう告げると、彼は初めて驚いたような表情を見せたが、すぐにまたにこ、と微笑んで、


「君は期待以上だよ」


 と言った。

 この日から、ぼくの快楽に溺れる日々が始まったのだった。




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