第一話 私は、ポンコツだったのですね
「レイリーン、お前との婚約を破棄する!」
王城の大広間に、王太子アルベルトの声が響いた。
シャンデリアの灯りの下、集まった貴族たちの視線が一斉にレイリーン・フォン・ヴァイセンベルクに突き刺さる。彼女は淡いブルーのドレスの裾を握りしめ、まっすぐにアルベルトを見つめた。
「……理由をお聞かせいただけますか、殿下」
「理由だと?お前が一番よく分かっているはずだ」
アルベルトの隣には、蜂蜜色の髪を揺らす男爵令嬢フィオナが寄り添っていた。彼女はレイリーンを見て、悲しげに、しかしどこか勝ち誇ったような目をした。
「レイリーン様は……いつも書類を取り違え、社交界での挨拶の順番を間違え、外交行事では他国の使者に失礼な発言をなさいました。フィオナ、何度もお助けしようとしたのですが」
「あぁ!可愛いフィオナ、君は本当によくやってくれていた!それなのに、お前はよくもそんな……」
「殿下。私は第一王女殿下の外交顧問として、この三年間、隣国との通商条約改定に尽力してまいりました。あの条約案は――」
「もういい」
アルベルトは苛立たしげに手を振った。
「お前のような、何をやらせても失敗するポンコツに、この国の未来は任せられない。フィオナのような、優しく気配りのできる女性こそが、次代の王妃にふさわしい」
会場がどよめいた。ポンコツ、という言葉が、レイリーンの心に深く突き刺さる。
「……私は、ポンコツだったのですね……」
「だったではない!誰がどう見てもポンコツだ!」
「……分かりました」
レイリーンは左手から婚約指輪を抜いた。指が震え、なかなか外れない。ようやく抜けた指輪を、アルベルトの前へ差し出した。
「承知いたしました。婚約指輪をお返しいたします」
アルベルトが受け取る。
長い間はめていた指には、くっきりと跡が残っていた。
「これまで、お世話になりました」
レイリーンは静かに一礼した。
「婚約破棄、謹んでお受けいたします。今までお世話になりました」
悔しさで手が震えていたが、涙は見せなかった。ここで泣けば、また笑われる。
唇を噛み、背を向けて歩き出す彼女に、フィオナの小さな笑い声が聞こえた気がした。
その夜、レイリーンは実家であるヴァイセンベルク侯爵邸ではなく、王都の外れにある小さな別邸に身を寄せていた。
婚約破棄の噂はすでに国中に広まり、侯爵家にも累が及ぶことを恐れた父から「しばらく身を隠していなさい」と言われたのだ。
窓の外を眺めながら、レイリーンはこれまでのことを思い返していた。
「……今日も明日も、どう過ごせば良いのかしら……」
コンコン、と扉を叩く音がした。
「レイリーン様、お客様です」
玄関に向かうと、そこには白髪の初老の男性――彼の後ろには、見覚えのない紋章のついた馬車が停まっている。
「クレアシオン王国からの使者です。至急お目にかかりたいと」
現れたのは、深い緑のマントを羽織った壮年の男。
「レイリーン様。私はクレアシオン王国宰相をやっております。突然の訪問、失礼いたします」
「宰相閣下が、このような場所に……何用でしょうか」
「先日、貴国から届いた通商条約の最終案を拝見しました。あの条項の緻密さ、双方の利益を損なわぬ均衡の取り方……あれほどの案を作れる人物は、我が国の外交官の中にもそう多くはありません。作成者はレイリーン様であると伺い、驚きました」
レイリーンは目を見開いた。
「あの案は……確かに私が」
「我が国の王太子、カイエル殿下があの条約案に大変感銘を受けられ、直接お会いしてお礼を申し上げたいと。加えて――」
彼は少し声を落とした。
「貴国での不当な扱いについても、耳に入っております。もしよろしければ、我が国で正当にその手腕を発揮していただけないかと、殿下は考えておられます」
「不当な扱い……ご存じだったのですか」
外交顧問としての仕事は、決して楽ではなかった。だが、彼女はそれを心から誇りに思っていた。
隣国クレアシオンとの通商条約は、両国の農産物流通を活性化させ、飢饉に苦しむ辺境の村々を救うはずのものだった。
その条約案を最後に仕上げたのは、他でもないレイリーン自身だ。
「つい昨晩、ポンコツと断じられた女ですよ」
「隣国とはいえ、これだけの騒ぎです。それに、あの条約案を一目見れば、あなたが『ポンコツ』などという言葉とは無縁の人間であることは、誰の目にも明らかです」
レイリーンの胸に、じんわりと温かいものが広がった。誰かが、自分の仕事をきちんと見てくれていた。それだけで、涙腺が緩みそうになる。
彼女は三年間、誰よりも早く登城し、誰よりも遅くまで執務室に残り、この国のために働いてきた。それなのに。
取り違えられた書類は、フィオナの侍女が意図的に差し替えたものだった。挨拶の順番は、当日になって招待客リストがすり替えられていた。他国の使者への失礼な発言というのは、フィオナが偽造した文書に書かれていた言葉を、レイリーンが読み上げさせられただけのことだった。
すべて、仕組まれたことだ。
けれど、それを証明する術はもうない。証拠となる書類はことごとく処分され、証言してくれるはずだった侍女は、いつの間にか解雇されていた。
「……お受けいたします。この国に、私の居場所はもうありませんから」
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