第89話 砂漠の果てに
砂漠を歩くのは体力を消耗する。
熱砂が足元から熱を送り込んでくる。日差しは容赦なく肌を焼き、水分を奪っていく。だが今のライトには、遺跡での消耗がそこにのしかかっていた。
「大丈夫? 顔が白いよ」
隣を歩くセイラが心配そうに覗き込んでくる。
「歩けてる。それより水をもらえるか」
「もちろん」
セイラが水筒を差し出す。ライトは一口飲んで、少し息をついた。精神世界での消耗は、肉体にも確実に影響していた。《スキル無限》を長時間展開し続けた疲労感が、今になってじわじわと出てきている。
「無理するなよ」
フォルクが後ろから声をかけた。大柄な体で砂漠を歩く姿は、慣れているように見えた。
「砂漠で倒れたら洒落にならん。今日は早めに野営地を作る」
「まだ日が高いが」
「構わん。お前の回復が優先だ」
その言葉は、素っ気ない口調だったが、ライトには確かに伝わった。気にかけてくれているのだ、と。
ナディアが前を歩きながら振り返る。砂漠慣れした足取りは軽い。
「あの遺跡——本当に封印が解けたの? 何も感じなかったけど」
「解けた。でも大きな魔力の解放とかじゃない。ただ……いなくなっただけだ」
「いなくなった?」
「封じられていた存在が、別の場所へ行った。それだけだ」
ナディアはしばらく考えてから、「ふーん」と短く答えた。それ以上は追及しなかった。彼女なりに、聞いてはいけない部分があると察したのかもしれない。
レインが隣に並んだ。いつも静かな少年は、砂漠の中でも落ち着いて見えた。
「お前、あの中で何かと話したんだろ」
断言するような口調だった。ライトは少し驚いて振り返る。
「わかるのか?」
「なんとなくな。お前が戻ってきたとき、顔つきが違った」
「そうか……」
「悲しかったのか?」
不意な問いだった。ライトはしばらく考えた。
「悲しい、というより……」
言葉を探す。砂漠の空が青く広がっている。
「やっと終わりにしてあげられた、という感じだ」
レインは何も言わなかった。ただ、一度うなずいた。それだけで十分だった。
一行が野営に適した岩陰を見つけたのは、それから一時間ほど後のことだった。大きな岩がいくつか重なり、自然の日陰を作っている。風も少し遮られて、砂漠の中では過ごしやすい場所だった。
「ここにしよう」とフォルクが言い、皆が荷物を降ろした。
ナディアが手早く火を起こし、レインが携帯食料を取り出す。セイラはライトの隣に腰を下ろして、もう一度水筒を差し出した。
「ちゃんと飲んで。脱水は砂漠での死因で一番多いんだから」
「知ってるよ」
「知ってても飲まない人いるから言ってるの」
言い返す気力もなく、ライトは素直に飲んだ。セイラが少し満足そうな顔をする。
フォルクが焚き火の前でどっかりと座り、腕を組んだ。
「ライト、一つ聞いていいか」
「何だ」
「お前の力——《スキル無限》とやら。あれはどこまでできる?」
率直な問いだった。ライトは少し考えてから答えた。
「正直、自分でもよくわかってない。使うたびに、思ってなかったことができたり……逆にできなかったりする」
「限界がわからない、ということか」
「そういうことだ」
フォルクはしばらく黙って、炎を見つめた。
「それは怖くないのか?」
ライトは意外に思った。フォルクがそういう問いをする人物だとは思っていなかった。
「……たまに怖い。どこまで行けばいいのかわからなくなる」
「そうか」
それだけだった。フォルクは深く追及しなかった。ただ、その一言が、不思議と胸に刺さった。
夜が来た。
砂漠の夜は冷える。昼間の灼熱が嘘のように、空気が冷たくなっていく。焚き火の周りに五人が集まり、それぞれが毛布を羽織った。
星が多かった。遮るものが何もない砂漠では、空が全部星でできているように見える。
「きれいだな」
ライトが呟くと、セイラが隣で同じように空を見上げた。
「ここに来て初めて、砂漠もいいところあるって思った」
「日中はどう思ってた?」
「地獄」
思わず笑ってしまった。セイラも一緒に笑った。
ナディアが「子どもみたい」と呆れた声で言い、レインが無言でスープを飲んでいる。フォルクだけが、どこか遠くを見ていた。
「フォルク」とライトは声をかけた。「次はどこへ行く?」
フォルクがゆっくりとこちらを向いた。
「エスナルだ」
「エスナル?」
「砂漠の東側にある都市だ。ここら一帯の交易の中心で——ある人物に会いに行く必要がある」
「ある人物、というのは?」
フォルクはしばらく迷うように黙ってから、口を開いた。
「砂漠に伝わる古い話に詳しい研究者だ。封印や遺跡についても知っているらしい。今回の件——遺跡のことも含めて、話を聞いてもらいたいと思っていた」
ライトは少し考えた。
「それはライト——お前にも関係してくるかもしれん」
「俺に?」
「ああ」フォルクは炎を見つめたまま続けた。「お前が今日やったこと。封印された存在を、力ずくではなく——対話で解放した。そういうことができる人間の話が、古い文献に残っているらしいんだ」
全員が静かになった。
ライトは何も言わなかった。焚き火の炎が、ゆらゆらと揺れている。
「急かすつもりはない」とフォルクは言った。「ただ、知っておいた方がいいと思ってな」
「……わかった。エスナルに行こう」
セイラがちらりとライトを見た。何か言いたそうだったが、今は黙っていた。
ライトは空を見上げた。満天の星が変わらず輝いている。
自分の力が何なのか、まだわからない。どこへ向かっているのかも、まだわからない。それでも——仲間がいて、次の目的地がある。それだけで、今は十分だった。
「明日の朝、出発しよう」
フォルクが静かに言い、皆がうなずいた。
砂漠の夜が、静かに更けていった。
翌朝、夜明けとともに一行は動き出した。
砂漠の朝は短い。太陽が昇り始めると、あっという間に気温が上がっていく。その前に少しでも距離を稼ぐのが、砂漠旅の基本だとフォルクが言った。
ライトの体調は一夜で随分回復していた。まだ完全とは言えないが、歩くのに支障はない。
「顔色が戻った」とセイラが言った。
「一晩寝ればだいたい治る」
「それが若さってもんだよね」
「お前も同じくらいの年だろう」
「細かいことは気にしない」
セイラがさらっと流した。ナディアが後ろで小さく笑っていた。
地平線の彼方に、うっすらと建物の影が見え始めたのは、それから三時間ほど歩いたときだった。
「あれがエスナルか?」とライトが聞く。
「そうだ」フォルクが目を細めた。「大きな都市だ。色々な種族が集まっている。気をつけろ」
「何に?」
「何にでもだ」
それだけ言って、フォルクは足を速めた。ライトたちもそれに続く。
エスナルへの道が、砂漠の熱気の中に続いていた。次の街で何が待っているのか——それはまだ、誰も知らなかった。
砂が風に舞い上がり、ライトの頬を撫でた。
遠ざかる遺跡を振り返ることはしなかった。あそこでのことは、もう終わった話だ。幾千年の孤独を抱えた存在は、今頃どこかの海で——自由になっているだろう。
前を向いて、歩く。
それだけでいい。




