後悔
ドォォォン!!
轟音が夜の街へ響き渡る。
廃校。
人気のない校庭。
校舎の外壁は大きくひび割れ、コンクリートの破片が地面へ降り注いでいた。
その中心には。
拳を巨大化させたアダアダが荒々しく肩で息をしている。
「クソォォォッ!!」
怒りのまま、再び拳を振り上げる。
「やめろ」
ラックの低い声が響く。
しかし。
アダアダは止まらない。
ドゴォン!!
巨大な拳が校舎へ叩き込まれる。
窓ガラスが砕け散り、壁が大きく陥没した。
「何故だ!!」
アダアダはラックを振り返る。
「何故邪魔をした!!」
「あと少しだったんだぞ!!」
「クリスタを助けられたんだ!!」
血走った目。
握り締められた拳は震えている。
「それに!!」
「アインやシバまで置いて逃げるなんてよォ!!」
「そんなの怪盗じゃねぇだろ!!」
怒号が校庭へ響く。
ラックは何も言わず、アダアダを見つめていた。
やがて静かに口を開く。
「あの場じゃ無理だった」
その一言に。
アダアダは歯を食いしばる。
「クリスタは人質に取られていた」
「あの状況でお前が暴れれば」
「最初に死ぬのはお前だった」
「……ッ!」
アダアダは言葉を失う。
ラックは続ける。
「あいつはお前を忘れていた」
「そしてお前にとっての大事な存在だと気づかれた」
「だからこそ人質として使われた」
「あそこで感情だけで動いていたら」
「お前は何も出来ないまま殺されていた」
アダアダは拳を握り締める。
爪が掌へ食い込む。
「……アインは」
震える声で呟く。
「あいつは……」
ラックは目を伏せた。
「連れて来られなかった」
「エクラの異常を受けちまった」
「あの状況じゃ俺でもどうにも出来ねぇ」
苦々しく吐き捨てる。
「シバを俺は連れて帰ろうとした」
「でも」
「振り払われた」
ラックは思い出す。
小さな身体。
必死にナインの元へ走る姿。
「シバはアインを守ることを選んだ」
沈黙が流れる。
アダアダはゆっくりと膝をついた。
巨大化していた拳も元へ戻る。
「俺は……」
声が震える。
「何も出来なかった……」
「妹も」
「アインちゃんも」
「シバも……」
地面へ拳を叩きつける。
鈍い音だけが響いた。
ラックはそんなアダアダの隣まで歩く。
そして。
静かに肩へ手を置いた。
「今回は俺らの負けだ」
その言葉にアダアダが顔を上げる。
「盗屋として」
「完全に盗み損ねた」
「だから」
ラックは真っ直ぐ前を見据える。
その瞳には、静かな闘志が宿っていた。
「次は必ず盗り返す」
「クリスタも」
「アインも」
「シバも」
「全部まとめてな」
その言葉を聞いたアダアダは、ゆっくりと立ち上がる。
悔しさは消えない。
それでも。
その瞳には再び前を向く力が宿り始めていた。
-
意識がゆっくりと浮かび上がる。
「……ん」
重たい瞼を開く。
視界に映ったのは見慣れない白い天井だった。
柔らかなベッド。
高級そうな家具。
大きな窓からは朝日が差し込み、部屋全体を優しく照らしている。
「ここ……」
「どこ……?」
身体を起こそうとした瞬間。
頭に鈍い痛みが走る。
「ッ……」
額を押さえながら昨日の出来事を思い返す。
バタフライ本部。
エクラ。
クリスタ。
チェイス。
そして——
「ナイン……」
自分の中で人格が入れ替わった。
チェイスと戦った。
そこから先だけが思い出せない。
その時。
「ワフ」
聞き慣れた鳴き声が部屋に響く。
「……シバ!」
ベッドの横にはシバが座っていた。
アインが目を覚ましたことに気付くと、嬉しそうに尻尾を振る。
「ワフッ!」
「よかった……」
アインは思わずシバを抱き寄せる。
シバも安心したように身体を預けた。
温もりに少しだけ心が落ち着く。
すると。
コンコン。
部屋の扉がノックされた。
「失礼します」
静かに扉が開く。
部屋へ入ってきたのは、一人の女性だった。
赤いコート。
眼鏡を掛けた黒髪。
両手には朝食が乗せられたワゴンを押している。
「お加減はいかがですか?」
穏やかな笑みを浮かべながら部屋へ入ってくる。
アインはその女性を見つめた。
(この人が……)
(クリスタさん)
昨日。
アダアダが涙を流しながら必死に名前を呼んでいた女性。
『クリスタ!!』
『迎えに来たぞ!!』
それなのに。
彼女は怯えた表情で。
『どちら様ですか?』
そう返していた。
その光景が脳裏に蘇る。
(やっぱり……)
(この人もエクラに操られてる)
アインは静かに拳を握った。
「朝食をお持ちしました」
クリスタはワゴンをベッドの横へ止める。
「エクラ様が大変心配されていましたよ」
その名前を聞いた瞬間だった。
胸の奥がざわつく。
『エクラ様』
その言葉が頭の中で何度も響く。
『エクラ様は優しい』
『エクラ様に従わなければ』
『エクラ様のお役に立ちたい』
「……え?」
アインは頭を押さえた。
「私……」
「何を考えてるの……?」
自分の意思ではない。
それなのに。
その考えが当たり前のように浮かんでくる。
クリスタは心配そうにアインを覗き込んだ。
「大丈夫ですか?」
「まだ本調子ではありませんか?」
「エクラ様がお呼びです」
その言葉を聞いた瞬間。
アインの口が勝手に動く。
「……はい」
返事をした直後。
アインは目を見開いた。
(違う……)
(今のは私じゃない……)
(私はラックさん達と一緒に――)
思考がそこで途切れる。
胸の奥から湧き上がる”従わなければならない”という感情が、その意思を押し潰していく。
アインは唇を噛み締めた。
(エクラに……)
(操られてる……)
その事実だけは、はっきりと理解していた。
「それではご案内します」
クリスタは優しく微笑む。
「エクラ様がお待ちです」
アインは無意識に立ち上がる。
その足は止まらない。
「ワフ……」
シバだけが、不安そうな瞳でアインの後ろ姿を見つめていた。
もちろん。重複を削ってテンポを良くしつつ、アインの心情を残した形に修正するとこうなる。
クリスタの後ろを歩きながら。
アインは城の中を静かに見渡していた。
長い廊下。
赤い絨毯。
等間隔に飾られた絵画。
窓の外では黒服の組員達が巡回している。
(ここが……)
(バタフライ本部……)
逃げ道を探そうと自然と視線が動く。
しかし。
『逃げてはいけない』
頭の奥で誰かが囁く。
「ッ……」
思わず足が止まった。
「どうかしましたか?」
前を歩くクリスタが振り返る。
「い、いえ……」
気付けば自然と返事をしていた。
(違う……)
(私は何を……)
再び歩き始める。
考えようとする度に。
頭の中へ”エクラ様”という言葉が浮かんでは消えていく。
やがて二人は一枚の大きな扉の前へ辿り着いた。
クリスタは軽く二度ノックをする。
「エクラ様」
「お連れしました」
「入りなさい」
静かな声が返ってくる。
クリスタはゆっくりと扉を開いた。
部屋の中は広かった。
壁一面の本棚。
大きな机。
窓際には赤いソファ。
その中央では。
赤いコートを纏ったエクラが優雅に紅茶を口へ運んでいた。
エクラはカップを置くと、ゆっくりとアインへ視線を向ける。
「目が覚めたようね」
アインは何も答えない。
答えたくない。
そう思った。
それなのに。
「おはようございます」
勝手に口が動く。
(違う……!)
(私はこんな事を言いたいんじゃない……!)
エクラは穏やかに微笑んだ。
「体調は?」
「問題ありません」
また勝手に返事をする。
アインは悔しそうに拳を握り締めた。
「そう」
「なら安心したわ」
エクラはクリスタへ視線を向ける。
「ありがとう」
「お疲れ様」
「い、いえ!」
クリスタは嬉しそうに頭を下げる。
「お役に立てて良かったです」
その笑顔を見て。
アインは胸が締め付けられた。
(私と同じだ……)
(この人も、エクラに操られてる)
アインは唇を強く噛み締める。
エクラは再びアインへ向き直った。
「あなたには今日からこの城で生活してもらうわ」
「はい」
また勝手に返事をする。
「しばらくはクリスタと行動を共にしなさい」
「はい」
「困ったことがあれば私へ相談して」
「はい」
返事をする度に。
アインの心は少しずつ沈んでいく。
その時。
エクラはアインの足元にいるシバへ視線を向けた。
「その犬」
「随分あなたに懐いているのね」
「……はい」
「好きに飼いなさい」
「部屋から連れ出しても構わないわ」
「ありがとうございます」
再び。
勝手に礼を言ってしまう。
シバは心配そうにアインの顔を見上げる。
「ワフ……」
アインは震える手でシバの頭を撫でた。
その温もりだけが。
まだ自分自身を失っていないと教えてくれる唯一の存在だった。
エクラはそんなアインを静かに見つめる。
「今は私の異常が効いているみたいね」
アインは無言のまま立っている。
昨日、突如として自分の異常を跳ね除けた姿はどこにもない。
「あの時の抵抗は一体何だったのかしら」
エクラは僅かに目を細めた。
そしてクリスタへ視線を向ける。
「しばらくこの子を監視しておきなさい」
「異変があれば、すぐに私へ報告を」
「はい、承知しました」
クリスタは深々と頭を下げる。
「それでは行きましょう」
クリスタはアインへ優しく微笑みかけた。
「こちらです」
アインは自分の意思とは関係なく、その後を歩き始める。
シバも静かにその後ろを付いて行く。
エクラは二人と一匹の後ろ姿を見送りながら、静かに紅茶へ口をつけた。




