第一章5『炎の誓い』
なんでこんなことに……
もう逃げることすら許さない炎、大量の死体と血。そして何より、壊れてしまったさつき。
なんで、なんで、なんで、なんで、なんで、なんで……
「ねぇ、ユウキ?」
どうすれば良いのかも分からず、立ち尽くすだけの俺に、場違いな程美しい声が響いた。
鈴の音のように美しい声で、さつきは金髪を掻き揚げながら言う。
「なんでそんな顔、してるの?」
「それはこっちのセリフだ!」
俺の顔は、恐怖や怒り、悲しみで、ぐちゃぐちゃになって、確かに酷い有り様なんだろう。『そんな顔』と言えるくらい酷いのだろう。
でも分かる。この状況なら、おかしいのはさつきだ。こんな状況で、笑える方が狂っている。
「えー、どういうこと? 分からないなー、私」
「なんで笑ってんのかって聞いてんだよ! なんで、なんで、なんでなんだよ!」
分からない、分からない! 普通じゃない、狂ってる。死が近くにあるのに、どうして。
地面には死体が転がって、血が満たされて、いるだけでも吐き気がするのに。
今にも火が触れて、体が燃えてしまいそうなのに。
「だからー、楽しいからだって!」
「……楽しい?」
耳を疑う。いや、本当は分かっていた答え。無意識に拒否していた。
そうだ、さつきはどんな時でも笑顔を崩していない。出会ったときからずっと。いや今は、もっといい笑顔にも見える。
でもそんなこと、認めたくない、認められるわけがないのに。
「うん! すっごく楽しい! 私、これが本当に楽しみだったんだー」
本当に楽しそうに、さつきは俺の周りを、顔を覗くように、ゆっくりと歩く。一歩一歩と彼女が歩く度に、血溜まりが震える。
彼女にはこの光景が見えていなくて、全てが俺の妄想、違うものを見てしまっている、そんなことを考えてしまう。
でも現実なんだ。
でも分からない……
「何が、楽しいんだ……? だって、こんなの……」
「えー、さっき言ったの聞いてなかったのー? こんなステージで踊るなんて初めてなんだよ! 本当、ワクワクしちゃうよ!」
言いながらさつきは踊ってみせた。炎の中で揺れる金色の髪。火の粉が舞う。
火の妖精だと言われれば、誰もがすぐ信じるだろう。美しい。ただ、この妖精は火で死んでしまう。
人だから、いつしか灰になる。
「馬鹿じゃねぇのか!? このままじゃ死ぬぞ!」
死ぬ。たった二文字の言葉が、今はとにかく重い。すぐにも現実になってしまう、普段なら非現実的なこの言葉。
きっと、さつきはまだ理解していない。そうじゃなきゃ、こんなに楽しげにいられる訳はない、と思っていた。
「うん! そうだね、死んじゃうね! ふふふふ」
理解していないのだと思いたかった。だが、彼女の言葉に否定された。死ぬという言葉に不釣り合いな、笑い声に。
「なんでなんだよ!? 死ぬのが嫌じゃないのかよ!」
呼び止められたようにさつきは止まって、首をかしげた。心底不思議だとでも言いたげな、きょとんとした顔で。
「どうして嫌なの? ユウキは嫌なの?」
「っ! 当たり前だろ! 怖いし悲しい。死ぬなんて最悪だ!」
人が死ぬことの、喪失感を知っている。何もなくなってしまうことがどれだけ辛いか、俺は知っている。
自分が死ぬことも、さつきが死ぬことも嫌だ。怖い。
炎に焼かれて消えることが、どれだけ辛いのか、怖い。
「だからさつき、頼むから……死ぬなんて、言わないでくれよ」
何とか、何とか紡いだ声。必死で、死に物狂いで、だけど絶対に死にたくない、死んでほしくないから。
吐きそうなこんな場所で、吐き出した言葉。だがそれでも、さつきの耳には届かないのか?
さつきはまだ、笑っている。
「ねぇ、ユウキ。『カナシイ』って何?」
「…………え?」
「だから、カナシイって何なのって聞いてるの。それがユウキが死にたくない理由なんだよねー? 怖いのは楽しいじゃん? 嫌な理由にはならないよ」
何を、何を言っているんだ?
その言い方は、赤石が『江戸』や『金属』が分からなかったことを思い出させる。
けれど、それとこれとじゃ話が違う。江戸や金属なら文明、歴史の違いで良いのだろう。
でも悲しみは、心はそんな話では済まされない。
「……悲しいは悲しいだろ? 悲しさのことだよ、心が痛くなることだよ!」
悲しみがなければ、悲しみを知らなければどうなるのか、知りたくもない。
だってなかったら、心の痛みを感じないのなら、きっと。
「うーん、分からないなー。聞いたことないし、第一、心は痛くなんてならないんだよ?」
「嘘だ。悲しみが分からないなんてあるのかよ!」
心の痛みを感じない。鋼の精神って本当はこういうことを言うのか? いや違う、違う、違う!
死すら嫌とは思えない。死すら笑ってしまえるなんて。
生きているなんて言えないだろ!
だが、どこまで行っても届かない。
さつきは俺の手を、やっぱり笑いながら、手を取った。
「ふふふ。やっぱりユウキは変わってる。あなたみたいな人は見たことないからさぁ」
嫌だ嫌だ嫌だ。そんな顔をしないでくれ。
「最後の、最期のダンス。最高の舞台で最高のパートナーと踊れること、最高に楽しいから! 」
最期なんて言わないで。
「しゃるうぃーだんす? こう言うんだって、聞いたことあるよ」
今、欲しいのは笑顔じゃないんだ。
「さぁ、踊ろうか!」
「…………。…………、……」
両手を繋いで、さつきは俺を振り回す。くるくる回る、くるくる回る。
火も血も、さつきも、全てが夢だったら良かったのに。
夢だったら、ここまで悲しくならないのに、心は痛くならないのに。
俺はただ、さつきに死んで欲しくないだけなのに……!
「どうしたの? なんでユウキ、目から水が出てきてるの?」
涙が溢れる。止まらない。いや、今は止めちゃ駄目なんだ。
滴になって飛散していくこれは、ただの水じゃないんだ……!
唇を噛んで、思いっきり足に力を込めて立ち止まった。自然、さつきの動きも止まる。
ボロボロ落ちる涙を隠さずに、叫んだ。
「だって! だって、だって! 俺は、悲しいがら、泣いでるんだ、心が痛いがら、泣いでるんだ! 死んで欲じぐないがら、泣いでるんだよ! 頼むから、お願いだがら、死ぬなんで言わないでぐれよぉ!」
喉が悲鳴を上げる。けど、そんなことはどうでもいい。
「生ぎでいれば、絶対にもっど楽じいから!」
さつきが生きてくれるなら、俺はどうなったっていい。何もかもが揺らいで見える視界の中、二つの青い瞳だけが、真っ直ぐ見つめてくることだけが、分かった。
「うーん、どうしてそんなことが分かるのー? 最高に楽しいこの瞬間を逃して、もっと楽しいことがあるってなんで言えるの?」
それは怒りなのかもしれない。悲しみを感じない中で、ただ楽しいことだけを求める少女の怒り。
「私は楽しいことがしたいだけ! 今より楽しいなんてあるとは思えないなー」
でも、だからって死んでいいことにはならない。
『未来よりも過去よりも、今を楽しめ』なんて言葉を、恨む。それは筋違いの、言いがかりなんだろうけど。
未来に向かって笑って欲しいんだ。
涙を無理やり断ち切った。
「っ! そんなの分かるんだよ! 俺がお前の隣にいる限り、絶対に生きてた方が楽しいって約束するから! だから死ぬな、俺と一緒に生きろ! 例えこの一瞬が楽しかったからなんだよ! 俺はこれからお前に何百、何千、何万倍楽しいことをさせてやるから、最高の毎日を作ってやるから!」
「だから……生きてくれ、俺と一緒に、生きてくれよ……」
自分でも、何を言っているのか分からない。心に口がついたみたいに、思ったことがそのまま飛び出た。
静かになる。
聞こえるのはやけにうるさい心臓の音と、炎の声。
どんどんと勢いを増していく。死は近づいてくる。
終わりを感じていた、死を確信した。もう駄目なんだって思った。さつきには届かないんだって、自分の力を呪った。
そんな長い、長い沈黙の後だった。
さつきが、笑った。
「ふふふ、あはははは! やっぱりユウキは面白い! 何の確信もないくせに、よく言えるよ! 面白すぎる!」
けれど、さっきとは違う笑いだった。
「そんな面白いユウキが言うんだから、間違いなく面白くなるって私が確信しちゃったじゃん! 今この瞬間より、絶対楽しくなるって分かっちゃったよ! だから私は、ユウキのために生きてみるよ!」
炎に照らされているからか、赤く染まって見える頬。ピンクの浴衣。
もう見慣れたあの顔を、さつきはさらに爆発させて歯を光らせた。
「…………え?」
「何してるの、早くこっちきて、よっと」
一瞬理解が遅れた俺は、柔らかいクッションに押しつけられる。強引に頭をつかんで、抱き抱えられた。そして理解した。
さつきが、生きるって言ったんだ……!
息がしづらいけれど、幸せだ。さつきが、生きることを選んで、嬉しかった。
「こんだけの炎となると大変だけど、やってやりますか!」
覚悟が決まった、そんな声。強く心を揺さぶる声がした。
さつきは左手で俺の頭を押さえたまま、右手を前に突き出す。そして何故か、足が地面から離れた感覚がした。
顔が、胸から解放されて。見ればそこにはとてつもない光景。
「なんで浮いてんだよ!?」
「浮かないと範囲分かんないじゃん」
馬鹿なの? とでも言いたげな表情で言われた。いやでも突然、自分が空高く浮かんでたら、普通びびる。
黒い煙の遥か上まで、羽も助走も使わずに飛んでいた。死体も家も小さく見える。
「それに、ここからだったら思いっきりやれる!」
さつきの右手が光っていく。青い光に包まれていく。
赤い炎も黒い煙も灰色の雲も、全てが霞む光を、掲げた右手が放つ!
「紅蓮寂滅大津波!」
さつきが勢いよく降り下ろした右腕から、青白い光の柱が出現。そして、地面に叩きつけた。
超音速でぶつけられたその柱から、大量の水塊が溢れていく。
溢れた水は、巨大な波となる。きっと、世界の終わりには、こんな津波が来るのだろう。
あらゆる法則を無視する、常識を飛び越えた力。
魔法の水は激しい音を放ち、炎も建物も、全てを飲み込んでいった。