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オーガ(妻)に尻を敷かれてます。  作者: 平木明日香
第一章 強すぎる妻×尻に敷かれる夫
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第3話 オーガにとっての理想の男




「…で、お前の奥さん最近どうなんだよ?」


朝一番の訓練場でそんなことを聞いてくる男にろくなやつはいない、と俺はわりと本気で思っているのだが、残念ながらこの王国にはそういう“朝から他人の家庭事情に土足で踏み込むことに一切のためらいを持たない連中”が一定数存在していて、しかもその手の人種ほど妙に面倒見が良かったりするから、単純に無視もできなくて困る。


声のした方を振り向けば、案の定、木剣を肩に担いだまま半笑いでこちらを見ているのは、同じ第三外征警邏隊付きの前衛兵、ガレスだった。年齢は俺より五つほど上。背は高いし体格もいいし、剣の腕もそれなりに立つくせに、口を開けば八割が軽口、残り二割が余計なお世話という、ある意味ものすごく兵士らしい男である。王都育ちのくせに妙に下町臭いところがあって、訓練場でも詰所でも酒場でも態度が変わらず、良く言えば人懐っこい、悪く言えば馴れ馴れしい。


俺は朝露に湿った訓練場の端で、魔力刻印の入った練習用短杖を腰に差し直しながら、できるだけ面倒が広がらない返答を選ぶことにした。


「最近どうって、普通だよ。いたって平和。何の問題もない」


「嘘つけ。そういう顔じゃねえ」


「どういう顔だよ」


「寝不足と欲求不満と家庭内の発言権不足が混ざった顔」


「最後のやつまで顔に出るなら俺もう王都で生きていけないんだけど」


言った瞬間、近くで槍の素振りをしていた若手連中がぶふっと吹き出した。やめろ、笑うな。お前らはまだ独り身だから面白がっていられるんだ。結婚生活というのはもっと複雑で、もっと地味で、そしてときどき妙な角度から心を削ってくるものなんだぞ。俺がそういう目で見返すと、連中は「いや失礼しました」と言いつつ全然反省していない顔で素振りを再開した。くそ、他人事だと思って。


王国の朝は早い。


少なくとも王都西区の軍務街、それも俺みたいな“戦場では前線の一歩後ろで術式維持しつつ、必要があればそのまま前にも出される便利屋枠”に属している人間にとっては、日が高くなってからのんびり支度、なんていう優雅な暮らしはまず望めない。王都アスベルグは中央の白城を囲うように幾重もの城壁と街区が広がる大都市で、王宮区、貴族区、商業区、職人区、平民街、河港区、軍務街と、それぞれの色がはっきり分かれている。俺が主に出入りしている軍務街は、その名の通り兵舎や厩舎、倉庫、鍛冶場、資材庫、医務棟、訓練場、戦術局分室なんかが集まった、朝から晩まで鉄と革と汗の匂いが消えない一帯だ。石畳は丈夫だが無骨で、建物は実用一点張り、通りを歩く人間も兵士か従軍職か役人が多い。華やかさはないが、国が武力と物流で成り立っている現実をいやでも感じる場所である。


俺の所属は、正式には王国軍西方警備軍団第三外征警邏隊付特殊支援班。長い。覚えろと言われても困るくらい長い。要するに、西寄りの辺境任務や魔物対処、街道警備、現地調査なんかに駆り出される警邏隊にくっついている、術者と技術屋の混成班だ。人数は少ないが仕事の幅は広く、付与術士、治癒術士、結界補助、魔導具整備、記録係まで一通り揃っている。俺はその中で付与術担当。剣や槍、防具、荷車の車軸、時には門扉にまで強化や耐久付与を施すし、戦闘になれば前衛への身体強化、緊急時の自分への自己強化、撤退時の後衛補助までやる。便利だろう? 便利すぎて休みがないんだよ。


もっとも、王国にとって付与術士というのは昔から“数が少ないのに必要性が高い”という厄介な立場で、特に俺みたいなエンフィールド家の出なら、使えるかどうかを試される前に「使える前提」で話が進む。エンフィールドは代々、魔力の流路制御と物質への術式定着を得意とする家系で、剣士や騎士ほど目立たないが、戦争のたびに裏方として重宝されてきた。幼い頃からお前は王国の役に立つのだと聞かされて育ち、実際に素養があったものだから、反発するより先にその道を歩いてしまった。気づけば王国の兵舎で寝起きし、気づけば出征名簿に名前が載り、気づけば同年代より少しだけ昇進していた。客観的に見れば恵まれている。家柄も技量もあって、王国からも評価されて、若くして役付き兵。十分すぎるだろう。十分すぎるのに、家へ帰れば最強の妻にお小遣いの内訳を確認されるのだから、人生とは不思議なものである。


「で、実際のところどうなんだよ」


素振りを終えてこちらへ近づいてきたガレスが、汗を拭いもせず木剣の切っ先で俺の靴先をつついてくる。朝から距離感がおかしい。


「普通だって言ってるだろ」


「普通の男は、支給の革手袋を左右逆に着けてから黙々と付与刻印を書き直したりしねえんだよ」


「……あれはちょっと考え事してただけ」


「奥さんのことか」


「なんでそうなる」


「そりゃお前、最近ずっとそんな顔してるからな。任務中はまだいい。働いてる間は頭がそっちに切り替わるんだろう。だが空き時間になると急に深刻そうな顔をし始める。既婚者がその顔をする時は、だいたい家庭か金か夜のどれかだ」


「分類が雑すぎるだろ」


「で、どれだ?」


「……」


「全部か?」


「なんでちょっと嬉しそうなんだよお前」


ガレスはにやにやしている。こいつは本当に質が悪い。だが質が悪いくせに、完全に悪意だけで言っているわけでもないから余計に始末が悪い。こっちが口をつぐんでいると、近くの武器台にもたれかかっていた治癒術士のミレナまで会話に混ざってきた。班付きの治癒術士で、年齢は二十代後半くらい。いつも気怠そうにしているくせに、いざ怪我人が出るとものすごく手際がよく、しかも色恋沙汰になると妙に耳が早い。


「また奥さん関連? あなたたち本当に飽きないわね。クロードもいちいち顔に出しすぎなのよ」


「そんな出てるか?」


「出てる。だって今のあなた、術式書庫で難解な古文書を前にしてる時より難しい顔してるもの」


「比較対象がおかしい気がするんだが」


「私は好きよ、その顔。真面目に悩んでる男って感じで」


「やめろ、こいつに変な自信をつけるな」


ガレスが割って入り、俺はげんなりする。なんなんだこの職場は。もう少しこう、朝の訓練後らしい、すがすがしい仲間意識とかないのか。いや、ないな。第三外征警邏隊は全体的に雑多で現場慣れした連中が多く、真面目一辺倒より、多少癖があっても腕が立つやつが残る傾向にある。上官も「生きて帰ってこい。規律はその次だ」と公言するような人だし、その空気が隅々まで染みているのだろう。おかげで実地では頼もしいが、日常会話はたいてい荒っぽい。


訓練のあとは簡単な班別確認があり、その後、俺は補給倉庫脇の付与作業棟へ回った。作業棟と言っても大仰なものではなく、厚い石壁と高窓のある広めの建物に、長机、術式盤、魔力測定器、金属部材の棚、薬液樽が並んでいるだけの無骨な空間だ。だが俺にとってはここが一番落ち着く。術式盤の上に置かれた短剣の柄へ、耐久補助と切れ味維持の簡易刻印を流し込みながら、俺は朝から続いている頭の中のもやもやをどうにか仕事で薄めようとした。


――結局、あの“行ってきますの口づけ”はまだ一度も実行されていない。


前話のあの会話のあと、俺は正直、かなり浮かれていた。いや、そりゃ浮かれるだろう。あのサクラが自分から、しかもわりと素直に、「増やしてもいい」などと言ったのだ。言質である。これはもう歴史的譲歩だ。俺はその晩から翌朝にかけて、表に出さないよう必死にしながらも、内心では完全に“近いうちに夫婦関係の甘さが少し回復するかもしれない”という期待に胸を膨らませていた。


だが人生というのは、期待を抱いた人間に対して妙に現実的な調整を入れてくる。


翌朝は娘が早起きしてばたばたし、次の日は俺の早番、その次はサクラの買い出しと近隣対応、そのまた次は俺が早朝から遠征準備、その合間に娘が熱を出しかけて二人とも寝不足になり、ようやく少し落ち着いたかと思えば、今度は俺が王都西門外の演習護衛に駆り出された。つまり忙しかったのだ。夫婦の甘い約束など、現実の生活の前では簡単に後回しになる。もちろんそれ自体は仕方ない。子供がいればなおさらだ。だけど一度意識してしまった以上、宙ぶらりんのまま日々が過ぎていくのは妙に落ち着かないというか…


朝、支度を終えて玄関先で靴を履く。サクラが娘を抱いて見送りに来る。目が合う。一瞬だけ「今か?」という空気になる。だが次の瞬間、娘が「ぱぱー」と腕を伸ばし、俺は頬を緩めてその小さな手を取る。サクラはサクラで、娘の荷着を整えながら「遅くなるなら先に連絡しろ」と現実的なことを言う。結果俺は「行ってきます」と言い、サクラは「気をつけろ」と返し、それで終わる。いや、いいんだよ? 十分夫婦らしいし家族らしいよ? でもだな、一度“可能性”を提示された男の心というのは、そんなに簡単に元の平静には戻れないのである。


短剣一本を終え、次は槍の石突きに耐摩耗付与を施す。魔力の流れは安定している。作業は順調だ。順調すぎるほどに順調だけど、頭の中だけが順調じゃない。


サクラのことが好きだ。そこには疑いがない。好きだからこそ、もっと距離を詰めていきたいと思う。結婚して子供が生まれて、家族としての関係が太く強くなった今だからこそ、恋人としての細い糸も完全には失いたくない。そう考えるのはおかしいことじゃないはずだ。だが同時に、俺は知っている。オーガと人間では、そもそも文化的な価値観も考え方もまるで違うということを。


人間の夫婦は少なくとも王都でよく見る限り、役割分担や家のしきたりこそあれ、愛情表現についてはわりとわかりやすい。街を歩けば腕を組む夫婦もいるし、屋台でひとつの串を分け合っている恋人たちもいる。子供を挟んで笑い合う家族も珍しくない。貴族街の上品な夫婦はまた別の慎み方をするが、それでも“二人の時間を大事にする”という価値観は共通しているように思う。しかしサクラたちオーガの文化は違う。以前、彼女の口からぽつぽつ聞いた限りでは、あちらでは甘い言葉や細やかな気遣いより、どれだけ相手を信頼し、どれだけ共に生き残れるかの方がはるかに重要らしい。そもそも寿命からして違う。オーガは人間よりずっと長く生きる。個体差はあるが、人間の倍近く生きる者も珍しくないそうだ。時間の流れ方が違うのだ。子供に対する向き合い方だって違う。数が少なく、育つまでに時間がかかるぶん、オーガは子を非常に大切にする。ひとたび家族と認めれば、その単位はかなり重い。逆に言えば、一度家族になった相手には、“愛しているかどうかをいちいち確認する”という発想自体が薄いのかもしれない。


理屈ではわかる。


わかるのだが、感情というのは理屈だけで整頓できない。こっちは人間だし、二十三歳だし、わりとまだ若いし、妻のことが好きで、しかもその妻が見た目も中身もとんでもなく魅力的なオーガ美女なのだ。距離が近づきそうで近づかない、でも嫌われているわけではない、むしろ愛されているらしい、ただ忙しい、だけど触れ合いは減った――みたいな状況に置かれたとき、頭のどこかが妙に落ち着かなくなるのはもう仕方ないだろう。


「で、そんなに下半身が疼くんなら、娼館で抜いてもらってくればいいじゃない」


昼の休憩時、詰所裏の日当たりのいい石段に腰を下ろして携行食を齧っていた俺に、ミレナがあまりにも自然な口調でそう言い放ったとき、危うく喉を詰まらせるところだった。


「はっ!?」


「だから、処理だけの話なら娼婦でも相手でも何でも使えばいいでしょうって言ってるの。あなた真面目すぎるのよ」


「そんな馬鹿な真似できるわけねーだろ!」


「だろうなとは思った」


横でガレスが笑いを噛み殺しながらスープを啜っている。てめえ、絶対面白がって話振っただろ。


「俺が悩んでるのはそういうことじゃないんだよ!」


「でも多少はそういうことでもあるんでしょう?」


「うっ……」


痛いところを突くなこの治癒術士。治癒だけに。いや上手くないな今のは。


「いい? 私は別に浮気を勧めてるわけじゃないの。ただ、あなたの悩み方があまりにも“生真面目な夫”そのもので面倒だから、乱暴に切り分けてるだけ。肉体的な欲求の問題なのか、夫婦としての関係性の問題なのか、自己肯定感の問題なのか、そこをごっちゃにしてるから余計にややこしくなるのよ」


ミレナはそう言って、携行用の小瓶に入った酸味の強い果実酒をひと口だけ飲んだ。勤務中にそれでいいのかと思わなくもないが、この女は常に少しだけ世の中を舐めている節がある。


「……たぶん、全部少しずつある」


俺が正直に答えると、ガレスが「ほら見ろ」と笑ったので睨んでおいた。


「でもな、娼館とか、ありえないだろ。そんなの余計に拗れるだけだし、第一サクラに知られたら俺は比喩じゃなく死ぬ」


「物理的に?」


「まずそこだろうな」


「じゃあやめときなさい」


「だから最初からやらねえって言ってるだろ!」


そうやってあしらいながらも、俺の頭のどこかでは別の意味でサクラとの夜のことが思い出されてしまっていたのだから、自分でも現金なものだと思う。


新婚の頃のあの妙に熱っぽくて、手探りで、でも勢いのあった夜の時間。互いに加減を覚え、距離を覚え、触れ方を覚えていったあの頃。抱き寄せるたびに、彼女の身体が見た目以上に熱を持っていることとか、普段あれだけ堂々としているくせにふとした瞬間だけ妙に息が浅くなることとか、名前を呼ぶ声が思いのほか低くて近いこととか、そういうどうでもいい細部まで思い出そうとすれば案外すぐ浮かんでくる。


だめだだめだ。


俺はぶんぶんと頭を振った。なに昼休憩の詰所裏で妻との夜を思い出してるんだ。真昼間だぞここは。しかも周囲に同僚いるし、これから午後の業務だぞ。理性を持て、王国兵士クロード・エンフィールド。


「なによ急に首振って。変な虫でも入った?」


「入ってない。余計な記憶を追い払ってるだけ」


「へえ」


ミレナがにやりとした。しまった。今の言い方は失敗だった。


「まあでも、そこまで奥さんのことばっか考えてるなら、普通に愛してるんでしょうね。良かったじゃない」


「良かったじゃない、で済むなら苦労しないんだよ」


「じゃあ何がそんなに引っかかってるの?」


その問いに、俺は少し黙った。


何が、か。


それはたぶん、結局のところ、サクラが俺のどこを好きだったのかがいまだによくわからないことなのだと思う。


もちろん俺たちは出会って、互いに惹かれ合って、紆余曲折あって結婚した。そこに偽りはない。サクラが俺を選んだという言葉だって聞いた。愛されていないとは思わない。だけどそれでもなお、根っこの部分で引っかかるのだ。彼女は俺のどこを見て“こいつでいい”と思ったのだろう、と。


俺は彼女より弱い。


この事実は動かしようがない。人間の男としては平均より鍛えている方だし、兵士としてもそこそこやれる。付与術で強化すれば前線にも立てるし、実戦経験もある。しかしサクラと比べれば話は別だ。あいつは生まれつきの頑丈さ、桁違いの筋力、戦士としての勘、場数、全部が人間離れしている。腕力勝負なら論外。取っ組み合いでもたぶん負ける。真正面からの打ち合いでも、長期戦になればまず勝てない。じゃあ知略か? 理屈か? 術か? そういう部分では俺に分があるかもしれないが、オーガの女が男に求める“強さ”って、たぶんもっと直感的で根源的なものだろう。


以前、サクラから聞いたことがある。オーガの女は、自分より強い男についていくのが基本だ、と。


その時は「へえ、随分はっきりしてるんだな」くらいにしか思っていなかった。だがいま改めて考えると、かなり重大な情報である。自分より強い男についていく。それが向こうの婚姻観、あるいは恋愛観の根底にあるのだとしたら、俺は何なんだ。どう見てもサクラより強くない。むしろ家庭内序列でいえば下の方だ。腕力は完敗。喧嘩になっても最終的に制圧される。寝技に持ち込まれたら終わり。そんな男が、オーガの女に選ばれる理由って何だ?


「……たぶん、その顔のせいね」


ミレナが突然そう言ったので、俺は現実へ引き戻された。


「は?」


「だから今の顔。すごく真剣に“自分は何が良くて選ばれたんだろう”って悩んでる顔。そういうところじゃない?」


「どういうところだよ」


「真面目なところ。ちゃんと考えるところ。投げ出さないところ。あと、意外と家事できるところ」


「最後急に生活感がすごいな」


「でも大事でしょ。結婚ってそういうものじゃないの?」


それはそうかもしれない。だが納得しきれない俺に、今度はガレスが口を挟んだ。


「オーガの女が強い男につくってのは、たしかにそういう傾向あるらしいな。昔、北境の駐屯地にいた頃、半オーガの古参兵がそんなこと言ってたわ。あいつらの基準でいう“強い”は、人間のそれと少し違うとも」


「違う?」


「単純な腕力だけじゃねえってことだろ。たぶん」


「たぶんで言うなよ」


「だって俺オーガじゃねえし」


それはそうだ。


ただその“違い”が何なのかは気になる。気になりだすと止まらない。午後の業務で出征用の鎧二着に軽量補助の刻印を仕込みながらも、頭の片隅ではずっとそのことを考えていた。


オーガにとっての理想の男。


それはどういうものなのか。


単純に強い男。獲物を仕留め、家族を守り、群れを率いる男。サクラがかつていた部族のような環境なら、たぶんそれが正解に近いのだろう。力があり、判断が早く、迷わず、背中を預けられる男。では俺はどうだ。力は負ける。判断は迷う。考えすぎる。背中を預けられるかどうかで言えば、術者としてならまだしも、純粋な戦士としてはどうだろう。自信はない。


けどもしそれだけで決まるなら、そもそも俺たちはこうなっていない。


サクラは俺を選んだ。家族になった。子供を産み、王国で暮らす道を選んだ。それはつまり、“自分より強い男についていく”という単純な掟だけでは説明できない何かが、俺と彼女の間にあったということだ。


ではその何かとは何だ。


術か。知恵か。しぶとさか。執着か。誠実さか。


もしかすると全部かもしれないし、まったく別のものかもしれない。


そんなことを考えながら夕方近くに作業棟を出ると、軍務街の向こうで鐘が鳴っていた。王都の空は高く、城壁の上を風が流れていく。遠くでは白城の尖塔が夕日に照らされ、河港区の方からは荷車の軋む音と商人たちの怒鳴り声が混ざって聞こえる。人の多い都だ。身分も種族も仕事も違う人間が、それぞれの事情を抱えて生きている。そんな中で、俺はたぶんかなり変わった家庭を築いている。王国兵士の人間男と、元部族有力者のオーガ女。しかも子持ち。冷静に考えると、物語にしたらだいぶ盛ってる設定だ。だがその現実を、俺はいまさら手放す気はない。


詰所に戻る途中、倉庫前で荷運びをしていた半獣人の兵站員たちが、でかい樽を三人がかりで転がしていた。そういえばこの王国も、昔に比べればだいぶ変わった。人間が多数ではあるが、近年は半獣人や山岳民、亜人系の職人なんかも増えてきている。軍にも補助要員として入ってくるし、街でも見かける。もちろん差別も偏見もまだ強い。それでも、昔よりは少しずつ混ざり始めている。サクラと俺の関係だって、そういう時代の変わり目だからこそ成立した面があるのだろう。いや、成立させたという方が正しいか。どちらにせよ簡単な道じゃなかった。


夜番との引き継ぎ前、俺は上着を羽織りながら、ふと思い立ってガレスに声をかけた。


「なあ」


「なんだよ、珍しく神妙な声出して」


「お前、さっき言ってた半オーガの古参兵って、誰のことだ?」


ガレスは少し考えてから、ああ、と頷いた。


「二番隊の退役組にいたドーランって爺さんだよ。いまは西区の鍛冶通り近くで道具屋やってるはずだ。片目潰れてるでかい爺さん。あの人、母親がオーガだったとかで、そっちの話に妙に詳しかった」


「詳しいって、どの程度」


「婚姻観とか、部族の流儀とか、そういうの。昔酒飲みながら聞かされたことがある」


「……そうか」


ガレスが急ににやりとした。


「なんだ、奥さんの文化でも勉強しに行くのか?」


「悪いか」


「悪くはねえよ。むしろ今さらかよとは思うが」


「うるさい」


たしかに今さらだ。だが今さらだからこそ、知りたいこともある。


サクラに直接聞けばいい、というのはもちろん正論だ。だが、本人に向かって「なあ、お前って俺のどこが良かったの?」と真正面から聞くのは、かなり勇気がいる。いや、聞けなくはない。たぶん聞けばサクラは答えてくれる。けれど、その答えを真正面から受け止める準備が、今の俺にあるかどうかが怪しい。だったら少し遠回りでも、文化や価値観の輪郭を知ってからの方がいいかもしれない。


家に帰れば娘がいて、サクラがいる。夕餉の支度をして風呂を沸かし、明日の支度を整え、また忙しく一日が終わるだろう。その中で俺はたぶん、相変わらず少し悩む。行ってきますの口づけは、明日もたぶんタイミングを逃すかもしれない。サクラは相変わらず忙しくて俺も任務でくたびれて、娘は元気いっぱいで、二人だけの時間なんて簡単には作れないだろう。


それでも、だからこそ知りたいのだ。


オーガにとっての理想の男とは何か。


その理想から見て、俺はどこに立っているのか。


そしてサクラはなぜ、そんな俺の隣を選んだのか。


たぶんその答えを知ったところで、急に家庭内権力が回復したりはしない。サクラの腕力が弱まるわけでもないし、俺の小遣い報告制度が消えるわけでもない。現実は現実だ。だけど自分が何者として妻の隣にいるのか、その輪郭を少しでも掴めたなら、いまよりもう少しだけ胸を張って家に帰れる気がする。


王都の西門へ続く石畳の道を歩きながら、俺は冷え始めた夕方の風を吸い込んだ。


――とりあえず今夜は、娘を寝かしつけたあとで、サクラの横顔をちゃんと見よう。


そしてできれば、少しだけ近くに座ろう。


それで何かが劇的に変わるわけじゃないとしても、そういう小さなことの積み重ねでしか、夫婦の距離なんて詰まらないのかもしれない。


まあ、そこでうっかり昔の夜のことなんか思い出して変な顔をしたら、また「どうした、腹でも痛いのか」と真顔で心配されるのが関の山なんだろうけど。


……いや、本当に、オーガにとっての理想の男って何なんだよ。

そこを知らないままこの先ずっと夫を続けるの、わりと怖いんだけど。


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