第2話 夫としてのアイデンティティとは
妻は、果たして俺のことを愛してくれているのだろうか――などという、既婚三年目の男としてはあまりにも湿っぽく、しかも口に出した瞬間に自分で自分の背中へ塩を擦り込みたくなるような疑問が休日の昼下がりになると不意に頭をもたげてくるのは、単に俺が小心者だからなのか、それとも“夫婦とはこうあるべき”みたいな世間一般に流通しているふわっとした価値観と、うちの現実との間に微妙な段差があってそこに毎回つまずいているだけなのか、正直なところ自分でもよくわからない。
だってそうだろう。サクラはもともと頬を染めながら腕に抱きついてきたり、語尾に甘さを乗せて愛情を表現したりするようなタイプではないし、なんなら出会った当初から“好意を示す動作”と“相手を制圧する動作”の境目が著しく曖昧な女だった。しかも彼女はただのオーガじゃない。部族の中でもかなり上の立場にいて、下手をすれば次期の長になっていてもおかしくなかったようなやつである。そんな戦士社会の頂点側にいた女に対して、人間社会でいうところの“妻らしさ”だの“奥ゆかしい家庭的ふるまい”だのを期待すること自体が、そもそも見当違いなのかもしれない。そう思えばいまの我が家の構図、つまり俺が家計簿を付け、洗濯物を干し、台所に立ち、娘の昼寝のタイミングを読んで湯を沸かし、その背後でサクラが腕を組みながら「うむ、よくやっている」とでも言いたげな威厳を漂わせている現状も、種族と文化の違いが生んだ自然な帰結なのだと、無理やり納得できなくもない。
――なくもない、のだが。
それでもやっぱり、昔みたいな何気ないスキンシップとか、どうでもいいことで笑い合う時間とか、寝る前に他愛もない会話をだらだら続けて、結局どっちからともなくくっついて眠るみたいな、ああいう“恋人だった頃の空気”がもう少し残っていてもいいんじゃないか、と寂しく思ってしまうのは仕方ないだろう。いや、別にやましい考えがあるわけじゃないぞ。本当にない。最近めっきりそういう雰囲気になってないとか、だからといって俺がどうこう欲求不満であるとか、そういう低俗で直球な話をしたいわけじゃないんだ。そうじゃなくて、結婚して、子供が生まれて、生活の中心が“ふたり”から“家族”に変わっていくと、恋人時代に当たり前みたいにあった距離感が、急に手の届かないものになってしまったように感じる瞬間があって、そのときにふと、あれ、俺たちってちゃんとまだ“好き合ってる夫婦”なんだよな?と確認したくなる、あの感じだ。わかるだろうか。わかってほしい。というか、この手の感情を説明している時点でだいぶ面倒くさい男なのは自覚しているが、それでも俺は自分の名誉のために言っておきたい。俺が欲しいのは、刺激じゃない。安心だ。夫として愛されているという、具体性のある安心である。
それをことさら意識するようになったのは、たぶん、半年以上サクラの手料理を食べていないという事実に気づいてしまったあたりからだと思う。
いや、待ってほしい。これには事情がある。彼女に料理の才能がないとか、そういう単純な話じゃない。ないわけではないが、ゼロではない、ただし致命的に力加減が大雑把なだけだ。以前、肉を焼いてくれると言って台所に立ってくれたことがあったのだが、鉄鍋を握る手に無意識の戦闘テンションが入っていたせいで、取っ手が途中でねじ切れた。別の日には、野菜を刻むと言って包丁を持ったものの、「この程度なら手でいける」と判断したらしく、キャベツ一玉が一瞬で“刻む”ではなく“粉砕する”に近い状態になった。さらにその次は、煮込み料理に挑戦してくれたのだが、火加減の概念が彼女の中では“弱”“中”“強”ではなく“まだ足りない”“ようやく本気”“戦場”の三段階で構成されていたため、鍋の底が赤くなった。台所でだ。金属がだ。赤くなったのである。結果として、家計と安全と将来を守るため、料理は俺の担当になった。これは合理的な分担であり、誰が悪いわけでもない。だがそれでも、“妻の手料理”という響きには、理屈では割り切れない何かがある。病気のときに作ってもらう粥とか、少し焦げた目玉焼きとか、味はともかく“自分のために作ってくれたもの”の象徴みたいなやつだ。そういうの、ちょっとくらい食べたくなるだろ。夫として。人として。
洗濯だってそうだ。昔は「私もやる」と言ってくれていたのに、いまでは完全に俺の係である。なぜそうなったかといえば、これもまた不運と力加減の問題が重なった結果で、ある日サクラが勢いよく洗濯物を絞ったところ、シャツが二枚、雑巾のような細長い布へと生まれ変わってしまったからだ。本人は心底申し訳なさそうにしていたし、「次はもう少し優しくやる」と反省もしていたのだが、その“もう少し優しく”の基準が、荷馬車を押すときに使う力の八割程度だった時点で、俺は静かに悟った。あ、これは役割分担の問題じゃない、生存戦略だ、と。
とはいえ、役割分担が進めば進むほど、俺の中で妙な違和感も育っていく。休日に少し横になっていただけで背後から殺気に似た何かを感じ、「昼寝をするのは構わんが、その前に娘の玩具を片づけろ」と低い声で告げられると、俺はもはや家の中で気を抜く権利すら限定的にしか認められていないのではないかと不安になる。いや、実際には彼女は正しいのだ。玩具を踏めば危ないし、片づけは親の仕事だし、俺がごろごろしていたのも事実だ。だがその正しさが、毎回“鬼の副長”みたいな圧を伴ってやってくるので、心の準備が追いつかないのである。
そういう日々の積み重ねの果てに、俺は最近、ひとつの極めて重大なテーマへと突き当たった。
すなわち、夫としてのアイデンティティとは何か、という問題である。
夫の役割とはなんだ。家族を養うことか。守ることか。支えることか。精神的な柱であることか。あるいは家庭内での最終判断を下す存在であることか。人によって答えは違うだろうし、別に正解がひとつとは限らない。でも、少なくとも俺が子供のころに思い描いていた“夫”という生き物は、もう少しこう、頼られ、慕われ、必要とされ、場合によっては「あなたがいてくれてよかった」などと言われる側だった気がする。ところが現実の俺はどうだ。娘には懐かれている。そこは間違いない。ご飯を食べさせるのも、寝かしつけの歌を歌うのも、絵本を読むのも俺は上手い。だが妻に関して言えば、必要とされているのか、便利に使われているのか、その境目が最近ちょっと曖昧になってきている気がしてならない。
このままではいけない。
いや、別に革命を起こすつもりはない。家庭内で決起して主導権を取り戻そうとか、そんな命知らずなことを考えているわけじゃない。俺はそこまで愚かではないし、腕力差と体格差と威圧感の差が絶望的であることもよく知っている。ただ、せめて確認くらいはしたいのだ。サクラが俺のことをどう思っているのか。夫として、男として、家族として、ちゃんと愛してくれているのかどうか。その実感がほしい。
で、その答えを探そうとすると、どうしても思い出すのは俺たちの始まりのことだった。
俺がサクラと出会ったのは、三年前、港町リーネへの遠征任務の最中だった。当時の俺はまだ二十歳で、王国の特殊支援兵としてようやく名前が知られ始めた頃だった。付与術士の家系に生まれ、幼いころから徹底的に魔力制御と術式理論を叩き込まれ、その才能を王国に見出されて引き上げられ、気がつけば王国軍の中で“便利で代えの利きづらい若手”という、たいへん都合のいい立場に収まっていた。前線に出れば武器にも防具にも人間にも強化をかけ、足りない戦力を術で埋め、作戦が狂えばその穴埋め役に回る。要するに、評価は高いが扱いは雑、というやつである。
その頃、王国では魔物の行動活性化が問題視されていて、とくに辺境の交易路を荒らす事例が増えていた。リーネは海運と陸路の中継点として栄える町で、物流が多いぶん、魔物や盗賊に狙われやすい。俺たちは現地調査と警備体制の確認、それから一部地域に出る大型個体の動向把握のために派遣された。任務そのものは重かったが、遠征先の空気は意外に悪くなく、特にリーネは荒っぽいながらも活気のある町だった。港には潮の匂いが満ち、荷運び人夫たちの掛け声が響き、酒場では昼間から騒がしい笑い声が飛び交っていた。辺境の町というのは、王都の整った街並みとは違う生々しさがあって、俺はわりと嫌いじゃなかった。
問題は、その日の夜に連れて行かれた酒場である。
「王国兵士が来たぞ!」という一言で場が妙な盛り上がり方をし、なぜか歓迎の一環として腕相撲大会が始まったのだ。いや、歓迎とは何か。腕相撲で歓迎される文化圏を俺はそれまで知らなかったが、港町では珍しくもないらしい。酒と腕っぷしで相手を見る、実にわかりやすい土地柄だ。周囲も「兵士さん、やれるんだろ?」「王都仕込みの腕ってやつを見せてみろ」と好き勝手に煽ってくるし、同行していた連中も面白がって俺を前に押し出すしで、若さと見栄の塊だった俺は、売られた勝負を買ってしまった。
最初の数人には勝った。港の力自慢程度なら、付与術を使わずとも訓練で鍛えた身体とコツでなんとかなる。歓声も上がったし、少し気分も良かった。だが、酒場の奥の席でどっと笑いが起き、重たい足音とともに現れた一団を見た瞬間、俺は悟るべきだったのだ。あ、これは歓迎の締めに出てくる裏ボスだ、と。
そこにいたのが、サクラだった。
長い緑髪を無造作に後ろへ流し、片角を照明に光らせながら、面倒くさそうな顔で杯を置く姿は、正直その時点で妙に目を引いた。背が高い。いや、高いなんてもんじゃない。座っているのに威圧感がある。立ち上がったらたぶん俺より頭ひとつ近く高い。しかも、ただ大きいだけじゃない。無駄がなく引き締まっていて、戦うためにできた身体だと一目でわかる。俺はその時点で若干気圧されていたのだが、周囲が「サクラ!やれ!」「そいつ王都の兵士だぞ!」と囃し立てるものだから、彼女は面倒そうに片眉を上げ、それから「壊しても知らんぞ」とだけ言って席に着いた。
いま思えば、その時点で逃げるべきだった。
だが当時の俺は、兵士としての意地と、若い男特有のしょうもない負けん気と、あと“女にだけは負けたくない”という、いま振り返ると顔を覆いたくなるような未熟なプライドをこじらせていた。だから真正面から受けて立った。
結果だけ言えば、俺の腕は三秒ももたなかった。
握った瞬間にわかったのだ。あ、これ人間が勝負していい相手じゃない、と。腕相撲というのは相手の力を受け止め、角度を作り、体重を流し込む駆け引きのある競技だと思っていたのだが、サクラと対峙したあの一戦だけは違った。あれは競技ではない。災害である。目が合った次の瞬間には、俺の手の甲は机に沈み、周囲は大歓声、俺は何が起きたかわからないまま、ただ指先の痺れだけで敗北を理解した。
屈辱だった。情けなかった。悔しかった。だが同時に、信じられないほど胸が熱くなったのも事実だ。人間離れした力を持ちながら、それを見せびらかすでもなく、勝って当然みたいな顔でただ杯を傾けるその横顔に、俺は妙に目が離せなくなっていた。
だからそのまま終わればよかったものを、俺は続けて飲み比べを挑んだ。
いま考えても意味がわからない。腕で負けたから酒で勝つ、という発想も意味がわからないし、相手が辺境育ちのオーガである時点で、酒に強いに決まっているだろうという予測が働かなかった当時の自分の知性も疑わしい。ただ、負けっぱなしでは帰れないと思ったのだ。彼女に“こいつは大したことがなかった”と思われるのが、なぜだか無性に嫌だった。
で、まあ、当然のようにそれも負けた。
あれは飲み比べというより、俺が順調に沈んでいく様子をサクラが静かに観察する会だった気がする。彼女は顔色ひとつ変えず、強い酒を水みたいに流し込み、俺が何か言うたびに「まだいけるのか」「案外しぶといな」と淡々と返してきた。途中から俺は完全に意地で飲んでいたのだが、いつの間にか会話そのものが楽しくなってきていた。任務のこと、王都のこと、リーネのこと、魔物のこと。サクラは寡黙だが、聞けばちゃんと答えるし、ときどき皮肉っぽく笑う。その笑い方が妙に綺麗で、俺は酔いの勢いを借りながら、どんどん彼女に引き込まれていった。
気づけば日付が変わっていた。
気づけば周りの連中はだいぶ引いていた。
気づけば、俺たちは宿の部屋にいた。
そこから先のことを、俺は“酒の勢いだけだった”と片づけるつもりはない。もちろん最初の一歩に酒の勢いがなかったとは言わない。なかったら嘘になる。ただ、それだけでは説明がつかない種類の熱が、あの夜の俺たちの間には確かにあった。手を伸ばしたのはどちらが先だったか、もう細かくは覚えていない。けれど、彼女の指先が思いのほか慎重だったことや、あれだけ豪胆に見えるのに、自分から深く踏み込む瞬間だけ妙に息を詰めていたことは、いまでも鮮明に覚えている。オーガの女に抱かれるなんて言い方をすると誤解を招きそうだが、実際あの夜のサクラは、強引さよりもむしろぎこちなさの方が目立っていた。力のある彼女は、俺に触れるたび壊れ物でも扱うみたいに加減していて、その不器用さが、逆にたまらなく愛おしかった。
翌朝、頭痛と羞恥と混乱の中で目を覚ました俺は、隣で髪を結い直していたサクラを見て、本気でどうしようかと思った。気まずい。だが逃げるのも違う。責任感とか誠実さとかいう以前に、単純にもう一度会いたかった。だから俺は、我ながら驚くほど素直に、「また会えるか」と聞いたのだ。
サクラは一瞬だけ目を見開き、それからそっぽを向いたまま、「お前が死ななければな」と答えた。
それが俺たちの始まりだった。
そこから先は、わりと怒涛だった。
俺は任務の合間を縫ってリーネに通った。サクラは気が向けば会ってくれたし、気が向かなければ普通に待たされた。港の倉庫街を案内されたこともあれば、海沿いの崖で風に吹かれながら長々と無言で並んだこともある。彼女はべたべたした恋人らしい振る舞いをほとんどしなかったが、そのかわり、俺が来ることを当然みたいに受け入れていた。そこに安心した。俺も最初は彼女の気まぐれに振り回されているだけだと思っていたが、何度か会ううちに、それが彼女なりの“許している距離”なのだとわかってきた。オーガと人間では、距離感の作り方そのものが違うのだ。
人間社会では、恋人になるまでに段階がある。誘って、話して、距離を縮めて、手をつないで、確かめて、言葉にする。けれどサクラたちの文化では、どうやら“相手を戦士として認めること”と“自分の領域に入れること”が、かなり大きな意味を持つらしかった。言葉で甘く囁くことより、背中を預けるとか、傷を見せるとか、食事を分けるとか、そういう行為の方が信頼の証に近い。だから初めて彼女が自分の部族の話をしてくれたとき、初めて肩にもたれて眠ったとき、初めて俺の前で無防備に笑ったとき、そのどれもが俺には、花束百本よりよほど価値のあることに思えた。
もちろん、周囲の目は簡単ではなかった。
人間とオーガの関係なんて、珍しいどころかまともに歓迎されるものではない。王都ではなおさらだ。オーガといえば、力が強く、気性が荒く、時に人里を脅かす魔物寄りの種族として語られることもある。実際、辺境では衝突の歴史も長い。全部が全部間違っているわけじゃないし、サクラ自身も若い頃にはかなり武闘派だったらしい。だが、種族全体をひとくくりにして“危険”と決めつけるのは違う。そんなの、付与術士の家系に生まれたというだけで“冷たくて打算的な連中”と見られる俺からしても、腹立たしい話だった。
それでも、王国側はいい顔をしなかった。俺は使い勝手のいい兵士だったし、そんな俺が辺境のオーガ女と深い仲になっているというのは、上から見れば面倒以外の何物でもない。家の方も似たようなもので、エンフィールド家の親類筋からは遠回しに、あるいはまったく遠回しでもなく反対された。血筋がどうとか、立場がどうとか、子がどうとか、まあ聞き飽きるほど言われた。だがサクラは、そういう時ほど意外なくらい静かだった。怒鳴り込むでもなく、力で押し切るでもなく、ただ「お前が決めろ」と俺に言った。自分を選べとも、やめろとも言わない。ただ、選ぶのはお前だと。
あの時ほど、俺が自分の意思で立った瞬間はなかった気がする。
結局、俺は王国に残りつつも彼女との関係を貫く道を選んだ。上に頭を下げ、面倒な書類を揃え、必要な実績を積み、余計な口を黙らせるために働きもした。正直しんどかった。だがそのたびに、サクラが「お前は本当に面倒なことばかり引き受けるな」と呆れながらも、俺の傷に黙って薬を塗ってくれたり、夜道を隣で歩いてくれたりしたから、なんとかやれた。
新婚の頃は、それはもう、いま思い返しても妙にくすぐったいくらい、俺たちなりに甘かった。
サクラは相変わらず素直に甘えるのが苦手だったが、そのかわり、夜になると妙に近い場所にいるようになった。眠るときに肩が触れる距離へ来たり、俺が本を読んでいると無言で膝を預けてきたり、朝起きると腕の中に収まっていたりする。最初のうちは、彼女がそういう行動をとるたびに俺の方が緊張してどうにかなりそうだった。だってあのサクラだぞ。昼間は大男を睨み一発で黙らせるような女が、夜になるとやけに静かに寄ってきて、しかも本人はそうしている自覚が薄いのだ。反則にも程がある。
もちろん、夫婦としての夜の時間だってちゃんとあった。そこを変に隠しても仕方ないだろう。とはいえ、だからといって色気のある話ばかりだったかといえば、まるでそんなことはない。最初の頃は本当に大変だったのだ。何が大変って、彼女の力加減である。サクラ自身は慎重なつもりなのだが、こちらからすれば“慎重”の基準がおかしい。抱きしめられて肋骨が不安になることもあったし、勢い余って寝台の脚が折れたこともある。しかも本人は心底申し訳なさそうにして、「次は壊さないようにする」と真顔で宣言するのだが、その“次”でも結局別のものが壊れる。テーブルだったり壁だったり俺の理性だったり。そういう意味で、新婚期の俺たちは非常に勉強熱心だったと思う。どうすれば安全に、穏やかに、そしてちゃんとお互いを感じ合えるのか、いちいち手探りだった。だが、だからこそよかったのかもしれない。彼女が俺に触れるたびに加減を学び、俺も彼女の不器用さを受け止める術を覚えた。ぎこちなさごと近づいていく感じが、確かにあった。
子供ができたのは、結婚してしばらくしてからだ。
その報せを聞いた時のサクラの顔を、俺はたぶん一生忘れない。驚いていた。心底驚いていた。いつもの堂々とした表情がきれいに消えて、目だけが大きく揺れていた。それから彼女は、自分の腹にそっと手を当てて、しばらく何も言わなかった。俺も何も言えなかった。嬉しいとか、不安だとか、守らなきゃとか、いろんな感情が一度に押し寄せてきて、言葉にすると逆に薄まってしまいそうだったからだ。結局そのとき最初に口を開いたのはサクラの方で、彼女は少し掠れた声で「……私でいいのか」と言った。
あんなの、反則だろう。
強くて、揺るがなくて、何でも自分で叩き伏せて進んでいくような女が、あのときだけは本気で怯えていた。オーガと人間の子がどう育つのか、周囲がどう見るのか、自分が母親になれるのか、たぶんいろんな不安があったのだと思う。だから俺は、柄にもなく、でもたぶん人生でいちばん迷いなく「お前がいいんだ」と言った。そうしたら彼女は、少しだけ泣きそうな顔で笑った。
そこから先、サクラは母になっていった。
戦う時の鋭さはそのままに、子供に触れるときだけ世界一慎重になる様子が、いまでも信じられない。あの手で、あの力で、小さな身体を壊さないよう細心の注意を払うのだ。最初は抱き上げるだけでもおっかなびっくりだったくせに、いまでは寝かしつけのために不器用な子守歌まで歌う。歌詞がところどころ戦場帰りみたいに勇ましいのはどうかと思うが、娘はそれでも安心した顔で眠る。そういう光景を見るたびに、俺はこの家庭を守りたいと思うし、同時に、俺の居場所はここでいいのだと感じる。
――感じる、のだが。
だからこそ、なおさら不安になる瞬間がある。
母としてのサクラは、疑いようもなく最高だ。家族を守るという一点において、彼女ほど信頼できる存在はいない。戦士としても、妻としても、母としても、不器用ながら真っ直ぐだ。だがその一方で、“俺の恋人だったサクラ”はどこへ行ったのだろう、と考えてしまう時がある。夜、娘を挟んで三人で寝ていると、たしかに幸福だし温かい。けれど、あの頃みたいに二人きりで話し込み、くだらないことで笑い、ふと触れ合って、そのまま距離が縮まっていくような時間はずいぶん減った。生活の密度が増したぶん、夫婦としての余白が減ったのだろう。わかっている。わかっているのだが、寂しいものは寂しい。
つまり俺はたぶん、夫としての役割だけじゃなく、恋人だった頃の自分の居場所まで見失いかけているのだ。
そんなことを、俺は居間で干した洗濯物を畳みながら延々と考えていた。なんでこんな場面で人生観をこじらせているんだ俺は。もっと他に考えることがあるだろう。明日の任務予定とか、家計の見直しとか、娘の靴の買い替えとか。なのに頭は勝手にぐるぐる回って、最終的に「俺はこの家で何担当なんだ?」という身も蓋もない問いに辿り着いてしまう。料理担当、洗濯担当、家計管理補佐、寝かしつけ補助、そして時々王国兵士。並べると便利すぎるな俺。
すると、そのタイミングで背後から低い声がした。
「さっきから難しい顔をしているな。術式でも組んでいるのか?」
振り返ると、サクラが腕を組んで立っていた。娘は彼女の足元で木の積み木を並べている。昼の光を受けた緑髪が静かに揺れ、金の瞳がまっすぐこちらを射抜いてくる。こういうとき毎回思うが、家の中にいてその存在感はずるいだろう。
「いや、別に術式じゃない。……ちょっと考え事をしてただけだ」
「ふむ。お前の考え事は大抵ろくでもない」
「ひどくないか?」
「外れることは少ない」
ぐうの音も出ない。だが今日はここで引き下がるわけにはいかない。俺は一度息を整え、畳みかけのシャツを膝に置いたままできるだけ平静を装って口を開いた。
「なあ、サクラ」
「なんだ」
「俺たちって、さ」
そこまで言って、一瞬だけ喉が詰まる。なんでだろう。戦場で魔物相手に術を維持しながら突っ込む時の方がよほど冷静でいられるのに、どうして自分の妻にこんな質問をするだけで心臓が嫌な音を立てるのか。…我ながら情けない。だが、ここで逃げたらまた同じことを繰り返すだけだ。
「……俺たちって、ちゃんと夫婦円満なのかな?」
言ってしまった。
俺は言ってしまったぞ。
その瞬間、サクラは本気で意味がわからないという顔をした。驚きでも怒りでもなく、“何をどうするとその質問になるんだ”という純粋な困惑である。やめろ。そんな顔をされるとこっちが勝手に恥ずかしくなるから。
「なんだ、急に」
「いや、急というか……その、ほら。最近あんまり、こう……昔みたいな感じでもないし」
「昔みたいな感じ?」
「だから、なんというか……会話とか、スキンシップとか、二人だけの時間とか……」
最後の方はかなり声が小さくなった。自分で言っていて恥ずかしい。どういう顔で聞けばいいんだこれは。サクラはしばらく黙ったあと、視線を少しだけ逸らしながら珍しく言葉を選ぶように口を開いた。
「……お前は、足りないのか」
「言い方!」
娘がいる前でそのざっくりした要約はやめろ。違う。いや違わない部分もゼロではないが、そういう直接的な話だけをしているんじゃない。俺が慌てて首を振るとサクラは一度小さく息を吐いた。その表情は少しだけ、困っているように見えた。
「私は……その手のことをうまく言葉にするのが得意ではない」
「それは知ってる」
「お前と一緒にいるのが当たり前になってから、なおさらだ。お前は毎日ここに帰ってくるし、娘は笑うし、飯はうまいし、布団は温かい。だから私は、それで足りていると思っていた」
胸の奥が、少しだけ変な音を立てた。
それは甘い台詞ではない。恋人同士みたいな洒落た言葉でもない。でもサクラらしい、ひどく不器用で、正直な答えだった。
「足りてる、って……」
「足りている。だが、お前が足りないなら、話は別だ」
そう言って、彼女は少しだけ眉を寄せた。
「私は、結婚する前のお前も知っているし、夫になってからのお前も知っている。どちらも私にとって大事だ。……その、何だ。お前が寂しいと思っていたなら、気づかなかった私が悪い」
そこまで言われてしまうと、逆にこっちが参る。ああもう、ずるいな本当に。そういうところなんだよ。普段は圧で人を黙らせるくせに、いざこういう場面になると真正面から不器用に刺してくる。
「……いや、悪いってほどじゃないんだけど」
「だが実際、お前は不満だったのだろう」
「不満というか、不安というか……確認したかっただけだ」
「何を」
俺は少し迷ってから、観念して言った。
「その……ちゃんと、愛されてるのかなって」
言った。とうとう言ってしまった。死にたい。穴があったら入りたい。けれどサクラは笑わなかった。からかいもしなかった。ただ数秒黙って、それから娘の頭をぽんと撫で、俺の正面まで歩いてきた。
「クロード」
名前を呼ばれる。
「私は、お前を選んだ」
低く、静かな声だった。
「部族を捨てたわけではない。誇りも捨てていない。だがその先で、お前と生きる方を選んだ。毎日ここへ帰ってくるお前を待つ方を選んだ。お前の子を産み、家族になる方を選んだ。それでもまだ、足りんのか」
…おいおい、そんな言い方はずるいだろ。
俺が答えに詰まっていると、サクラはほんの少しだけ視線を和らげた。それからたぶん彼女なりに最大限の譲歩なのだろう、ぎこちなく俺の頭に手を置いた。“撫でる”というには少し重いが、確かに優しい手つきだった。
「……行ってきますの口づけくらいなら、増やしてやってもいい」
「え」
「ただし、“たまには”だが」
「え、いや、そこはもちろん――って、増やしてもいいのか?」
「お前がそんな顔をするならな」
そんな顔ってなんだ。どんな顔だ。いやたぶん相当情けない顔をしていたのだろうが、それでも俺はさっきまで胸の中でぐるぐるしていたあの薄暗い不安が、少しずつほどけていくのを感じていた。
夫としてのアイデンティティとは何か、なんて、たぶんまだ答えは出ない。俺は最強の妻を持ち、家庭内ではわりと押され気味で、家事スキルだけが妙に上がっていく二十三歳の王国兵士だ。理想の“夫像”とはたぶんだいぶ違う。それでもサクラは俺を選び、俺も彼女を選び続けている。その事実だけは、何があっても揺らがないのだろう。
……まあ、その直後に娘が「ちゅー!」と元気よく叫び、俺たちふたりが同時に固まったせいで、結局その日の“増やしてもいい口づけ案”は実行されずじまいだったのだが。
それでも、悪くない休日だった。
少なくとも俺は、その日の夕方、洗濯物を取り込む足取りが朝より少し軽かったし、夕食の席でサクラが珍しく「今日のスープはうまい」と二度も言ったのを、しっかり覚えている。
たぶん夫婦ってやつは劇的な何かより、こういう小さな確認の積み重ねでできている。
そして俺は今日も思うのだ。
やっぱり尻には敷かれている気がするが、まあ、愛されてはいるらしい(多分…)。




